第14話 カードキャプター
「そろそろ、僕の上から退いてくれないか?」
「でも、まだ引き受けるって言ってないじゃない」
「まず降りろ」
「分かったわよ」
高城凌乃がベッドから降りると、涼介はすぐに身体を起こし、部屋の扉を閉めて照明をつけた。
眩しい光に、二人そろって目を細める。
明るさに慣れるまで、しばらく時間がかかった。
高城凌乃は涼介の椅子へどかりと腰を下ろし、机にもたれかかる。
「何よ、こんな時間にもう寝てたの? 本当に高校生? 生活習慣がおじいちゃんみたい」
「おかしいのはお前だ。十一時を過ぎても寝ない生活を続けると、老化が早まるって聞いたことないのか?」
「えっ、本当に?」
高城凌乃は疑わしそうな顔をした。
涼介の話を、まるで信じていないらしい。
「それで、昼間に言ってたことは本当なの? 私を千葉第一高校に合格させるって話」
高城凌乃は、そのことを何時間も考え続けていた。
どれだけ考えても、ほかに道はなさそうだった。
漫画を描くことは、彼女にとって大切な趣味だ。
父親が望む高校に合格できなかったせいで、これから三年近く漫画を描くことを禁じられるなど、到底受け入れられない。
そんなことになれば、毎日はどれほど退屈になるだろう。
きっと、いくつもの塾や補習で予定を埋め尽くされる。
そんな未来だけは絶対に嫌だった。
だからこそ、涼介の指導を受ければ本当に千葉第一高校へ合格できるのか、今すぐ確かめておきたかったのだ。
「もちろん、約束は守る」
涼介はベッドへ腰を下ろした。
「お前がどれだけ馬鹿でも、合格させる方法くらいはある」
涼介からすれば、日本の受験制度は、前世で暮らしていた国ほど厳しくはない。
受験勉強で重要なのは、出題傾向を読み切ることだ。
狙いを定めた問題を繰り返し解けば、それだけでも十分に高い点数を取れる。
だからこそ、涼介は自信を持って言い切れた。
千葉県の教材は、決して難しいものではない。
涼介の能力なら、試験範囲と出題傾向の九割ほどを絞り込める。
そこを重点的に凌乃へ叩き込めば、合格も不可能ではなかった。
日本で本当に難しいのは、高校受験ではなく大学受験なのだ。
「ただし、条件がある」
涼介は凌乃のそばへ歩み寄った。
その耳元をかすめるように腕を伸ばし、背後の机に置かれていた島川映画の漫画雑誌を手に取る。
「まず、お前の原稿を見せてくれ」
「えっ?」
高城凌乃は怪訝そうに眉をひそめた。
「何するつもり? 原稿なら家には置いてないわよ。借りてる仕事場に全部置いてあるから」
「それなら明日、そこへ連れていってくれ。原稿を見てから、手伝うかどうか決める」
涼介は凌乃の背中を押し、そのまま部屋の外へ追い出した。
「ちょっと、押さないでよ。自分で歩けるから」
凌乃は不満そうに呟きながら、廊下から涼介を睨む。
扉を閉める直前、涼介は人差し指を彼女へ向けた。
「次から、僕が寝ているときに部屋へ入ってくるな。特に――勝手にベッドへ上がるのは禁止だ」
「ふんっ!」
高城凌乃は鼻を鳴らし、涼介を睨みつけると、そのまま踵を返して立ち去った。
扉が閉まり、部屋に再び静けさが戻る。
(まったく、とんでもない妹だ)
高城涼介は照明を消し、もう一度ベッドへ横になった。
これでも自分は、思春期真っただ中の高校生である。
あれほど無防備にベッドへ上がり込んでくるなど、凌乃は自分を異性としてまったく意識していないのだろうか。
涼介は目を閉じたものの、胸の内は妙に落ち着かなかった。
(本当に、人を振り回してくれるな……)
◇
翌朝。
高城涼介は両目の下にくっきりと隈を作り、食卓に着いていた
「どうしたの、涼介。昨日はよく眠れなかったの?」
美恵子が心配そうに尋ねてきた。
高城勇夫は、すでに家を出てしばらく経っている。
食卓には美恵子のほかに、パンを少しずつかじっている凌乃もいた。
「大丈夫。昨日の夜、鬼がベッドへ上がってくる夢を見て、目が覚めただけだから」
涼介は凌乃から向けられる殺気のこもった視線を無視し、母親へ笑いかけた。
「今日は凌乃と出かけてくるよ。勉強に使う参考書を買いに行く予定なんだ」
「ええ、行ってらっしゃい。代金は帰ってきたらお父さんに出してもらえばいいわ。お小遣いから払わなくていいからね」
美恵子は笑顔で頷いた。
目に見えて改善していく兄妹の関係が、嬉しくて仕方がないようだ。
ついには二人で買い物へ出かけるようになった。
それが、とても喜ばしいことに思えた。
一方、高城凌乃は何も言わなかった。
ただ手に持った食パンに憎々しげに噛みつき、八つ当たりするように音を立てて咀嚼していた。
◇
「鬼がベッドへ上がってきたって、どういう意味よ!」
家を出た途端、凌乃は涼介を糾弾するように問い詰めた。
「言葉どおりだ。真夜中に人の上に跨がって、平手打ちで起こすような奴を鬼と呼んで、何か間違ってるか?」
「誰が鬼だって聞いてるのよ、この馬鹿!」
「ふっ」
涼介は小さく笑うだけで相手にせず、そのまま駅へ向かって歩き出した。
(本当に、腹の立つ性格をしてる)
高城凌乃は怒りを押し殺し、歯を食いしばりながら後ろをついていった。
どういうわけか、彼とはとことん相性が悪い。
涼介が軽い冗談を口にしただけでも、すぐに苛立ってしまう。
「どうして、そこまで私の原稿を見たがるの?」
電車に乗ってからも気になり、凌乃はとうとう自分から尋ねた。
「余計なことは聞くな。原稿を見たあとで説明する」
涼介は適当に答えた。
(こいつ……!)
とはいえ、今は自分が頼み事をしている立場だ。
凌乃はひとまず怒りを飲み込んだ。
その後は大きな揉め事もなく、電車はほどなく目的地へ到着した。
栄町駅。
凌乃が仕事場として使っている場所は、出かける前に確認してあった。
栄町駅の近くにあるアパートの一室だ
ここを選んだ理由は、家賃の安さだけではない。
自宅から近いという点も大きかった。
自転車なら、十五分ほどで到着できる距離だ。
凌乃に案内され、涼介はすぐに仕事場の前までたどり着いた。
凌乃が鍵を差し込み、アパートの扉を開ける。
先に中へ入ると、涼介が足を踏み入れるより早く、目の前で扉を閉めてしまった。
「ちょっと外で待ってて。片づけるから」
この場所には、新垣瑠璃ですら連れてきたことがない。
凌乃にとっては、誰にも知られたくない秘密基地だった。
涼介も、他人の秘密を覗き見る趣味はない。
大人しく扉の前で待つことにした。
およそ十分後、仕事場の扉が開いた。
凌乃が隙間から顔を覗かせる。
「入っていいわよ」
中へ足を踏み入れた涼介は、興味深そうに周囲を見回した。
前世を含めても、漫画家の仕事場へ入るのはこれが初めてだ。
しかし、凌乃の秘密基地は、涼介が想像していた漫画家の仕事場とはずいぶん違っていた。
辺りには描き損じた紙が大量に積み重なっている。
壁際には棚のようなものが二列並び、そのすべてに分厚い黒い布がかけられていた。
布には埃一つついていない。
おそらく先ほどの十分間で、凌乃が慌てて中身を隠したのだろう。
仕事場の一番奥には、天板が傾斜した机が置かれていた。
涼介もインターネットで見たことがある。
漫画家が使う作業机だ。
「ほら、これが最新話の原稿」
高城凌乃は、厚い原稿の束を差し出した。
「まだスクリーントーンも貼ってないし、ペン入れまでしか終わってないから。見るなら気をつけてよ。破ったら殺すからね!」
涼介は原稿を受け取り、数ページを軽くめくった。
「確かに上手いな。お前、本当に才能があるよ」
心の底から出た称賛だった。
突然褒められた凌乃は、すぐには反応できなかった。
心臓が急に大きく跳ね始める。
伊織編集者を除けば、面と向かって絵を褒められたのは初めてだった。
そのせいか、言葉まで少しつかえてしまう。
「な、何よ。急にそんなこと言って……わ、私は売れっ子漫画家なんだから、上手くて当然でしょ!」
「僕の知る限り、『月魔女変身』はもうすぐ完結するんだろ? 次回作については何か考えているのか?」
涼介が唐突に尋ねると、高城凌乃は一瞬きょとんとしたあと、首を横に振った。
「まだ何も思いついてないわ。というか、この漫画で全部のアイデアを使い切った気がする……」
それは凌乃自身も悩んでいることだった。
デビュー作がいきなり大ヒットしたのは、確かにすごいことだ。
しかし、連載を続けることがどれほど苦しいかは、作者である彼女にしか分からない。
『月魔女変身』をここまで描き続けるだけでも、すでに知恵を絞り尽くしていた。
連載後半に入ってからは、ほとんど同じ型を繰り返している。
主人公である月魔女の少し抜けた日常。
そこから危機が発覚し、怖気づいて逃げようとした末に、最後は敵と戦う。
凌乃が無意識に物語を完結へ向かわせたのも、それが理由だった。
自分でも、話がだんだん面白くなくなっていると感じていたのだ。
新しい物語について考える時間など、まったく取れない。
ましてや、それを漫画として描き上げる余裕などなかった。
「そうか」
涼介は手にしていた原稿を凌乃へ返した。
「それなら、僕と組んでみないか?」
「どういう意味? あんた、いったい何をするつもりなの?」
高城凌乃は、目の前に立つ義兄を怪訝そうに見つめた。
「勉強を教える条件として、僕と一緒に一本の漫画を作ってほしい」
涼介は作業机に軽く寄りかかる。
「僕がネームを担当して、お前が作画を担当する。利益は半分ずつだ」
高城涼介はペン立てからつけペンを一本抜き取り、紙の上に作品名を書いた。
そして、呆然としている妹へ差し出す。
凌乃はそこに書かれた文字を見つめ、無意識に声に出した。
「カードキャプター……さくら?」




