第23話 夫婦!?
島川ビル三十二階、漫画編集部。
高城凌乃は、小さな会議室で少し緊張した面持ちのまま座っていた。
やがて扉が開き、豹柄のフレーム眼鏡をかけた男が入ってくる。
年齢は三十代ほど。
脇にノートを挟み、両手にはコーヒーカップを一つずつ持っていた。
男は、そのうち一つを凌乃の前へ置く。
「初めまして、高城先生。これからよろしくお願いします」
彼こそが、今後『月魔女変身』を担当することになった編集者――斎藤律だった。
高城凌乃もすぐに立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、斎藤さん。よろしくお願いします」
「そこまで畏まらなくて大丈夫ですよ。ヒット作を任せていただけるのは、こちらとしても光栄ですから」
斎藤は穏やかに笑った。
「それに、これまで高城先生が受けた扱いについては、島川の一員として私からもお詫びしなければなりません」
斎藤律は会議机の向かい側にある椅子を引き、腰を下ろした。
持っていたノートを机の上へ置く。
凌乃は、どうにも落ち着かなかった。
斎藤は笑顔を浮かべている。
それなのに、どこか保護者と向き合っているような気分にさせられるのだ。
長く仕事の現場に身を置いてきた斎藤律には、自然と人を圧するような雰囲気が備わっていた。
伊織刹那と初めて会ったときとは、まるで印象が違う。
(それにしても、あいつは何をしてるのよ)
漫画編集部へ到着してから、凌乃はこの会議室で待つよう案内されていた。
斎藤律は本当に忙しいらしく、今になってようやく時間を作れたようだ。
涼介と別れてから、すでに三十分近くが経っている。
凌乃は心の中で不満をこぼしながら、机の下で携帯電話を握っていた。
メッセージ画面まで開いたものの、そこで手が止まる。
そもそも、涼介の電話番号を知らなかった。
(あの女に見惚れて、用事を忘れてるんじゃないでしょうね)
(もうこんなに時間が経ってるのに!)
高城凌乃は仕方なく、バッグからあらかじめ封をしておいた書類袋を取り出した。
その中から『月魔女変身』の原稿が入ったものを選び、斎藤律の前へ差し出す。
「完結編の原稿です。これで物語は最後まで描き終えました」
「お疲れさまでした。では、少し拝見しますね」
斎藤律は書類袋から原稿を取り出し、一枚ずつ目を通し始めた。
会議室が静寂に包まれる。
原稿を読む速度はかなり速かった。
およそ十分後、斎藤は読み終えた原稿を机の上へ戻した。
「少し強引に終わらせましたね、高城先生」
「え?」
凌乃は意外そうに目を瞬かせた。
編集者から、こんなふうに作品の問題点を指摘されたのは初めてだった。
以前、伊織刹那と仕事をしていた頃は、自分でも何かがおかしいと感じる原稿を提出しても、否定的な意見を言われたことは一度もない。
斎藤律は肘を机につき、右手で眼鏡の位置を直した。
表情には、残念そうな表情を浮かべている
「この作品は、最初から最後まで読ませていただきました」
斎藤は率直に語り始めた。
「八十話あたりまでの展開は、非常に面白い。ただ、それ以降は少しありきたりな展開に流れてしまっています」
「その点については、高城先生自身も感じていたのではありませんか?」
「はい。私も、そう思っていました」
高城凌乃は気分を害するどころか、すぐに頷いた。
「私がこの作品を引き継いだ時点では、すでに連載会議で完結させる方針が固まっていました。雑誌にも完結予告が掲載されています」
斎藤律は原稿へ視線を落とす。
「そうでなければ、いくつか軌道修正を加えて、連載を続ける道もあったかもしれません」
彼は、本気で残念に感じていた。
アニメ化まで果たし、好評を博す作品など滅多に生まれない。
ましてや、その作者はこれほど若い少女なのだ。
伊織刹那は、担当編集者として十分な役割を果たしていなかった。
高城凌乃を適切に導かなかった結果、物語後半の質が大きく落ちてしまったのだろう。
「とはいえ、早めに終わらせられたのは、高城先生にとって悪いことばかりでもありません」
斎藤律は突然、少し明るい笑みを見せ、机の上の原稿を軽く叩いた。
「どうせ、ろくに著作権収入も入ってこない契約だったわけですから」
そして、凌乃へ視線を戻す。
「次回作には期待しています。高城先生さえよければ、引き続き私が担当しますよ」
「今度こそ、先生が受け取るべき正当な待遇は保証します」
斎藤律は『月魔女変身』の原稿を揃え、書類袋へ戻した。
「では、ほかに用件がなければ、私はこれで失礼します」
そう言って、一枚の名刺を凌乃の前へ差し出す。
「こちらが私の連絡先です。次回作の準備ができたら、いつでも連絡してください」
斎藤律は席を立ち、会議室を出ようとした。
「待ってください、斎藤編集者」
高城凌乃が慌てて呼び止める。
「まだ何かありますか?」
振り返った斎藤の前で、金髪の少女はバッグからもう一つ書類袋を取り出した。
それを机の上へ置く。
「実は、新作の冒頭部分もすでに描いてきました。斎藤編集者に見ていただきたいんです」
「ほう?」
斎藤律はわずかに眉をひそめた。
「ネームではなく、完成原稿ですか?」
「はい」
凌乃は少し緊張しながら頷いた。
「伊織刹那は、本当に何も教えていなかったんですね」
斎藤律は書類袋を受け取り、再び椅子へ座った。
「編集部へ最初に見せる段階なら、ネームだけで十分です。完成原稿まで仕上げるには、時間も手間もかかるでしょう」
(それにしても……)
斎藤の頭に、ふと疑問が浮かんだ。
前回の原稿提出から、まだそれほど時間は経っていない。
その短い間に『月魔女変身』の完結原稿を描き上げ、さらに新作まで作る余裕があったのだろうか。
良い作品を作るには、普通は相応の時間がかかる。
特に物語の冒頭は、読者を引き込むために最も神経を使う部分だ。
(となると、この作品は前作よりもかなり完成度が落ちているかもしれないな)
斎藤律は、そう予想した。
『月魔女変身』を読めば、高城凌乃が漫画家として確かな才能を持っていることは分かる。
こと作画に限れば、天才と呼んでも過言ではない。
だが、物語作りは彼女の弱点だった。
前作が大ヒットしたのは、時流に乗れた部分も大きい。
同じ成功をもう一度再現するのは難しいだろう。
斎藤律は書類袋へ目を落とした。
表面には、作品名が書かれている。
(『カードキャプターさくら』……?)
(今回も魔法少女を題材にした少女漫画か)
先ほどまで抱いていた期待が、一気に萎んでいく。
島川に、その手の作品は不足していない。
むしろ、すでにありふれていると言ってもいい。
『月魔女変身』が大ヒットしたあと、漫画編集部には同系統の持ち込みが大量に寄せられた。
その流れに乗って、実際に人気を得た作品もいくつかある。
当時の市場反応は非常に良かった。
だが、わずか半年もすると、同系統の作品は軒並み売れなくなった。
似たような設定と展開ばかりが繰り返され、読者に飽きられてしまったのだ。
新連載会議を通過しても、二号と持たずに打ち切られる魔法少女作品など珍しくない。
そんな市場で、高城凌乃は再び同じ題材を持ち込んできた。
前作の人気をもう一度再現しようとしているのだろうか。
それは不可能だ。
斎藤律は、あまり気が乗らなかった。
とはいえ、担当編集者として読まずに判断するわけにもいかない。
彼は書類袋を開き始めた。
(ひととおり読んでから、別の方向性を提案しよう)
(今の市場なら、学園ものがいい。彼女の画力なら、十分に勝負できるはずだ)
斎藤律は、高城凌乃の長所をよく理解していた。
自分が正しく導けば、彼女は着実に成長できるという自信もある。
ただし、その前に――魔法少女という先のない道を進み続けようとする考えを、改めさせなければならない。
書類袋から原稿を取り出し、一番上の用紙へ目を向ける。
そこには作品名だけでなく、作者名も記されていた。
「高城留美子……アンド、LAMP?」
斎藤律は眉を上げる。
「共同名義ですか?」
高城凌乃へ目を向けた。
「高城先生一人で作った作品ではないんですか?」
「違います。ある馬鹿と一緒に作りました」
凌乃は頷いた。
「あいつがネームを担当して、私が作画をしています」
そう答えながら、心の中では不満をこぼしていた。
(ちゃんとした筆名を考えなさいって言ったのに、どうしてもこの英語を使うって聞かなかったのよね)
(こんな意味の分からない単語の、どこがいいのかしら)
「このLAMPという方には、過去に作品を発表した経験がありますか?」
斎藤律は尋ねた。
同時に、今朝、早川留美や服部拓也と話した際に名前が出た人物を思い出す。
――高城涼介。
聞くところによれば、高城凌乃の兄らしい。
長年編集者を務めてきた斎藤律は、社内で起こる揉め事などには慣れていた。
その一方で、人や作品に関する小さな違和感を見逃さない鋭さも持っている。
少し前に伊織刹那が起こした問題についても、事情は細かく調べていた。
妹のために抗議へ来たらしい高城涼介は、早川留美に連れられて漫画編集部へ入ってきた。
ただの友人を見学者として社内へ連れてくるなど、規則上は認められていない。
新人編集者である早川留美が、そんな危ない真似をするだろうか。
もし高城涼介が、新人のライトノベル作家だったとすれば話は通る。
最近の電撃文庫新人賞で金賞を獲得した『時雨沢恵一』を、早川留美が担当しているという話も耳にしていた。
斎藤律は、凌乃がどう答えるのか期待しながら待った。
しかし、目の前の少女は首を横に振る。
「ありません。あいつはただの馬鹿ですから」
「創作経験はまったくないと?」
斎藤律は、さらに踏み込んだ。
「はい。でも、あいつのネームは面白かったんです」
凌乃は少し言いにくそうに続けた。
「読んでいるうちに引き込まれて……それで、協力してもいいと思っただけです」
本人のいない場所で涼介を褒めるのは、どうにも妙な気分だった。
「なるほど」
斎藤律は少し考えたあと、別の質問を投げかける。
「ちなみに、共同制作者とはどのような関係ですか?」
「業界でも共同制作は珍しくありませんが、夫婦や親族で組む場合が多いんです」
「安定した関係でなければ、利益の分配をめぐって揉め、そのまま解散するケースもよくありますから」
(ふ、夫婦!?)
高城凌乃は、危うく椅子から飛び上がりそうになった。
編集者に妙な誤解をされたら大変だ。
少女の頬が、急に熱を帯びる。
「認めたくはありませんけど……あいつは、私の兄です」




