第22話 泣き虫編集者
午前十時三十二分。
早川留美は、落ち着かない様子で島川ビル一階のロビーに座っていた。
視線は正面玄関へ釘付けになっている。
会社へ入ってくる一人ひとりを、見逃すまいと目で追っていた。
やがて、人混みの中に見覚えのある姿を見つける。
金髪の少女が、小さな革靴で磨き上げられた大理石の床を踏み、こつこつと軽やかな音を響かせながら入ってきた。
そのすぐ後ろから、質素な服装をした端正な顔立ちの少年も姿を見せる。
少年はすぐに早川留美と目が合うと、片手を上げて軽く振った。
「時雨沢……いえ、高城さん」
早川留美は慌てて立ち上がり、足早に受付へ向かった。
兄妹はちょうど、来訪者名簿へ記入しているところだった。
(よかった……斎藤編集者が自分で迎えに下りてこなくて)
早川留美は心の中で、ほっと胸を撫で下ろした。
斎藤律は仕事が立て込んでいて、席を外せなかったのだろう。
おかげで、高城涼介が上へ行く前に捕まえることができた。
「知り合い?」
高城凌乃も早川の存在に気づき、訝しげな視線を向けた。
「お久しぶりです、早川さん」
高城涼介は礼儀正しく挨拶をする。
凌乃とは駅で合流し、そこからタクシーで島川ビルまでやってきた。
担当編集者には事前にメッセージを送り、呼び方についても念を押してある。
まさか、わざわざ一階まで迎えに来るとは思わなかったが、先に話を通しておいて正解だった。
でなければ、顔を合わせた瞬間に正体が露見していたかもしれない。
高城凌乃に筆名を知られれば、作品まで突き止められるのは時間の問題だ。
そんな弱みを妹に握られたら、どんなふうに弄られるか分かったものではない。
「あんた、島川の編集者と知り合いだったの?」
高城凌乃は疑わしそうに二人を見比べた。
「前にネットで話したことがあるんだ。ほら、この前、僕を社内へ案内してくれた人だよ」
そう言われて、凌乃も思い出した。
以前、伊織刹那と揉めたあとに会議室を出た際、涼介とぶつかった。
確か、その隣にはもう一人女性が立っていたはずだ。
それが、目の前の早川留美だったのだろう。
「お前は先に上へ行っててくれ。少し話をしたら、すぐに追いかける」
せっかく一階で会えたのだ。
この場で用件を済ませてしまえば、凌乃の目を避けることもできる。
「何よ。こっちはちゃんと用事があるのに!」
高城凌乃は不満そうに声を上げた。
しかし、涼介が動こうとしないのを見ても、他人の前で腕を引っ張るほど素直にはなれない。
なぜか凌乃は、早川留美に対して妙な敵意を覚えていた。
頭の先から足元まで相手を眺め、特に胸元と腰回りへ数秒ほど視線を留める。
(こいつ、年上の女が好みなの?)
(というか、この人……スーツを着てるだけなのに、なんだか妙にいやらしいんだけど)
早川留美のスーツは、豊かな体のラインを綺麗に引き立てていた。
それに比べると、凌乃の服装はどこか幼く見える。
無意識に自分と見比べ、容赦のない現実に打ちのめされた。
「どうせ先に『月魔女変身』の原稿を提出するんだろ?」
「勝手にすれば!」
高城凌乃は鼻を鳴らし、大股でエレベーターホールへ向かった。
(何だ? 怒ったのか?)
涼介には理由がさっぱり分からなかった。
凌乃は外では大人しく愛想のいい少女で通っている。
強気に振る舞うのは、家の中だけなのだ。
「すみません、早川編集者。妹は少し気難しいところがありまして」
「大丈夫です。あちらでお話ししましょう」
早川留美は、凌乃の態度などまったく気にしていなかった。
今の彼女が知りたいのは、目の前の少年が何を話そうとしているのか。
それだけだった。
二人はロビーの休憩スペースへ移動し、向かい合って腰を下ろした。
「では、単刀直入にお話しします。早川編集者」
高城涼介は前置きを省き、すぐに本題へ入った。
「妹と共同で、漫画作品を一本作ることになりました。今日、その原稿を妹の担当編集者へ見てもらう予定です」
「えっ!?」
早川留美は、ある程度覚悟していた。
そんな予感もあった。
それでも涼介本人の口から告げられると、目の前が真っ暗になったような衝撃を受けた。
すでに決定事項なのだろう。
斎藤編集者へ見せるということは、少なくとも冒頭部分は完成しているはずだ。
(終わった……本当に引き抜かれる!)
(早すぎませんか!? 服部さんの予言、当たりすぎじゃないですか!?)
わざわざ会って話したいと言った理由は、これだったのか。
漫画制作へ時間を取られ、『キノの旅』の執筆に支障が出る。
おそらく第三巻の連載が終わったところで、休載するつもりなのではないか。
早川留美は、そう考えずにはいられなかった。
その場で固まり、口を開いたものの、何を言えばいいのか分からない。
(しっかりして、早川留美!)
(こういうときこそ、時雨沢先生には小説へ専念してくださいって説得しないと!)
必死に自分を奮い立たせても、あまりのショックに、気持ちの整理が追いつかなかった
(きっと、妹さんの漫画の原稿料を知ったんだ……)
早川留美は両手で顔を覆い、こぼれそうになる涙を懸命に堪えた。
その点については、彼女自身もよく理解している。
服部拓也の言うとおり、この時代はライトノベルより漫画のほうが圧倒的に稼げる。
売れっ子漫画家ともなれば、小説家の何倍もの収入を得られるだろう。
高城涼介の担当編集者である早川は、当然ながら彼の作品を最初から最後まで読み込んでいる。
(時雨沢先生ほどの文章力があれば、漫画原作へ転向しても、きっと成功する)
編集者としてなら、小説へ専念するよう止めるべきだ。
だが、友人として考えるなら、より良い道へ進もうとする相手を引き止めるべきではない。
ましてや、涼介は自分の恩人でもある。
早川留美は無理やり笑顔を作り、両手を膝の上へ揃えた。
肩がかすかに震えている。
「大丈夫です。時雨沢先生の漫画制作がうまくいくことを、お祈りしています」
震える声で続けた。
「『キノの旅』が一時休載になっても、第三巻の原稿があれば、しばらくは持ちます。連載会議で打ち切りにならないよう、私もできる限り頑張りますから」
新人作家の連載が不安定になれば、編集部内での評価は下がる。
すでに大ヒットしている作品でもない限り、予定より早く打ち切られる可能性も高い。
(時雨沢先生が正式に休載へ入る前に、新しい作家を見つければいい)
(そうすれば、私も編集部に残れるかもしれないし……)
だが、その考えは浮かんだそばから、自分自身によって否定された。
(何を都合のいいこと考えてるの!)
(新人作家なんて、そんな簡単に見つかるわけないでしょ! 仮に見つかっても、私が担当できるとは限らないし!)
(やっぱり、仕事を失うのかな……)
(せっかく新人賞の金賞作品を担当できたのに、作家をつなぎ止められずに休載させたなんてことになったら……)
(あれ? どうして急に燃え尽きたみたいになってるんだ?)
高城涼介は向かい側に座り、訳が分からないという顔で早川留美を見ていた。
様子が明らかにおかしい。
こちらとしては、別に彼女をからかったつもりなどない。
妙な空気を感じ取り、涼介は慌てて口を開いた。
「僕は休載するなんて、一言も言ってませんよ。早川編集者」
「え……? でも時雨沢先生、妹さんと一緒に漫画を作ると……」
「そこまで手間はかかりません。それに、『キノの旅』の第四巻も、もうほとんど書き上がっています。おそらく冬休みが終わる前には提出できます」
「では、私と直接お話ししたいというのは……?」
「二作品を同時に進めるなら、担当編集者へ伝えておくのが当然でしょう?」
涼介は不思議そうに答えた。
「『キノの旅』の更新にも、その後の新作にも影響は出さないと約束します」
その説明を聞いた瞬間、早川留美の目が赤くなった。
堪えていた涙が、次々と溢れ出してくる。
「どうして泣くんですか?」
涼介は完全に困惑した。
(僕、そんなにひどいことを言ったか?)
「時雨沢先生のせいではありません。ただ、安心したら急に怖くなってしまって……」
早川留美は自分の失態に気づき、感情を抑えようとした。
何度も手の甲で頬を拭い、流れる涙を止めようとする。
自分がここまで運に恵まれているとは思わなかったのだ。
仕事を失うかもしれないという重圧が一気に消え、張り詰めていたものが切れてしまった。
「安心して、怖くなった……?」
涼介は、早川が少し落ち着くのを待ってから尋ねた。
「具体的には、何を心配していたんですか?」
「時雨沢先生が、漫画原作者へ転向するつもりなのかと思って……それで……」
「なるほど。そういうことでしたか」
涼介はようやく事情を理解した。
「安心してください。自分の作品には、きちんと責任を持ちます」
早川留美がメッセージを受け取ったあと、わざわざ一階で待ち伏せしていた理由も分かった。
涼介としては、凌乃と一緒に斎藤編集者へ会ってから、改めて早川へ伝えるつもりだった。
だが、彼女は涼介が二つの作品へ手を出し、そのまま『キノの旅』を投げ出すのではないかと心配していたらしい。
(それにしても、この担当編集者……見た目ほど大人っぽくないんだな)
普通なら、怒るところではないだろうか。
編集者の立場から見れば、一人の作家が複数作品を同時に抱えるのは大きなリスクだ。
二作品とも、一定の質を維持できる保証はない。
それなのに、怒るどころか自分で勝手に想像を膨らませ、泣き出してしまった。
早川留美はようやく涙を止め、深く息を吸った。
片手を豊かな胸元へ添え、気持ちを落ち着かせる。
「勝手な思い込みをしてしまって、申し訳ありませんでした。時雨沢先生」
「気にしてませんよ」
涼介は特に気分を害していなかった。
「私が時雨沢先生の担当編集者になれて、本当によかったです」
「ええ。僕もそう思います」
高城涼介は思わず笑みをこぼした。
別の編集者なら、今頃は長々と説教を始め、小説だけに集中するよう説得してきたかもしれない。
こういう泣き虫な担当編集者も、案外悪くないのかもしれない。




