第19話 落書き
涼介が目を覚ましたときには、外はすでに暗くなっていた。
窓の向こうでは、行き交う車のライトが夜の街を流れている。
室内は静かで穏やかだった。
聞こえてくるのは、相変わらずペン先が紙を擦る音だけだ。
「僕、どのくらい寝てた?」
涼介は目を擦りながら、大きな欠伸をした。
「たぶん、五時間くらい」
凌乃はわざと目を合わせないようにしているのか、作業机へ顔を向けたまま答えた。
その肩が、小刻みに震えている。
「もう、だいたい描き終わっただろ?」
涼介は立ち上がり、作業机のそばへ歩み寄った。
凌乃はそのまま、原稿用紙の束を差し出してくる。
「……どこか具合でも悪いのか?」
原稿を受け取りながら、涼介は彼女の様子がおかしいことに気づいた。
身体がずっと震えている。
急に何かの発作でも起きたのだろうか。
高城凌乃は椅子を回転させ、涼介に背を向けたまま手を振った。
「べ、別に何でもないから。先にラフを見て」
「駄目だ。具合が悪いなら病院へ連れていく。ペンでどこか怪我したのか?」
涼介は眉をひそめると、強引に椅子をこちらへ回した。
そして、その場にしゃがみ込み、凌乃の顔を覗き込む。
「きゃっ!」
高城凌乃は小さく声を上げた。
当然、二人の視線が正面からぶつかる。
(駄目……もう耐えられない)
涼介の額には亀が描かれ、口の周りにも黒い線がぐるりと引かれていた。
その姿が、あまりにも滑稽だった。
(落ち着くのよ、高城凌乃)
(ここで笑ったら終わりだから!)
金髪の少女は必死に呼吸を整えようとした。
しかし、頬は真っ赤に染まり、表情も今にも崩れそうに歪んでいる。
涼介は怪訝そうに彼女を見つめた。
(何だ、その妙な顔は)
(まさか、この義妹には何か持病でもあるのか?)
そう考えたところで、涼介は自分の指先に黒い汚れがついていることに気づいた。
何かを確かめるように、凌乃の視線を追いながら額へ手を伸ばす。
さっと一度拭っただけで、手のひらが黒灰色のインクに染まった。
「なるほど」
涼介はほっと息を吐き、凌乃へ視線を向けた。
「さっきから笑いを堪えてたのか?」
高城凌乃は首を横に振り、とぼけた顔で答える。
「何のことか、さっぱり分からないけど」
「そうか」
そこまで白を切るなら、こっちにも考えがある。
涼介はじろりと彼女を睨んだ。
そして両手の人差し指を口元に当て、左右へ思いきり引っ張る。
さらにわざと寄り目をして、凌乃へ向かって変顔をしてみせた。
顔についたインクがさらに滲み、ただでさえ妙な落書きと合わさって、凄まじく間の抜けた顔になる。
「ぶっ……!」
高城凌乃の我慢は、一瞬で限界を迎えた。
腹を抱え、その場で声を上げて笑い始める。
「あははははっ! 何その顔! 駄目、もう無理……!」
「人が寝ている間に顔に落書きするなんて、お前は子供か?」
涼介は呆れたように言った。
とはいえ、不機嫌になっているわけではない。
むしろ、少し面白く感じていた。
今日までの高城凌乃は、こんないたずらを仕掛けてくるような少女ではなかった。
こういう悪戯は、本当の兄妹同士がするもののように思えたのだ。
そんなことを考えながら、涼介はインクまみれの手を凌乃へ伸ばす。
「子供はそっちでしょ! ちょっと、近づかないで! 何する気よ!」
凌乃はまだ笑いから立ち直れていなかった。
その隙に、涼介の手のひらが頭へ迫ってくる。
「決まってるだろ。仕返しだ」
「馬鹿! 離れなさいよ!」
凌乃は椅子から転がるように飛び退いた。
慌ててソファの上へ逃げ込むと、クッションを掴み、涼介へ投げつける。
「甘い」
涼介は軽く身体を傾け、難なく避けた。
狭い室内で、二人の追いかけっこが始まる。
「何よ! 兄のくせに心が狭すぎるでしょ! 髪には絶対触らないでよ! こんなインクがついたら、簡単に落ちないんだから!」
「へえ。落ちにくいと知っていて、僕の顔には描いたのか?」
涼介はあえて無表情を作り、怒っているふりをしながら少しずつ距離を詰める。
しかし、顔にはまだ妙な落書きが残ったままだ。
真剣な顔を作れば作るほど、その姿は余計に滑稽になる。
凌乃は笑いのつぼを容赦なく刺激され、その場にしゃがみ込んだ。
身体を震わせながら、いつまでも笑い続ける。
「あははははっ! 分かった、降参! 謝るから!」
涼介が近づいてくるのを見て、ついに両手を上げた。
「ふん。今回は見逃してやる」
涼介は凌乃を睨みつける。
「次にまた僕が寝ている隙に悪戯したら、そのときは必ず仕返しするからな」
そう言い残し、浴室へ向かった。
しばらくして戻ってきたときには、顔はすっかりきれいになっていた。
高城凌乃はソファの上で身体を丸め、胸元にクッションを抱えている。
落書きが跡形もなく消えているのを見て、不思議そうに目を丸くした。
「どうやって落としたの?」
「クレンジングコットンで拭けば、油性ペンも落ちるよ。この程度のことまで、僕が教える必要はないだろ?」
涼介は呆れたように目を細めた。
浴室にちょうど置いてあったのだ。
おそらく凌乃が、この仕事場へ置いていたものだろう。
「ふん!」
(人のものを勝手に使って……本当に腹が立つ)
凌乃は心の中で文句を言ったが、声には出さなかった。
そもそも、先に悪戯をしたのは自分だ。
涼介に本気で仕返しされるのも、少し怖かった。
高城涼介はソファの前まで歩いてくると、そのまま凌乃の隣に腰を下ろした。
少し窮屈だったため、少女を肩でぐいぐいと端へ押していく。
「ちょっと、押さないでよ! あんたは作業机の椅子に座ればいいでしょ!」
「だったら、お前が座ればいいだろ。あの椅子、見るからに硬そうだ」
二人掛けのソファなのに、高城凌乃が堂々と真ん中を占領している。
涼介も譲るつもりはなかった。
二人は互いに押し合い、どちらも一歩も引かない。
そのとき――
澄んだ着信音が響き、二人のじゃれ合いを中断させた。
「今日は夕飯、家で食べないから。ごめん、父さん。先に言うの忘れてた」
「……」
「あいつも一緒にいるわよ」
「……」
「何よ。涼介がそばにいるなら安心って……まるであいつが頼りになるみたいじゃない」
「……」
「分かったわよ。なるべく早く帰るから!」
高城凌乃は不機嫌そうに通話を切った。
「父さんからか?」
「分かってるくせに聞かないで。あんたがいつまでも寝てるから、夕飯の時間を逃したんでしょ」
凌乃は残ったクッションを胸に抱いたまま、恨めしそうに涼介を睨んだ。
それからソファから立ち上がり、作業机の上に置いてあった原稿を手に取る。
「早く見終わって。それから帰るわよ」
再び差し出されたラフを、涼介は何事もなかったように受け取った。
部屋は再び静けさに包まれる。
まるで、先ほどまでの騒ぎなど最初からなかったかのようだった。
高城凌乃は作業机の前へ戻ると、椅子の上で両膝を抱え、顔をクッションに埋めた。
(私、さっき何やってたのよ……)
人が寝ている隙に、顔へ落書きをするなんて。
涼介が怒っても仕方がない。
(でも、あいつも大人げないわよね)
(本気で仕返ししようとしてくるなんて)
凌乃は少しだけ顔を上げた。
クッションの上から明るい瞳だけを覗かせ、こっそり涼介の様子を窺う。
涼介は真剣な表情で、一枚ずつラフへ目を通していた。
ときおり、眉間に皺を寄せている。
(何よ、その顔)
(私の絵に何か文句でもあるの?)
凌乃は心の中で不満をこぼした。
涼介の考えた物語が面白いことは認める。
だが、作画の腕には自分も自信があった。
たとえラフの段階でも、涼介の落書きとしか呼べない絵よりは、一万倍まともなはずだ。
そのとき、涼介は原稿をきれいに揃え直し、長く息を吐いた。
「よく描けてるじゃないか」
突然の褒め言葉に、凌乃は少し驚いた。
先ほどまで難しい顔をしていたので、何か厳しいことを言われると思っていたのだ。
涼介の視線を感じると、凌乃は慌てて不機嫌そうな表情を作る。
「当然でしょ。私は売れっ子漫画家なんだから」
「ああ。天才と呼んでも大げさじゃないと思う」
涼介は惜しむことなく、素直に彼女を褒めた。
「な、何よ、急に……」
飾り気のない称賛を真正面からぶつけられ、凌乃はなぜか気恥ずかしくなった。
思わず、胸元のクッションを強く抱きしめる。
(褒めたって何も出ないんだから)
(だからって、あんたをいい人だと思ったりもしないし)
そんな言葉を心の中だけで呟いた。
しかし次の瞬間、涼介は話を切り替えた。
「ただ、絵そのものはかなりいいけど、まだ直せる部分はあると思う」
「なっ……!」
凌乃は反射的に顔を上げた。
今し方まで褒めていたかと思えば、すぐに注文をつける。
その移り変わりが早すぎる。
「どこが?」
「細かいところだけど、キャラクターの表情と動きに少し違和感がある」
涼介は淡々と指摘した。
「たとえば、主人公の桜と、ケルベロスの掛け合いのシーン。お前のラフでは、桜が怯えているように見える」
「そりゃあ、突然魔法の本を開いたら、本の中から謎の生き物が出てきてしゃべり始めるんだから、誰だって怖がるでしょ」
凌乃は当然のように言い返した。
「そうかもしれない。でも、ここは物語の最初の山場だ。読者は桜の恐怖よりも、むしろ彼女がどうやってケルベロスを受け入れていくのかに興味がある」
涼介は立ち上がり、作業机の隣へ歩み寄った。
「ここで桜がケルベロスの話を信じ、彼と契約を結ぶ決意をする。その決意の表情が、今のラフでは、桜がただ怖がっているようにしか見えないんだ」
「えっ……」
凌乃は自分の描いたラフと、涼介の指摘を頭の中で照らし合わせた。
確かに、彼の言うとおりかもしれない。
表現の仕方ひとつで、同じ場面でもまったく別の印象になる。
「それに、このページのコマ割りも、もう少し工夫できると思う」
涼介は二ページ分のラフを手に取り、凌乃の前に広げた。
「ここで、桜がカードを封印する直前の見開き。もっと彼女の決意を強調するために、コマをもっと大胆に割ったほうがいい」
「コマ割りまで口を出すの?」
凌乃は少し困った顔をした。
「物語の書き手としては、コマ割りにもある程度の意図があるんだよ」
涼介は冗談めかして言った。
「絵の細かい部分はお前に任せる。でも、どうやって見せるかという部分は、僕も考えていたほうがいい」
(……本当に、この人には敵わない)
凌乃は素直にそう思った。
他人に自分の絵を批評されるのは、正直なところあまり気持ちのいいものではない。
しかし、涼介の指摘はどれも的確で、作品のためになることばかりだった。
「分かった。次から気をつけるわ」
凌乃は仕方なく頷いた。
「でも、これで終わりじゃないからね。まだまだ言いたいことはある」
「何よ。まだあるの?」
「全部、もっと良くするためのアドバイスだ。お前は天才かもしれないが、天才は努力をしなければ伸びない」
「……本当に偉そうな人ね」
凌乃は唇を尖らせた。
それでも、涼介の意見を無視する気にはなれなかった。
(本気でこの作品を一緒に作るつもりなんだな)
(それなら、私も本気で応えなきゃ)
そう思うと、なぜか胸の奥が少し温かくなった。




