第25話 宝の持ち
高城兄妹が島川をあとにした頃、早川留美も自分のデスクへ戻っていた。
先ほどまでの不安そうな表情は、もうどこにもない。
涼介から『キノの旅』を休載するつもりはないと約束してもらえた。
それだけで、彼女にとっては十分すぎるほど嬉しい出来事だった。
ちょうど会議へ向かおうと席を立った服部拓也は、鼻歌交じりに戻ってきた早川留美を見かける。
「時雨沢には会えたのか?」
「はい。先生なら、もうお帰りになりました」
「それで、わざわざ直接話したかった用件というのは?」
早川留美は隠すことなく、高城涼介が凌乃に付き添って新作を持ち込みに来ていたこと、そして本人から事情を聞いたことを、一つひとつ説明した。
話を聞き終えた服部拓也は、小さく息をつく。
「これが今の出版業界だ」
「小説より漫画のほうが市場規模も大きく、競争力もある」
そう前置きしてから、静かに続けた。
「とはいえ、時雨沢でも簡単には通らないだろう。そのほうが、むしろいい」
「小説に専念してくれるなら、それが一番だからな」
「えっ?」
早川留美は驚いたように目を丸くした。
「服部さんは、時雨沢先生のことをそんなに信用していないんですか?」
朝はあれほど、高城涼介を漫画編集部へ取られることを心配していたではないか。
服部拓也はゆっくり頷いた。
「お前も読んだだろう。あの作品を」
「今の漫画市場は、まだまだ低年齢層が中心だ」
「『キノの旅』は、ある意味では児童向けの枠から外れている」
「時雨沢の作風が、そのまま斎藤の好みに合うとは限らない」
少し間を置き、続ける。
「それに、小説家なら誰でも漫画原作を書けるわけじゃない」
「最初から私が心配していたのは、外からの誘惑で進むべき道を見失い、本来やるべき創作がおろそかになることだ」
服部拓也にとって、この年齢で『キノの旅』を書き上げた高城涼介は、紛れもない創作の天才だった。
編集者の怠慢で、その才能を余計な方向へ逸らしてしまう。
それは担当編集者としての職務放棄に等しい。
「でも私は……」
早川留美は小さく呟く。
「時雨沢先生なら、きっと大丈夫だと思います」
声は小さかった。
それでも服部拓也の耳には、はっきり届いていた。
彼は眉をひそめる。
「勘か?」
「はい!」
早川留美は力強く頷いた。
「私は時雨沢先生を信じています!」
先ほど交わした会話を思い返す。
高城涼介には、不思議な自信があった。
相手が誰であっても揺らぐことのない、静かな確信。
その姿を見ていると、不思議と「この人なら大丈夫だ」と思えてしまうのだ。
服部拓也は心の中で小さくため息をついた。
それ以上、何も言わない。
湯飲みを手に取り、そのまま会議室へ向かって歩き出した。
(こういうことはな)
(本人が一度痛い目を見て、初めて理解できるものだ)
服部拓也は、直感というものを信じない。
編集者の力量とは、市場をどれだけ理解しているか。
そして、担当作家をどれだけ理解しているかで決まるものだ。
決して、勘や思い込みではない。
「もし直感だけでいいなら、編集者なんて必要ないだろう」
◇
漫画編集部。
斎藤律は自分専用のデスクへ戻り、『カードキャプターさくら』の原稿を何度も眺めていた。
まるで宝物でも手に入れたように、表情が緩んでいる。
その様子を、給湯室でお湯を注いでいた同僚の野村秀夫が見つけた。
「おい斎藤」
野村は笑いながら声をかける。
「ずいぶん浮かれてるじゃないか」
「伊織から、もうすぐ終わるヒット作を引き継いだだけで、そんなに嬉しいのか?」
伊織刹那の騒動は、編集部ではとっくに知れ渡っている。
野村も当然知っていた。
少し前までは、『月魔女変身』の実績を引っ提げ、副編集長まで昇進するのではないかと言われていた人物だ。
「公の場で叱責される前には、取り入ろうとする編集者までいたほどである。
「気をつけろよ」
野村は小声になった。
「伊織は今こそ問題児扱いされてるけど、しばらくすれば落ち着くだろう。来年には何事もなかったように昇進してても、おかしくない」
「お前が引き継いだ『月魔女変身』なんて、もう価値はほとんど残ってないさ」
湯飲みを持ったまま隣へ腰を下ろす。
二人は社内でも付き合いが長く、こうして内緒話をすることも多かった。
「そんなことは分かってる」
斎藤律は吹き出した。
「伊織刹那には、後ろで山崎のジジイがついてるからな」
「おいっ!」
野村秀夫は慌てて斎藤の口を塞ぐ。
「そういうことを大声で言うな!」
「編集長に文句があっても、もう少し場所を選べよ!」
「だからお前は、いつまで経っても昇進できないんだ!」
斎藤は白い目を向け、その手を払いのけた。
「だから何だ」
「俺は見てみたいだけさ」
「あのジジイが、いつまで俺を押さえつけられるのかをな」
野村は苦笑した。
昔から、この男は何一つ変わらない。
真っ直ぐすぎる性格なのだ。
二人はほぼ同じ時期に島川へ入社し、担当編集者になった。
気づけば、もう八年近い付き合いになる。
野村自身は特別優秀というわけではない。
爆発的なヒット作を育てた経験もなく、堅実ではあるが目立たない編集者だった。
だが斎藤律は違う。
新人を見る目は鋭く、これまで何本ものヒット作を世に送り出してきた。
それでも昇進できない。
原因は、この遠慮のない物言いだった。
編集長を敵に回せば、会社で出世するのは極めて難しい。
昇進査定では直属上司の評価が大きな比重を占めているからだ。
野村も、それが理不尽だとは思っていた。
だが二人とも後ろ盾などない。
だからこそ、自分は波風を立てずに生きてきた。
「お前も少しくらい頭を下げればいいのに」
野村はぼやく。
「伊織刹那みたいに、あのジジイに媚びを売れって?」
斎藤律は露骨に顔をしかめた。
「出世のためなら何でもやる。そんな真似、俺にはできない」
会社の制度が腐っていることくらい、自分でも分かっている。
どれほど無能な上司でも、部下は従わなければならない。
人事権を握られているからだ。
――だから従え?
冗談じゃない。
斎藤律は、そんな理屈には絶対に屈したくなかった。
「お前ってやつは……」
野村秀夫は額へ手を当て、説得を諦める。
「能力があるからまだいいものの、普通ならとっくに会社を追い出されてるぞ」
その言葉に嘘はなかった。
斎藤律が育ててきた数々のヒット作こそが、彼にとって最大の免罪符だった。
編集長も簡単には切れない。
だから昇進だけを止める。
それが唯一できる嫌がらせなのだ。
「今年は、ちょっと面白くなるかもしれないぞ」
斎藤律は机の上に置いた原稿を軽く叩き、野村へ意味ありげな笑みを向けた。
「何言ってるんだ」
野村は立ち上がりながら首を振る。
「『月魔女変身』の完結企画なら、とっくに承認済みだろ」
彼は、斎藤が作品を立て直す話をしているのだと思っていた。
斎藤なら、その実力はある。
しかし、伊織刹那が引き継ぎ前に完結案を提出し、すでに上層部の承認も下りている。
今さら覆すことなど不可能だ。
「違う」
斎藤律は笑った。
「『月魔女変身』の話じゃない」
「ん?」
野村秀夫は足を止める。
「お前、いつ新作なんか担当した?」
「最近、新人なんて回ってきてないはずだぞ。仮にいたとしても、お前には来ないだろ」
「まさか持ち込みか? 運が良かったな」
斎藤律はニヤリと笑い、原稿を軽く振って見せた。
「山崎のジジイは、厄介事を押しつけたつもりなんだろう」
「でも、おかげでとんでもない宝を拾った」
野村秀夫は改めて原稿を見つめる。
それは『月魔女変身』の完結原稿ではなかった。
初めて目にする新しい作品だった。
「『カードキャプターさくら』……」
「あの天才少女漫画家の新作か」
「しかも、また魔法少女もの?」
どこか疑わしそうな声だった。
このジャンルは、今や編集部では飽和状態と見なされている。
しかも斎藤自身、これまで魔法少女ものにはあまり興味を示してこなかった。
「そのとおり」
斎藤律は原稿をひらひらと振ったあと、すぐに書類袋へしまい込む。
「おい、見せてくれよ」
野村秀夫が身を乗り出す。
「それに、このLAMPって誰だ? 業界で聞いたこともない名前だぞ」
好奇心が完全に刺激されていた。
斎藤律の見る目は信用している。
ここまで浮かれる以上、この作品には何か特別なものがあるはずだ。
「いいところに気づいたな」
斎藤律は意味深に笑う。
「月例会になれば、お前も嫌でも読めるさ」
「おい、焦らすな!」
「この野郎!」
野村秀夫は思わず悪態をついた。
「ふっ」
斎藤律は得意げに眉を上げる。
同僚が悔しそうな顔をするのを見ているだけで、少し愉快だった。
「よく見てろ」
斎藤は口元を吊り上げる。
「月例会が終わる頃には――山崎のジジイも、さすがに肝を冷やすことになる」




