第12話 ちゃんとズボン履きなさい
(そんなこと考えるお前のほうがおかしいだろ……)
高城涼介は呆れた目で凌乃を見つめ、思わず額を押さえた。
ただ寒そうだったから、脚のほうへ視線を向けただけだ。
それなのに、どうして彼女の目には変態のように映るのだろう。
同じ屋根の下で暮らす妹が兄へこんなことを言うなど、いったいどれほど関係が悪ければそうなるのか。
たった数言交わしただけで、涼介はすっかり会話を続ける気をなくしてしまった。
「これからは、家の中でもちゃんとズボンを穿けよ」
そう言って立ち上がる。
これ以上、部屋に残るつもりはなかった。
「ちょっと、誰が帰っていいって言ったのよ!」
まだ秘密を守るとは約束してもらっていない。
もし父親に知られれば、凌乃にとっては大変なことになる。
彼女は慌てて引き止めようとしたが、涼介に睨まれた。
「止めるなら、今すぐ父さんへ電話して、お前の秘密を全部話すぞ」
「うっ……」
高城凌乃は、その一言でたちまち大人しくなった。
見るからにしおれ、肩を落とす。
「卑怯者……」
小さく呟くと、涼介が眉を上げた。
「何か言ったか?」
「何も言ってない!」
◇
二人が抱える秘密は、家の中で特に波風を立てることもなかった。
夕食の時間。
四人はそろって食卓を囲んでいた。
テレビでは、いつものように『月魔女変身』のアニメが流れている。
しかし今夜に限っては、普段なら番組に釘づけになっている凌乃が、初めて画面から目を逸らしていた
熱のこもった視線を向けられても、涼介はまるで反応しない。
黙々と食事を進めている。
隣に座る高城勇夫が、食卓の空気の変化に気づかないはずがなかった。
勇夫は酒を一口飲み干すと、涼介へ声をかけた。
「涼介、東京はどうだった?」
「だいたい楽しかったです。それ以外は、特に変わったこともありませんでした」
「凌乃には会わなかったのか? あいつも東京へ行っていただろう」
何気ない質問のように聞こえるが、勇夫はわざと尋ねていた。
予想どおり、隣に座っていた凌乃の身体が一瞬で強張る。
娘が外で何か違法なことに関わっている可能性があるのなら、父親である高城勇夫は必ず真相を確かめなければならない。
百万円は、決して小さな金額ではない。
涼介が食卓で自分から何も話さないのは、実の娘に脅されているからかもしれない。
勇夫の問いに込められた意味は明らかだった。
彼は真剣な目で涼介を見る。
「会いましたよ。友達と一緒にデパートを見て回っていました」
涼介は平然と答えた。
「その子とも連絡先を交換しました。とても礼儀正しい子でしたよ」
「そうか。それならいい」
返答を聞き、高城勇夫はひとまず胸を撫で下ろした。
涼介が嘘をついていないことも、おおよそ見抜いている。
刑事である以上、その程度の判断力は持っていた。
勇夫はそれ以上追及しなかった。
わずかに緊張を解いた娘の様子を見て、何か考えるような表情を浮かべたものの、黙って食事へ戻る。
夕食を終えても、凌乃は自分の部屋へ戻らなかった。
落ち着かない気持ちのままリビングのソファへ座り、テレビで流れるアニメを眺めている。
しかし、内容はまるで頭に入っていなかった。
「涼介、ちょっと外へ来てくれ」
美恵子が食器を片づけている横で、高城勇夫が上着から煙草の箱を取り出した。
涼介へ手招きし、外で話そうと促す。
(まずい)
(見えないところへ行っちゃう!)
凌乃は緊張のあまり、息をすることすら苦しくなってきた。
あいつなら、父親に問い詰められたら全部話してしまうのではないか。
(終わった……終わった……)
高城凌乃は思わず頭を抱え、心の中で悲鳴を上げた。
この二日間、ずっとリビングに居座っていたのも、涼介が自分の秘密を漏らさないよう見張るためだ。
ようやく帰ってきた義兄は、少しも協力的な態度を見せてくれなかった。
(絶対に売られる……)
少女はソファの上で一人、絶望に苛まれていた。
二人が玄関から出ていく音が聞こえ、そのあと扉が閉まる。
すぐ外で、何か話しているようだった。
凌乃は近づいて聞き耳を立てたかったが、美恵子がまだ食卓のそばにいる。
あまり露骨な動きはできない。
(全然聞こえないじゃない……!)
一秒、また一秒と時間が過ぎていく。
高城凌乃は針のむしろに座らされているような気分だった。
次の瞬間には、父親から嵐のような追及を受ける気がしてならない。
耐えきれず、携帯電話を取り出した。
新垣瑠璃へ、すぐにメールを送る。
『どうしよう、瑠璃! バレちゃう!』
ほどなくして返信が来た。
『えっ? お兄様が凌乃のことを告げ口したの? まさか』
『お父さんに一人だけ外へ呼び出されたの。もう死ぬ。絶対に全部話されるよぉ』
携帯電話の向こうで、新垣瑠璃は親友から届いた大げさなメールを見て、思わず笑ってしまった。
『大丈夫よ。お兄様はいい人だから、信じてあげて』
『(?`^′?) 瑠璃、またあいつの味方してる。まさか好きになったんじゃないでしょうね? あいつ、今日帰ってきてから私を脅したんだから』
凌乃から届いた文章を読み、新垣瑠璃はちょうど口にしていた紅茶でむせそうになった。
(やっぱり昨日、私から番号を聞いたことで誤解されたのかしら)
そう考えると、頬が熱くなる。
確かに、男の子へ自分から連絡先を尋ねたのは初めてだ。
あの場面を思い返せば、恥ずかしくなるのも無理はない。
瑠璃は素早く文字を入力し、返信した。
『変なこと言わないで。私は凌乃のことを知るために、連絡できるようにしただけよ』
『╭(╯^╰)╮ ふん、信じない。あいつのどこがいいのよ。お父さんだって私よりあいつに優しいし、瑠璃まであいつにいい印象を持ってるみたいだし』
新垣瑠璃がさらに説明しようとしたところで、もう一通のメールが届いた。
『もう切る! 二人が戻ってきた!』
玄関から物音がした。
父と息子が談笑しながら、リビングへ戻ってくる。
「涼介、これから凌乃の勉強を見てやってくれ。あいつは本当に成績が悪いから、少し指導してやる必要がある」
「分かりました。父さん、僕が手伝います」
「凌乃も、お前くらい手がかからなければいいんだがな」
(何の話をしてるの?)
(どうして急に勉強の話になったのよ?)
高城凌乃は思わず二人を見た。
ちょうど、涼介と目が合う。
彼は凌乃へ軽く目配せした。
(何よ。二人で何か合図でも決めてるの?)
凌乃は少し不満を覚えた。
しかし、父親が自分を問い詰める様子を見せないことには、心の底から安堵した。
肩の荷がようやく下りた気分だった
そのとき、高城勇夫が突然、娘の名を呼ぶ。
「凌乃!」
「はいっ!」
気を抜いたばかりの凌乃は、驚いてソファから飛び上がった。
「何だ、その反応は。女の子らしい落ち着きが少しもないな」
高城勇夫は怪訝そうな顔をする。
「これからは夕食のあと、涼介がお前の勉強を見る。ちゃんと教わるんだぞ。分かったな」
「えっ?」
高城凌乃は呆然と立ち尽くした。
(どういうこと?)
彼女の視線は、階段を上がっていく涼介の背中へ向いた。
「何をぼんやりしてる。上へ行け」
◇
部屋の中で、涼介は床へ腰を下ろしていた。
一方、高城凌乃は今度こそきちんとズボンを穿き、パソコン用の椅子に座っている。
身動き一つせず、涼介をじっと見つめていた。
「あんた、父さんに何て言ったの?」
「別に大したことは言ってない。お前のために保証しただけだ」
「何よ、それ。途中で止めないで、ちゃんと説明して」
「お前が、きちんとした方法で副業をしていると話した」
その言葉を聞いた瞬間、高城凌乃は慌てた。
「そんなことまで言ったの!?」
「そうしなければ、ベッドの下にある百万円以上の金をどう説明するんだ?」
「……え?」
高城凌乃は即座に床へ身を伏せ、ベッドの下を覗き込んだ。
隠していた金がまだそこにあることを確認すると、ようやく息を吐く。
「父さん、勝手に私の部屋へ入ったの? お金を隠してることまでバレたの?」
凌乃の顔から血の気が引いていた。
ほかのことなら、まだごまかせるかもしれない。
だが、これほど大きな原稿料について問い詰められたら、説明するのは難しい。
涼介は頷き、両手を広げた。
(愚かな妹よ)
(仮にベッドの下の金が見つからなかったとしても、身につけている高価なアクセサリーや服を見れば、父さんは気づく)
小遣いを少しずつ貯めた程度では、到底買えない物ばかりだ。
しかも、相手は刑事である高城勇夫。
適当な嘘一つでごまかすのは、あまりにも難しい。
「僕が保証したんだ。副業は学業に影響を与えないって。だから父さんも、それ以上は追及しなかった」
実際、高城勇夫が求めていたものは単純だった。
娘が違法なことに関わっていないこと。
そして、学業に悪影響が出ていないこと。
その二つさえ確認できればよかったのだ。
「何だ。父さんって、意外と話が分かるじゃない」
高城凌乃は完全に緊張を解き、初めて涼介の前で素直な笑顔を見せた。
「私の成績なんて、ずっと昔からこんなものだし。空いた時間を全部漫画とゲームに使っても、別に何も変わってないわ」
高城凌乃の成績が悪いのは、小学生の頃から続く伝統のようなものだった。
ここからさらに下がることも、そう簡単ではない。
学校では一応、授業もきちんと聞いている。
高校へ進学するくらいなら問題ないだろう。
「この程度なら、あんたに教わる必要なんてないわ。自分で何とかできるから」
高城凌乃は軽く手を振った。
目の前の義兄に対する印象も、少し変わっている。
(こいつ、案外いい人なのかも)
父親に秘密を隠してくれただけでなく、ある程度は認めてもらえる状況まで作ってくれた。
これなら今後、週末に仕事場へ出かけても、父親から根掘り葉掘り聞かれずに済むかもしれない。
凌乃はそう考え、礼を言おうと口を開きかけた。
しかし、その前に涼介が軽く咳払いをする。
「一つ、勘違いしているようだな」
「何が?」
「僕が父さんへ保証したのは――お前が千葉第一高校へ合格できるということだ」
高城凌乃は、一瞬だけ固まった。
次の瞬間には、怒った子猫のように両手を振り上げる。
「何を勝手に保証してるのよ!?」
千葉第一高校。
東京という国際都市の通学圏内にある学校の中でも、上位五校へ数えられるほどの進学校だ。
自他ともに認める落ちこぼれの自分が、そんな学校へ受かるはずがない。
それなのに、涼介はどうして父親へそんな保証をしてしまったのか。
(さっきの感謝を返してよ!)




