第17話 野望
三日間は、あっという間に過ぎ去った。
高城涼介は食事の時間を除き、ほとんどずっと自室に閉じこもっていた。
凌乃がようやく彼の姿を見かけたのは、今朝の食卓でのことだった。
「よう。おはよう」
涼介のほうから声をかけてくる。
「何よ。行方不明者がようやく帰ってきたの?」
凌乃は向かいの席に腰を下ろし、焼いた食パンを小さくかじった。
「お前に教えるための教材は、もう整理し終わった。今日の夜から毎日問題を出す。冬休みが終わるまで、一日二時間だ」
涼介はそう言いながら水を一口飲み、口の中の食べ物を流し込んだ。
凌乃は白い目を向け、返事をする気にもなれなかった。
すでに少し後悔し始めている。
学年トップクラスの優等生を三日間も部屋に閉じ込めて作られた問題など、いったいどれほど難しいのだろう。
毎晩二時間という時間そのものは構わない。
問題は、二時間で終わる量なのかどうかだった。
「心配するな。僕が出す問題なら、必ず時間内に終わる。仮に終わらなくても、二時間経った時点でやめていい」
凌乃の考えていることを見抜いたのか、涼介は先回りして不安を打ち消した。
三日間かけて教材を整理した結果、来年春の入試問題なら、九割ほどは出題範囲を絞り込めると確信している。
凌乃が言われたとおりに勉強を続ければ、冬休みが終わって学校へ戻る頃には、すぐに成績に変化が表れるはずだった。
「分かったわよ」
凌乃も、それを聞いて、それ以上言い争うつもりはなかった
「それと、もう一つ伝えておくことがある。お前の担当編集者から、僕のところへ電話がかかってきた」
「えっ?」
(また原稿の催促?)
(伊織刹那なら、私の連絡先を知ってるはずなのに)
凌乃は携帯電話を取り出し、着信を見逃していないか確かめようとした。
しかし、すぐに違和感に気づく。
「待って。どうして私の担当編集者が、あんたに連絡してくるのよ?」
珍しく鋭いところに気づいたらしい。
どう考えても、高城涼介へ連絡が届くはずはない。
「島川映画に知り合いがいるんだ。その人が、僕たちを兄妹だと知っていた」
涼介は適当にごまかした。
すると凌乃は、すぐに眉をひそめる。
「誰が外で私の兄を名乗っていいって言ったのよ?」
(気にするのはそこなのか?)
涼介は少し意外に思った。
島川映画に知り合いがいる理由を追及されるのではないかと警戒していたのだ。
「話を逸らすな」
涼介は箸を軽く振り、少女の追及を遮った。
「電話をかけてきたのは、新しくお前の作品を担当する編集者だ。斎藤というらしい。前の担当は外されたそうだ」
そのまま説明を続ける。
「原稿の催促については、僕のほうで一応話をつけておいた。冬休みが終わるまでに提出することになっている」
「本当に?」
凌乃の目が一気に輝いた。
(それじゃ、もうあの偉そうな伊織刹那に会わなくて済むの?)
これまでは、少し不安が残っていた。
あの謝罪が本心からのものだったのかも分からない。
あとになって嫌がらせをされたらどうしよう、と考えていたのだ。
次に島川映画へ行くときは、新垣瑠璃にもついてきてもらおうとさえ思っていた。
「ああ、本当だ。かなり信頼できる編集者らしい」
涼介は平然と言う。
「職業倫理上の問題を起こすこともないし、お前の頭が悪いからといって、馬鹿にするような人間でもないそうだ」
「誰の頭が悪いですって?」
凌乃は歯を食いしばり、今にもテーブルへ飛び乗りそうな勢いで睨んできた。
「ぶっ……」
涼介は堪えきれず、吹き出してしまった。
その声に、台所を片づけていた美恵子が振り返る。
二人は慌てて何事もなかったように振る舞った。
「今すぐ謝ったほうがいいわよ、高城涼介」
凌乃は声を潜めながら、テーブルの下へ手を伸ばした。
その手が、涼介の太腿に触れる。
「……?」
涼介の表情が変わった。
(何をするつもりだ?)
(兄妹は禁断とはいえ、血は繋がってない。でも、ここは食卓だぞ?)
「お前、何を――痛っ!」
身体を引こうとした瞬間、太腿に鋭い痛みが走った。
下を見ると、凌乃のネイルが容赦なく脚に食い込んでいる。
「悪かった!」
涼介は潔く謝罪した。
純粋な腕力では、父親譲りの怪力を持つこの妹に到底敵わない。
しかも今の相手は、爪という『武器』まで装備している。
「ふん。今回は許してあげる」
高城凌乃は手を離し、いかにも満足そうな顔で涼介を一瞥した。
そのまま席を立ち、自室へ戻ろうとする。
今日は、やらなければならないことがあった。
担当編集者が変わったのなら、これ以上原稿を遅らせる理由もない。
すでにペン入れまでは終わっている。
あとはスクリーントーンを貼り終えれば、完成原稿として提出できる。
早めに渡してしまえば、一つ肩の荷が下りる。
そのあとで、新作について考えればいい。
凌乃が立ち去ろうとしたところで、涼介が呼び止めた。
「僕のネームも、導入部分までは完成した。家で読むか、それとも外へ行くか?」
涼介は、美恵子が台所の片づけに集中している隙を見て、凌乃へ目配せした。
副業のことは、二人だけの秘密だ。
母親に聞かれれば、父親に知られるのとほとんど変わらない。
「あとで私の部屋へ持ってきて」
(本当に作ったのね)
(よくもまあ、そんな無駄なことに時間を使えるものだわ)
凌乃は怪訝そうに涼介を見た。
そう言い残すと食卓を離れ、先に二階へ上がっていく。
(どうせ素人の描いたネームなんて、一度目を通せば十分よ)
(仕事場まで連れていくほどのものでもないし、時間もかからないでしょ)
凌乃は、そんなふうに考えていた。
◇
ピンク色で統一された部屋の中で、兄妹は向かい合って床に座っていた。
涼介は、分厚いノートを凌乃の前へ差し出す。
凌乃が何気なくページをめくってみると、百ページ近い内容が詰め込まれていた。
「ずいぶん頑張ったじゃない。三日でこれだけ描いたの?」
思わず感嘆の声が漏れる。
「だいたい十話分のネームを作った。しばらく描く分には困らないはずだ」
涼介は淡々と答えた。
「全体では百四十話くらいになる予定だ。冬休みが終わってから一か月もあれば、全部仕上げられると思う」
涼介が口にした百四十話という数字は、前世のテレビアニメ版を漫画向けに再構成した結果、導き出したものだった。
『クロウカード編』とその続き、さらに『さくらカード編』までの主な物語を、すべて含めた話数である。
原作漫画を基準にすれば、七十話ほどまで削ることもできるだろう。
だが、それでは物語が少し薄くなりすぎるように思えた。
そのため涼介は、自分なりの構成で描くことにしたのだ。
「百四十話って……よくそんな大口を叩けるわね」
自信満々に言い切る涼介を見て、凌乃は呆れたように唇を尖らせた。
その根拠のない自信を見せつけられると、どうしても反論したくなる。
まるで、この作品を世に出せば必ず大ヒットすると決まっているかのような態度だ。
途中で打ち切られる可能性はもちろん、編集部の企画会議すら通らない場合を、まったく考えていないのだろうか。
そもそも漫画にする価値がある作品なのかどうかなど、第一話を読めばおおよそ判断できる。
凌乃は対抗心を抱きながら、ノートの最初のページを開いた。
そして、そこへ描かれたものを目にした瞬間――一度きょとんとしたあと、腹を抱えて笑い始めた。
「あはははっ! 何よこれ! 線はぐにゃぐにゃだし、身体も歪んでるじゃない! 本当に笑わせないでよ!」
涼介は困ったように笑った。
仕方がない。
本人なりに全力を尽くした結果が、これなのだ。
辛うじて、何を描こうとしているのか判別できる程度にはなっている。
「ネームなんだから、絵の上手さにこだわる必要はないだろ。何とか読み取ってくれ」
涼介は肩をすくめた。
「実際の作画を担当するのは、お前なんだから」
「ずいぶん自信ありげじゃない」
凌乃は小さな鼻を得意げに鳴らした。
「それじゃ、読ませてもらおうかしら。あとで評価が厳しすぎるとか文句を言わないでよね。私は売れっ子漫画家なんだから!」
そう言って、凌乃は物語そのものへ意識を向け始めた。
『カードキャプターさくら』の物語は、主人公である木之本桜が見る、ある夢から始まる。
「女の子向けの作品なの? やっぱり、この人には変な趣味があるんじゃ……」
凌乃は涼介をじろりと睨んだあと、再びノートへ視線を戻した。
木之本桜は、東京タワーの上に立っていた。
周囲には、無数のカードが舞っている。
やがて朝を迎え、夢から目覚めた桜は、憧れの月城雪兎に会うため、兄の桃矢を慌てて追いかけ、一緒に学校へ向かう。
「王道の始まりね。普通の女の子だった主人公が特別な力に目覚めて、冒険を始める話かしら?」
序盤の数ページは、比較的穏やかな展開だった。
涼介の壊滅的な絵が気になって、少々集中を乱されるものの、物語の運び自体に大きな問題は見当たらない。
凌乃は辛抱強く、その先を読み進めた。
ノートの中で、場面は放課後へ移る。
家に帰った桜は、地下の書庫から物音が聞こえてくることに気づいた。
恐怖をこらえながら地下へ降りていくと、そこには金色の光を放つ一冊の本が置かれている。
本を開くと、中には一枚のカードが収められていた。
その下には、英語で名前が記されている。
ネームの中の桜と同じように、凌乃も無意識に最初のカードの名を読み上げた。
「……『THE WINDY』? 風?」
次のページをめくる。
その瞬間、場面の中で猛烈な風が巻き起こった。
桜が我に返ったときには、本に収められていたほかのカードはすべて空へ飛び去り、手元には「風」のカードだけが残されていた。
続く場面には――何とも形容しがたい生き物が登場する。
それは自らを、魔法のカードを守る封印の獣、ケルベロスだと名乗った。
そこまで読んだところで、凌乃は意外そうに息を呑んだ。
そして、隣で退屈そうに欠伸を噛み殺している涼介へ目を向ける。
(こいつ……)
(ただの思いつきで言っていたわけじゃないみたい)




