第21話 斎藤編集者
「行ってきます」
高城涼介は家の中にいる母・美恵子へ声をかけ、返事が返ってきたのを確認してから玄関を出た。
凌乃は「一緒に家を出たら、お母さんに仲がいいと勘違いされる」などと言い出し、涼介だけ先に出発させたのだ。
待ち合わせは島川ビル。
そんな理由まで持ち出すとは、自分の妹ながらずいぶん嫌われたものである。
涼介は少し呆れながら駅へ向かった。
とはいえ、到着時刻はそれほど変わらないだろう。
涼介は交通費を節約するため各駅停車を選んだが、凌乃はおそらくJRを使う。
向こうのほうがかなり早いはずだ。
電車へ乗り込んだ涼介は、空いている席を見つけて背もたれへ身体を預けた。
◇
その頃、高城家では――凌乃がいまだに黒いタイツと格闘していた。
「サイズがおかしいだけよ。そう、まだ成長期なんだから。絶対に脚を出して冷やしてたせいじゃないわ!」
凌乃は懸命にタイツを引き上げ、どうにか太腿まで覆うと、姿見に映る自分を確認した。
すらりとした体つきに、長く真っ直ぐな脚。
見た目だけなら申し分ない。
ただし、本人の顔は不機嫌そのものだった。
スカートの裾とタイツの境目に、わずかながら柔らかな肉が乗ってしまっている。
以前なら、こんなことはなかった。
つまり、実際に少し太ったということなのだろう。
普段は脚を覆う服を穿かないため、気づかなかっただけだ。
「もうっ!」
金髪の少女は悔しそうに姿見へ布を掛けた。
まさか、本当にあいつの言ったとおりだったなんて。
「しばらく食べる量を減らさないと……これを落とすのに、どれくらいかかるのかしら」
凌乃は原稿を入れたショルダーバッグを手に取り、不機嫌な顔のまま家を出た。
◇
新宿、島川ビル三十二階。
ちょうど出勤時間を迎え、社員たちが次々とタイムカードを切っていた。
早川留美は休憩室の小さな丸テーブルに座り、コーヒーを一口飲んでは、おにぎりを少しずつ食べている。
同じテーブルには、二人の男性が座っていた。
一人は上司である服部拓也。
もう一人は、最近知り合ったばかりの漫画編集部の担当編集者、斎藤律だった。
「最近はいろいろとご迷惑をおかけしました。早川さんが高城さんの電話番号を教えてくれなければ、千葉まで出向いて、直接あの先生を訪ねるところでしたよ」
斎藤律は湯飲みを手に、穏やかな笑みを浮かべながら二人へ礼を述べた。
「そんな、お気になさらないでください。連絡先をお伝えしただけですから」
早川留美は慌てて手を振った。
相手は編集者としての先輩だ。
自分は、必要だと思ったことをしたにすぎない。
それに、後から時雨沢先生本人からも感謝のメッセージが届いていた。
編集者が家まで訪ねてきたら、かなり困るところだった――と。
(どうして、あの兄妹にとって島川と仕事をしていることは、そんなに隠したいことなんだろう?)
早川留美には理由が分からなかった。
とはいえ、本人へ直接尋ねる勇気もない。
「ところで、早川さんは高城家のお兄さんとは、どういったご縁で?」
斎藤律が何気ない口調で尋ねた。
「もしかして、彼もライトノベル作家なんですか?」
「え?」
早川留美の瞳に、はっきりとした戸惑いが浮かぶ。
反射的に、隣に座る服部拓也へ視線を向けた。
(服部さん、斎藤さんに時雨沢先生のことを話していないんですか?)
部下の視線に気づいた服部拓也は、心の中でため息をつきながら、困ったように首を横へ振った。
「たまたま知り合っただけですよ」
「やっぱりそうですか」
斎藤律は突然、声を上げて笑った。
「あれほど若い天才が一人いるだけでも大したものです。同じ家から二人も出てくるわけがありませんよね」
斎藤は残った茶を飲み干すと、席を立った。
「では、私はこれで失礼します。今日は『月魔女変身』の作者が原稿を持ってくる予定なので、少し忙しくなりそうです」
そこで苦笑を浮かべる。
「伊織のやつ、山崎編集長が後ろ盾だからといって、引き継ぎをろくに済ませていないんですよ。まったく、余計な仕事ばかり増やしてくれます」
服部拓也は余計なことを言わず、軽く挨拶を返した。
二人はそのまま、斎藤律が休憩室を出ていくのを見送る。
扉が閉まったあと、早川留美は声を潜めて尋ねた。
「服部さん、斎藤さん者には……時雨沢先生が『キノの旅』の作者だと伝えていないんですか?」
連絡先は渡したのに、なぜその事実だけを隠したのか。
どうしても気になってしまう。
服部拓也は早川へ視線を向けた。
その目には、どうしてそこまで察しが悪いのかと言いたげな色が浮かんでいる。
「『月魔女変身』を、なぜ斎藤が引き継ぐことになったか知っているか?」
早川留美は首を横に振った。
彼女はまだ新人だ。
隣の漫画編集部の人間とは、ほとんど関わりがない。
「あいつは漫画編集部のエースだ。複数の連載作品を同時に担当している。特に有名なものなら、お前も聞いたことがあるだろう」
服部は作品名を挙げた。
「たとえば、『金田一少年の事件簿』や『天使禁猟区』だ」
「えっ!」
早川留美の手にしていたコーヒーカップが揺れ、中身がこぼれそうになった。
「そんなにすごい編集者なんですか? 見た目からは全然分かりませんでした」
伊織刹那が担当を外されたあと、まさかそこまでの人物が後任になるとは思ってもいなかった。
通常、一人の編集者が何人もの売れっ子漫画家を同時に担当することは、社内でも好まれない。
編集者の体力と時間には限りがある。
抱える作品が増えすぎれば、一人ひとりに十分な助言ができなくなり、大きな方向性を誤る可能性も高まるからだ。
担当編集者の仕事は、原稿を確認するだけではない。
必要に応じて、漫画家と一緒に作品の方向性を整える役割も担っている。
「でも、それと時雨沢先生に何の関係があるんですか?」
早川留美には、まだ理解できなかった。
斎藤律がどれほど優秀でも、所属は漫画編集部だ。
涼介がライトノベル作家だと知らせたところで、特に問題はないように思える。
部下の問いを聞いた服部拓也は、右手で眉間を揉んだ。
「お前は一度、斎藤の経歴を詳しく調べたほうがいい」
服部は呆れ混じりに続ける。
「あいつは才能の発掘と育成が得意なんだ。上層部が『月魔女変身』を任せた一番の理由もそこにある。作者から、もっと優れた作品を引き出してほしいと期待されている」
そして、少し間を置いた。
「それに、あいつが人を組ませるのを好むのは有名な話だ。担当している漫画家の中には、友人や知人同士で組ませてデビューさせた例も少なくない」
(組み合わせ……?)
早川留美は、先ほど服部が名前を挙げた『金田一少年の事件簿』を思い出した。
確か、あれも共同制作による漫画だったはずだ。
原作は金成陽三。
作画はさとうふみや。
ヒット作でありながら、物語と作画を別々の人間が担当している。
「お前が担当している時雨沢と、斎藤が担当する売れっ子漫画家は兄妹だ」
服部拓也が静かに告げた。
「もし斎藤がその情報を知ったら……」
「時雨沢先生を、漫画原作者へ転向させようとするかもしれない!」
早川留美は勢いよく立ち上がった。
「座れ!」
服部拓也は驚き、すぐに彼女の腕を掴んで椅子へ引き戻す。
「す、すみません、服部さん。私、あまりにも警戒心が足りませんでした……」
早川留美はすっかり萎れ、落ち着かない気持ちで俯いた。
もし自分が時雨沢先生の立場だったなら。
これほど実績のある編集者から誘われれば、提案を受けるべきか真剣に考えてしまうだろう。
斎藤律の担当作品には、それだけ多くの成功例があるのだから。
服部拓也は首を横に振り、早川の肩を軽く叩いた。
「そこまで心配する必要はない。斎藤も、露骨に人の担当作家を奪うような真似はしない」
少し考えたあと、付け加える。
「今の時点でも、何かあるとは勘づいているかもしれない。ただ、まだ確信は持っていないだろう」
「お前は時雨沢に集中しろ」
服部の声が真剣なものへ変わった。
「ああいう天才は滅多にいない。しっかりつなぎ止めて、創作中に余計なことへ気を取られないようにしろ」
「今の時代、漫画のほうがライトノベルよりも稼げるのは事実だ。時雨沢自身が、あの天才漫画家へ共同制作を持ちかける可能性もある。そこまで防ぐことはできない」
「だからこそ、お前が今やるべきなのは、あいつがライトノベルに集中できる環境を作ることだ」
「分かりました」
そこまで話すと、服部拓也は長居せず、編集部へ戻っていった。
早川留美は椅子へ座ったまま、両手でコーヒーカップを包み込む。
服部の言葉は、小さな棘のように胸の奥へ突き刺さっていた。
担当編集者として、これから果たすべき責任の重さを改めて感じる。
「時雨沢先生と、もっと信頼関係を築かないと」
早川留美は片手で拳を作り、胸元へ添えた。
自分を奮い立たせるように、小声で呟く。
「斎藤編集者に取られるわけにはいきません!」
少し天然なところのある彼女は、さっそく仕事用の携帯電話を取り出した。
鉄は熱いうちに打て。
唯一の担当作家へ連絡を取り、少しでも関係を深めようと思ったのだ。
しかし画面を見ると、未読のメッセージが一件届いていた。
送信者――時雨沢先生。
『早川編集者、本日、妹に付き添って御社へ伺う予定です。お時間があれば、少しお会いできませんか。直接ご相談したいことがあります』
早川留美は、すぐに内容を読み終えた。
その瞬間、理由の分からない嫌な予感が胸をよぎる。
(まさか……本当に服部さんの言ったとおりなんじゃ……?)




