第24話 契約と確信
(認めたくないって、どういう意味だ?)
斎藤律にはよく分からなかった。
だが、高城凌乃がこれ以上話したくなさそうにしているのを見て、深くは追及しなかった。
(兄だというなら、このLAMPというのは高城涼介のことか?)
それでも、斎藤律の中にはわずかな疑念が残っていた。
高城涼介は、本当に時雨沢恵一ではないのか。
高城凌乃の答えだけを聞けば、違うということになる。
しかし、長年編集者として働いてきた勘が、服部拓也は何かを隠していると告げていた。
(服部のやつ、俺に作家を取られないよう警戒してるのか? それとも、わざと勿体ぶってるだけか?)
いずれにせよ、この原稿を読めば何か分かるだろう。
斎藤律は『カードキャプターさくら』の原稿をめくり、物語を読み始めた。
◇
今の漫画業界において、魔法少女ものはすでに定番化しつつある。
目新しさを出すのが難しく、下手をすればありきたりな作品にしかならない題材だ。
だが、斎藤律が手にしている作品は違った。
三話目の終盤へ差しかかった頃には、胸の奥からじわじわと興奮が湧き上がっていた。
原稿をめくる手が、次第に速くなる。
一ページにつき、目を走らせるのはほんの一瞬。
内容を捉えると、すぐさま次のページへ移っていく。
五話分を読み終えるまで、わずか五分ほどしかかからなかった。
斎藤律は原稿を最初のページへ戻し、両手で持ち上げると、机の上で軽く叩いて束を揃えた。
(もう読み終わったの?)
(あいつより速いじゃない。まさか……通らないの?)
高城凌乃は一気に不安になった。
涼介の物語に問題がないことは、彼女自身が誰よりも分かっている。
『カードキャプターさくら』のネームを最初に読んだのは凌乃だ。
読み始めると止まらなくなり、最後まで目を通したあとも、続きが気になって仕方がなかった。
物語に問題がないのなら――悪いのは作画ということになる。
先ほど前作の欠点をはっきり指摘されたばかりということもあり、凌乃の自信は急速に揺らいでいった。
「少々お待ちください、高城先生。もう一度、読ませてください」
斎藤律の声からは、感情が読み取れなかった。
高城凌乃の返事を待つことなく、再び二ページ目を開く。
凌乃は首を傾げた。
一度すべてに目を通したのに、なぜもう一度読むのだろう。
もしこの場に経験豊富な漫画家がいれば、斎藤律の言葉が何を意味するのか、すぐに分かったはずだ。
担当編集者のもとには、毎日のように大量の原稿が持ち込まれる。
限られた時間で内容を判断するため、速読は必須の技術だ。
そして、編集者が同じ作品を二度読むとき。
それは多くの場合、その作品にじっくり味わうだけの価値があると判断したときだった。
斎藤律は物語の中へ深く入り込み、今度は十数分かけて、最初から最後まで丁寧に読み直した。
自分の判断が間違っていないことを確認する。
(テンポが完璧だ)
(毎話の終わりに、必ず続きを読ませる引きがある)
漫画が成功するうえで、これは極めて重要な条件だ。
だが、その基本を理解できていない作者は少なくない。
(設定も巧い。すでに古び始めている題材を使いながら、きちんと新しいものに仕上げている)
(絵柄も前作とは大きく変わっている。ところどころに『月魔女変身』の面影は残っているが、この変化は正解だ。作品の雰囲気にしっかり合っている)
胸の内から湧き上がる喜びを、抑えることができなかった。
(とんでもない掘り出し物だ)
先ほどまで魔法少女ものに抱いていた偏見など、もはや跡形もなく消え去っていた。
そして今、斎藤律は確信していた。
(このLAMP――いや、高城涼介は、かなりの確率で電撃文庫新人賞の金賞受賞者だ)
この作品は、高城凌乃の前作とは物語の構成も設計思想もまるで違う。
創作経験のない素人が、いきなり作れるような代物ではない。
ただ、一つ分からないことがあった。
すでに投稿する段階まで来ているのに、なぜ筆名を変える必要があるのか。
電撃文庫新人賞金賞作家――時雨沢恵一が原作を担当し、若き天才売れっ子漫画家――高城留美子が作画を手がける。
二人の共同新作。
そう銘打つだけで、それぞれの読者層を一気に取り込めるはずだ。
斎藤律は、机の向かい側で不安そうにしている高城凌乃へ目を向けた。
そして、何となく事情を察した。
(この子に正体を隠すためか?)
それ以外に、理由が思いつかなかった。
「これほどの技術を理解し、漫画原作に落とし込めるとは……高城先生のお兄さんは、かなり優秀な方ですね」
斎藤律は原稿を机へ戻し、真剣な表情で高城凌乃へ告げた。
「え?」
(あいつって、そんなにすごいの?)
編集者から涼介を褒められたことは意外だった。
だが、それ以上に嬉しさが込み上げてくる。
この言い方なら、原稿は通ったと考えていいのだろう。
凌乃が何か謙遜の言葉を返そうとした、そのとき。
会議室の曇りガラスの扉が、指の関節で軽く叩かれた。
「失礼します、斎藤さん」
室外から声が聞こえる。
斎藤の許可を得ると、受付を担当していた社員が扉を開き、高城涼介が会議室へ入ってきた。
凌乃と目が合った瞬間、幼い虎のように鋭い視線が突き刺さる。
「あんた、あの女と話し込みすぎでしょ。何してたのよ?」
涼介が妹の隣へ腰を下ろした直後、太腿に激痛が走った。
凌乃が机の下で、思いきり抓ってきたのだ。
痛みに耐えながら、涼介は気まずそうに笑う。
こればかりは仕方がない。
早川留美に事情を詳しく説明したあと、『キノの旅』の出版に関する最新状況まで聞いていたため、思った以上に時間がかかってしまった。
「悪かった、悪かった」
外部の人間がいる手前、涼介はそれ以上弁解しなかった。
斎藤律の手元には、ちょうど『カードキャプターさくら』の原稿が置かれている。
「初めまして、斎藤編集者。この作品の共同作者です。原稿には、もう目を通していただけましたか?」
「あなたがLAMP先生ですね。お会いできて光栄です」
斎藤律は目の前の少年を観察した。
すでに正体については、ほぼ確信している。
だが、自分から明かすことはしなかった。
それにしても――と、内心では感嘆していた。
一つの家庭から、これほど若い天才が二人も現れるとは。
自分にも将来こんな子供が二人できたなら、毎晩笑いながら眠れるかもしれない。
「原稿は確認しました。完成度に問題はありません」
斎藤律ははっきりと告げた。
「私の判断で、そのまま島川の月例賞へ推薦できます」
月例賞とは、多くの漫画雑誌が採用している新人作品の選考制度だ。
作者が編集部へ原稿を投稿し、担当編集者による一次選考を通過した作品が、個人推薦によって月に一度の編集会議へ提出される。
その中から編集者たちの投票によって十作品ほどが選ばれ、雑誌へ掲載される。
読者の反応を確かめたうえで、最終的に連載へ進めるかどうかを判断する仕組みだ。
一人の担当編集者が一か月に推薦できる作品数には限りがあり、多くても片手で数えられる程度しかない。
それを斎藤律が即決した。
この作品をどれほど高く評価しているかは、言うまでもなかった。
だが、高城涼介は露骨な称賛を受けても、特に興奮した様子を見せなかった。
『カードキャプターさくら』がどれほどの作品かは、本人が一番よく分かっている。
この時代に持ち込めば、間違いなく希少価値の高い作品になる。
「今回は、また買い切り契約ということにはなりませんよね?」
涼介は軽く笑いながら、何気ない口調で尋ねた。
「契約については、私が保証します」
斎藤律は即座に答えた。
「『月魔女変身』のときと同じようなことは、二度と起こしません。そこは信じてください」
片手を原稿の上へ置く。
まるで、この場から作品を逃がすまいとしているようだった。
「私の評判についても、早川編集者から多少は聞いているのではありませんか?」
実際、斎藤律は本気で原稿を手放したくなかった。
高城涼介たちは、別の出版社へ持ち込むこともできる。
そうすれば、より高額で有利な長期契約を提示される可能性は十分にある。
島川の強みは、漫画だけではない。
アニメ化から、その後のIP展開に至るまで、業界でも屈指の完成された事業基盤を持っている。
ただし、漫画雑誌そのものの影響力だけで言えば、集英社の『週刊少年JUMP』こそが頂点に立っていた。
(伊織刹那は、本当にどうしようもない馬鹿だ)
斎藤律は心の中で、凌乃の前任担当を激しく罵った。
涼介の問いには、明らかな不満が込められている。
そうでなければ、わざわざあんな確認をする必要はない。
理由は当然、『月魔女変身』をめぐる一件だ。
(目先の利益しか見えていない)
(作品の価値に気づきながら、作者を騙すように買い切り契約を結ばせるなんて、業界に広まれば島川の漫画部門そのものが信用を失う)
これは、自らの土台を掘り崩す行為に等しい。
そんな会社を、これから持ち込みを考える新人漫画家が信用するはずがない。
斎藤律は、早川留美が自分について何も説明していないとは思っていなかった。
それでも涼介が、あえて自分を困らせるような問いを投げてきた。
ならば、その目的は明白だ。
自分の口から、責任ある保証を引き出したいのだろう。
「高城先生、どうか安心して私に任せてください」
斎藤律は真剣な表情で告げた。
「この作品を私が担当する以上、必ず正当な待遇を受けられるようにします」
「分かりました。それでは、よろしくお願いします。斎藤編集者」
◇
契約の話は、想像していた以上にすんなりと進んだ。
島川ビルを出たあとも、高城凌乃はどこか実感が湧かないままだった。
前作のときも契約までは早かったが、今回は内容がまるで違う。
斎藤さんが提示した契約書には、一話ごとの原稿料が明記されていただけでなく、著作権収入についても多めの取り分が設定されていた
もっとも、実際に収益が発生するのは月例賞の選考を終え、さらに連載会議の審査を通過してからになる。
契約書に並ぶ条項はあまりにも細かく、凌乃は読んでいるだけで頭が痛くなってしまった。
結局、細かな確認や交渉はすべて高城涼介へ任せ、凌乃は最後に署名だけをした。
「ほかに予定がないなら、もう帰るか?」
後ろから声をかけられ、凌乃は振り返った。
すると、義理の兄が自分の下半身――黒い厚手のタイツへ視線を向けている。
高城涼介の顔には、どこか満足そうな笑みが浮かんでいた。
「ようやく防寒の大切さが分かったみたいだな」
「何よ。勝手に見ないでよ、この変態!」
「はいはい。見なければいいんだろ」
涼介は軽く笑う。
「結局、お前も寒さには勝てなかったわけだ」
「余計なお世話よ!」
高城凌乃は可愛らしく鼻を鳴らすと、涼介を置いて早足で駅のほうへ歩き出した。
(脚が本当にこれ以上太くなったら困るから穿いただけよ)
(別に寒かったわけじゃないんだから!)
そう自分へ言い聞かせながらも、ふと別の疑念が頭をよぎる。
(というか、こいつ……脚に何か変なこだわりでもあるんじゃないでしょうね?)
すると、先ほど島川ビルで見かけた、スーツ姿の女性編集者が脳裏へ浮かんだ。
タイトスカートの下から伸びる脚は、薄手の黒いストッキングに包まれていた。
(やっぱり変態じゃない! あいつ!)
高城凌乃は勢いよく振り返り、涼介を鋭く睨みつけた。
そして頬を膨らませたまま、再び前を向いて歩き続ける。
涼介には、何が何だか分からなかった。
(僕、何かしたか?)
ビルを出た直後までは、ずいぶん機嫌がよさそうだったはずだ。
それが、どうして急にこうなるのか。
いくら何でも、感情の切り替わりが早すぎる。
涼介は呆れたように首を振った。
どうやら妹との関係を改善するまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。




