第16話 姉妹の噂話
翌日。
高城凌乃は、食卓の前に座っていた。
冬休みに入ってからというもの、朝になれば必ず顔を合わせていたはずの、あの気に入らない義兄の姿がない。
「……あいつは?」
気になって仕方がなくなり、凌乃は不本意そうに美恵子へ尋ねた。
「えっ? 凌乃、涼介のこと?」
美恵子は少し驚いたように目を瞬かせた。
「まだ起きてこないのよ。昨日は遅くまで勉強してたみたい。部屋を覗いたら、机の上に開いた本がたくさん並んでいたわ」
凌乃のほうから話しかけてきたことが、美恵子には意外だったらしい。
涼介に対するときほど刺々しくはないものの、凌乃が美恵子へ自分から声をかけることも滅多にない。
「何よ。昨日は十一時を過ぎて寝ると老けるとか言ってたくせに」
凌乃は思わず悪態をついた。
あの言葉を気にして、昨日は早めに風呂と歯磨きを済ませ、布団へ入った。
それなのに、結局三時間も眠れずに過ごしたのだ。
(机に広げてあった本って、昨日買った問題集よね?)
(私に勉強を教えるとか言っておいて、自分が先に問題を解いてるわけ?)
「私、あとで友達と遊びに行ってくる。夕飯までには帰るから!」
朝食を終えた凌乃は二階へ上がり、服を着替えた。
美恵子へ一声かけると、そのまま玄関へ向かう。
「分かったわ。気をつけて行ってらっしゃい」
凌乃は軽く手を振り、家を出た。
◇
新宿の街中。
白と緑を基調にした服装の少女二人が腕を組み、並んで歩いていた。
整った顔立ちに丁寧な化粧。
すれ違う男たちは、思わず足を止めて振り返ってしまう。
「ねえ、瑠璃。あいつって、少し自信過剰すぎると思わない?」
「えっ? 凌乃、誰のことを言っているの?」
「決まってるでしょ。あの義兄よ!」
新垣瑠璃の頭に、先日デパートで自分が服の裾を掴んだ青年の姿が浮かんだ。
なぜか頬が少し熱くなる。
「最近、凌乃とお兄様の関係は少しよくなっているみたいね」
「どこがよ。私は今でも、あいつのことが嫌いなんだから」
「でも最近、ずっとお兄様の話をしているでしょう?」
瑠璃は楽しそうに笑い、逃がさないようにするかのように、親友の腕をしっかり抱き寄せた。
「それは、あいつが次々と面倒を持ち込んでくるからよ。父さんに、私が副業をしてることまで話したんだから……」
「そのまま話したの? 凌乃のお父様ならなら、反対しそうだけれど」
瑠璃は不思議そうに首を傾げた。
今の凌乃の様子を見る限り、ひどく叱られたり、漫画をやめさせられたりしたようには見えない。
「今のところは何も言われてないわ。あいつが父さんに、私には絶対無理なことを約束したから」
「無理なこと?」
「千葉第一高校へ進学させるとかよ」
高城凌乃は唇を尖らせ、道端の小石を蹴った。
「本気で勉強を教えるとか言って、昨日は大量の問題集を買い込んで、朝起きられなくなるまで一人で読んでるの。どんな馬鹿でも自分が教えれば絶対に合格できるとか、よくあんな大口を叩けるわよね」
それを聞いた新垣瑠璃は、少し驚いたように眉を上げた。
千葉第一高校。
その名に違わず、県内でも屈指の進学校である。
合格するのは、決して簡単なことではない。
凌乃の成績については、同じクラスの瑠璃もよく知っていた。
二人の順位は、ほとんど正反対だ。
瑠璃が常に上位なら、凌乃は常に下位。
瑠璃自身なら、千葉第一高校に合格する自信はある。
しかし親友の場合、どれだけ運よく実力以上の力を発揮しても、合格の可能性は一パーセントほどしかないだろう。
瑠璃はもともと、志望校の水準を少し下げ、点数を調整して凌乃と同じ高校へ進むことも考えていた。
(お兄様は、凌乃を千葉第一高校に合格させると約束したのね)
(本当に、そんなことができるのかしら……)
心の中では疑っていた。
それでも、もし少しでも現実的な可能性があるなら、瑠璃も志望校を変更する準備をしなければならない。
「それだけじゃないのよ、瑠璃。あいつ、私と組んで漫画を描くとか言い出したの」
そう口にした凌乃の顔には、わずかな怒りが浮かんでいた。
まるで、自分の領域を軽んじられたかのような表情だ
「協力しなければ勉強を教えないっていうのよ。漫画家なんて誰でもなれると思ってるのかしら。いくら何でも自信過剰すぎるわ」
「そうとも限らないんじゃない?」
新垣瑠璃は、凌乃の表情を窺いながら言った。
「お兄様はとても頭がいいもの。もしかしたら、凌乃と同じように才能があるのかもしれないわ」
その反応を見る限り、凌乃はあの日、島川ビルで何があったのかを本当に知らないらしい。
瑠璃は、親友のあまりの鈍さに内心で呆れてしまった。
島川ビルは、誰でも自由に出入りできる場所ではない。
仕事の用事がなければ、関係者以外はエレベーターに乗ることすらできないのだ。
そこにいたということは、作家か、何らかの業務に関わる人間だと考えるのが自然である。
しかも先日、デパートで涼介本人から、ライトノベルの仕事で島川ビルへ行っていたと聞いている。
その後、瑠璃はライトノベル作家としてデビューするための条件について、わざわざ自分で調べていた。
(やっぱり凌乃は、お兄様が小説を書いていることを知らないのね)
(新人賞の金賞を受賞してデビューできるなんて、本当にすごいことなのに)
(漫画制作の話も、冗談で言っているわけではないのかもしれない)
それに涼介は、約束どおり凌乃の秘密を父親へすべて話したわけではなかった。
そのことが、瑠璃には少し嬉しかった。
気づけば、自然と笑みがこぼれている。
「瑠璃、何を笑ってるの?」
高城凌乃は親友の表情に気づき、何かを察したように声を上げた。
「あっ、分かった。あいつが身の程知らずだから笑ってるんでしょう?」
やはり、そうに違いない。
漫画の素人が、いきなり漫画制作へ踏み込もうとしているのだ。
考えるだけでも滑稽な話である。
「違うわよ」
瑠璃は慌てて否定した。
自分でも、なぜ笑ってしまったのかはよく分かっていない。
ただ、少し嬉しい気持ちになっただけだ。
けれど、今の凌乃を見ていると、涼介がライトノベル作家だと知ったときの反応も簡単に想像できる。
そう思うと、瑠璃はまた笑いを堪えられなくなった。
「ほら、やっぱり笑ってるじゃない!」
凌乃はむっとした表情を浮かべた。
「あいつのことを笑うくらい、別に隠さなくてもいいでしょ。早めに諦めたほうが本人のためよ。漫画のことで毎晩遅くまで起きてたら、老けるのも早くなるんだから」
「凌乃、お兄様のことを心配しているの?」
「えっ?」
凌乃は一瞬固まった。
次の瞬間、図星を突かれたかのように顔を真っ赤にする。
「何を言ってるのよ! あんな嫌な奴の心配なんて、するわけないでしょ!」
◇
気楽に街を歩く少女たちとは対照的に、島川ビルの漫画編集部には重苦しい空気が漂っていた。
会議室では、伊織編集者が上司から名指しで厳しく叱責されている。
数日前、高城兄妹が社内で起こした騒動は、結局ほかの部署にも知れ渡っていた。
伊織編集者は年末に副編集長へ昇進する予定だったが、今回の一件でその望みは完全に断たれた。
さらに、『月魔女変身』の担当編集者からも外され、別の人間へ引き継がれることになった。
一方、同じ階にあるライトノベル編集部。
早川留美はコーヒーを手に自分の席へ戻ってきた。
顔には笑みが浮かび、見るからに機嫌がいい。
その隣には、彼女を指導する副編集長の服部拓也が座っていた。
「服部さん、聞きましたか? 隣の伊織編集者、担当を外されたそうですよ。これで年末の昇進も絶望的みたいです。いい気味ですよね」
早川留美が持ち込んだのは、昼休みに休憩室で仕入れてきたばかりの最新情報だった。
服部拓也は表情を変えない。
「君に何の関係がある。まずは自分の仕事をきちんとやることだ」
入社したばかりの頃なら、その淡々とした反応を見た時点で、早川留美は口を閉じて仕事へ戻っていただろう。
しかし、今では二人の付き合いも長い。
服部拓也の耳がわずかに動いたのを見逃さなかった。
本当に興味がないわけではないらしい。
「もちろん関係ありますよ。あの伊織編集者、先日時雨沢先生のことを部外者扱いしたんですよ? すごく失礼だったんですから」
早川留美は楽しそうに続けた。
「でも、そのあと時雨沢先生が二言三言話しただけで、伊織編集者はすっかり怯えてしまって。服部さんもその場にいればよかったのに」
「その場にいなくても同じだ。その話なら、すでに聞いている」
服部拓也はそこで言葉を切り、早川留美へ視線を向けた。
「それより、社内で噂になっている話は本当なのか? 時雨沢と『月魔女変身』の天才少女漫画家が兄妹だという話だ」
「たぶん本当だと思います。二人とも高城という名字だって、本人が言っていましたから」
早川留美は人差し指を顎に当て、少し考え込んだ。
服部拓也は机の上のコーヒーを一口飲む。
パソコンの画面を見つめながら何かを考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「それなら、隣の漫画編集部へ行って、彼の連絡先を斎藤編集者へ渡してきてくれ」
「えっ? 斎藤編集者って、どなたですか?」
早川留美は不思議そうに尋ねた。
高城涼介はライトノベル編集部が担当する作家だ。
なぜ、その連絡先を漫画編集部へ渡す必要があるのだろう。
「伊織の仕事を引き継いだ編集者だ。伊織が作者の連絡先を渡そうとせず、引き継ぎに協力していないらしい」
「そういうことですか」
早川留美は納得したように頷いた。
「時雨沢先生を通せば、『月魔女変身』の作者と連絡が取れるかもしれませんものね。すぐに行ってきます」
「電話番号を伝えるだけでいい。余計なことは話すなよ」
「分かっています!」
そう答えると、早川留美は特に疑問を抱くこともなく、慌ただしく席を立った。
服部拓也は遠ざかっていく背中を眺め、疲れたように首を振る。
「本当に素直というか……早く成長してくれるといいんだがな」
服部拓也は再びパソコンの画面へ目を向け、マウスを操作した。
そして、画面に表示されていた一通のメールを閉じる。
その件名には――
『職業倫理に関する提言』
と書かれていた。




