第18話 悪戯
凌乃には、すでに連載経験がある。
とはいえ、漫画業界ではまだ新人の域を出ていない。
今の彼女には、市場を意識して作品を作るような技術も、計算もなかった。
だからこそ、涼介のネームを評価する基準は、ただ一つ。
一人の読者として、純粋に面白いかどうか。
それだけだった。
だからこそ――高城凌乃は、この作品の特別さを誰よりも素直に感じ取ることができた。
気づけば、自分は無意識に「THE WINDY」と口にしていた。
その瞬間にはもう、物語に引き込まれていたのだ。
(頭がいい人って……何をやってもできちゃうものなの?)
ふいに、胸の奥が少しだけ沈んだ。
自分が唯一誇れると思っていた才能ですら、涼介なら簡単に追い越してしまうのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
「……悔しい」
凌乃は小さく唇を尖らせた。
(面と向かって褒めたりしたら、絶対に調子に乗るわよね)
そんなことを考えながら、不満そうに涼介を睨む。
その頃の涼介は、部屋の棚に背中を預けたまま、舟を漕いでいた。
暖房の効いた室内が心地よく、眠気に逆らえない。
昨夜も結局遅くまで作業を続け、今朝は無理やり身体を起こした。
限界を迎えた身体が、休息を求めているのだ。
凌乃はそれ以上気にせず、再びページをめくった。
少しずつ、意識が物語の中へ沈んでいく。
最初の二話は、テンポこそ穏やかだった。
封印の獣・ケルベロスがクロウカードの由来を語り、木之本桜の家庭環境も丁寧に描かれていく。
『風』のカードによってカードが世界中へ散ってしまった以上、桜にはそれらを回収し、再び封印する責任が生まれる。
ケルベロスと契約を交わした彼女は、封印の鍵を解放する力を授かった。
二話の終盤まで読み進めたところで、凌乃の手が止まった。
『翔』のカードが暴れ始め、物語は一気に本筋へ踏み込む。
ここで、作品の核となる設定が初めて明かされる。
ネームには、印象的な台詞が書かれていた。
荒い絵ではあるものの、桜が一本の鍵を胸の前に掲げていることは十分伝わってくる。
――闇の力を秘めし鍵よ。
――真の姿を我の前に示せ。
――契約のもと、さくらが命じる。
――レリーズ!
「カードを魔法の杖で操って魔法を使うのね……」
凌乃は思わず呟いた。
「それに、このカードって……発想の元はタロットカード?」
ページをめくる速度は、最初よりもずっと遅くなっていた。
一つひとつのコマに視線を留める時間も、自然と長くなる。
桜は『風』のカードを操り、逃げようとする『翔』を拘束する。
そして見事、新たなカードとして封印することに成功した。
手元へ戻ったそのカードは、これから桜自身の力となっていく。
「……意外と、面白いじゃない」
床に胡座をかいた凌乃は、思わず身体を前へ乗り出した。
桜が『翔』のカードを使い、大空を自由に飛び回る場面を見届けたところで、第三話は終わる。
凌乃は大きく息を吐き、静かにノートを閉じた。
しばらく黙ったまま立ち上がる。
そして、そのまま細く長い右脚を振り上げると――
どんっ。
居眠りをしていた涼介の肩に、遠慮なく蹴りを入れた。
「っ!」
涼介は飛び起き、肩を押さえながら目を開ける。
目の前には、何事もなかったかのような顔をした高城凌乃が立っていた。
「行くわよ。仕事場」
凌乃は平然と言う。
「試しに、少し描いてみる」
「ん? ということは……僕のネーム、合格ってことでいいんだな?」
「ふん」
凌乃はぷいっと顔を背け、金色の髪を揺らした。
「まだまだ甘いわ。でも、才能がないってほどでもなかったから。一回くらいなら組んであげてもいいわよ」
「そうか」
涼介は小さく笑いながら立ち上がった。
そのまま凌乃のあとを追って部屋を出る。
『カードキャプターさくら』の完成度について、涼介は何一つ心配していなかった。
魔法少女作品が溢れている時代だからこそ、この作品の独創的な設定は強い武器になる。
物語の構成もテンポも、長く読み継がれてきただけの完成度を持っている。
二十年以上経った今でも愛され続けている作品が、凌乃の言うように「そこそこ」で終わるはずがなかった。
「そういえば」
歩きながら、涼介が口を開く。
「さっき、僕のこと蹴ったよな?」
「蹴ってないわ」
凌乃は即答した。
「きっと悪夢でも見てたのよ」
「……そういうことにしておくよ」
◇
美恵子へ一声かけたあと、兄妹は電車に乗り、再び高城凌乃の秘密基地へ向かった。
「この仕事場、家賃はいくらなんだ?」
二度目ということもあり、涼介は室内を改めて見回す。
広さは五十平方メートルほど。
独立した浴室とキッチンがあり、残りは一続きの広い作業スペースになっている。
ただ、黒い布で覆われた背の高い棚が並んでいるせいで、実際よりも少し狭く感じられた。
凌乃が本気で一緒にやるつもりなら、相棒として多少の援助をすることくらい、涼介に異論はない。
「三十万円」
涼介は思わず聞き返した。
「……何だって?」
「だから、月三十万円よ。耳でも悪いの?」
凌乃は面倒くさそうに視線を向けた。
聞き間違えたわけではない。
信じられなかっただけだ。
(冗談だろ……)
ここは千葉県の栄町だ。
周辺の一戸建てを借りても、それほど変わらない家賃で済む。
この程度のマンションの一室が、どうしてそんな金額になる。
だが、ベッドの下へ無造作に札束をしまっていた凌乃の姿を思い出し、すぐに納得した。
伊織刹那に丸め込まれて、不利な契約書に平然とサインしてしまう少女だ。
部屋を借りるときも、周囲の相場など一切調べなかったのだろう。
どう見ても、完全に足元を見られている。
(不動産屋だったら、こういう客は最高だろうな)
(お金はある。文句は少ない。そのうえ、少しだけ騙されやすい)
「契約はいつまでなんだ?」
これ以上無駄遣いをさせるわけにはいかない。
そう思い、涼介はもう一度尋ねた。
凌乃は作業机に腰を下ろし、引き出しを開けながら原稿用紙を探す。
「借りたばかりだから、来年の後半くらいまではあるかな」
そう答えながら、いかにも鬱陶しそうな顔をした。
「もう、うるさいわね。せっかく頭の中で絵がまとまりかけてたのに」
新品の原稿用紙を机に置くと、金髪の少女は涼介をじろりと睨む。
(話題がないからって、適当に話しかけてきただけでしょ)
せっかく浮かび始めたイメージが、全部飛んでしまった。
(やっぱり、この人は苦手)
「あっちにソファがあるから、そこで寝てれば?」
凌乃は作業机の右奥を指差した。
そこには、疲れたとき用に置いてある小さな休憩スペースがあり、ソファにはハローキティのクッションが二つ並んでいる。
「今からは話しかけないで」
「了解」
涼介は素直に口を閉じ、静かにソファへ腰掛けた。
(もう仕事モードか)
彼の視線は、作業机へ向かう凌乃の背中を追う。
部屋へ響くのは、二人の呼吸と、ペン先が紙を擦る音だけだった。
高城凌乃は完全に作業に没頭していた。
筆を走らせるたび、自然と眉がほどけ、口元には柔らかな笑みが浮かんでいく。
窓から差し込む冬の日差しが彼女を照らし、その姿は金色のヴェールをまとっているかのようだった。
涼介は頬杖をつき、遠慮なくその横顔を眺める。
この義妹は、本当に絵を描くことが好きなのだ。
家族になってから今まで、こんな幸せそうな表情を見たのは初めてだった。
暖房が効き、部屋はますます暖かくなる。
追い払ったはずの眠気が、再びゆっくりと戻ってきた。
(しばらくは描き続けるだろうし……少しだけ寝るか)
そう考えた涼介は目を閉じ、そのままソファで深い眠りへ落ちていった。
◇
二時間後。
高城凌乃はようやくペンを置いた。
目の前に並んだ数枚のラフを見渡し、満足そうに大きく伸びをする。
「さすが私」
「これだけ短時間で、ここまで描けるなんて」
原稿用紙には、『カードキャプターさくら』序盤に登場する人物たちが、生き生きと描かれていた。
彼女はまだネームどおりに原稿を起こしたわけではない。
まずはキャラクターデザインを固めていただけだ。
(あいつのイメージと違う部分もあるかもしれない)
(デザインが決まってから、本格的に原稿へ入ればいいわ)
そう思いながら、凌乃はソファへ目を向けた。
「何よ」
「私は必死に描いてたのに、また寝ちゃってるじゃない。本当にそんなに眠いの?」
少女は静かに立ち上がり、足音を忍ばせてソファの前まで歩いていく。
そして、その場へしゃがみ込んだ。
眠る涼介の顔を、じっと見つめる。
少年の整った顔には、無防備な安らぎだけが浮かんでいた。
「……まつ毛まで長いなんて、ちょっと悔しい」
凌乃は思わず指先でそっと触れてみる。
それでも涼介は目を覚まさない。
「本当にぐっすり寝てるのね」
その瞬間、何かを思いついたように口元がにやりと歪んだ。
凌乃は音を立てないよう立ち上がる。
作業机まで戻ると、一本の油性ペンを手に取り、再びソファの前へ戻ってきた。




