第108話 背徳
ほとんど反射的だった。
兄妹は、まるで感電したかのように同時に離れた。
高城凌乃は何も言わず、逃げるように涼介の部屋を飛び出していく。
生まれて初めてかと思うほど、心臓が激しく脈打っていた。
このまま口から飛び出してしまいそうなくらいだ。
「変態! 大変態!」
「何なのよ、あの体勢……!」
自分の部屋へ戻るなり、凌乃はすぐにドアを閉めて鍵をかけた。
そのまま扉に背中を預け、胸元を押さえる。
「さっきあいつ、変なところに手が当たってたよね……?」
頭の中は完全にぐちゃぐちゃだった。
そもそもの原因は自分にある。
けれど、あんな状況なら咄嗟に掴んでしまうのも仕方ないだろう。
「全部、あいつが非力なのが悪いのよ!」
凌乃はベッドへ飛び込み、布団を頭からかぶって丸くなった。
「寝よう……何もなかったことにすればいいんだから……」
そうやって無理やり眠ろうとしたものの、静まり返った夜の中では、自分の鼓動ばかりがやけに大きく聞こえる。
目を閉じれば、さっきの出来事が鮮明に蘇ってくる。
どうしても頭から追い出せない。
「もう、うるさい!」
……
一方、隣の部屋。
涼介は再び机の前に座り、開いたノートにペン先を落とした。
だが――。
まったく文字が出てこない。
「まずいな……完全に集中が切れた」
思わず苦笑が漏れる。 何しろ、まだ思春期真っただ中だ。
頭の中に余計なことが浮かぶのも仕方がない。
いくら妹とはいえ、あそこまで距離が近くなれば、さすがに落ち着かない。
「今日はもう休むか」
無理に机に向かっていても、まともな文章は書けそうになかった。
そう判断した涼介はノートを片づけ、ベッドに横になる。
だが、ふと思い出したように起き上がると、部屋のドアまで歩いていった。
そして内側から、しっかりと鍵をかける。
最近、凌乃との関係が良くなったせいか、少し距離が近くなりすぎている気がする。
勝手に部屋へ忍び込んでくることまで増えていた。
やはり、兄妹とはいえ適度な距離は必要なのかもしれない。
……
翌朝。
涼介は食卓につくと、何気なくリビングを見回した。
だが、凌乃の姿がない。
「凌乃なら、今日はずいぶん早く起きて、もう学校へ行ったわよ」
その視線に気づいた美恵子が教えてくれた。
「珍しいわね。何だかずっと考え込んでるみたいだったけど」
「凌乃が?」
「ええ。あの子、考えてることがすぐ顔に出るでしょう? また喧嘩でもしたの?」
喧嘩、なのだろうか。
涼介としては、そういう認識ではない。
ただ、昨夜のようなことがあった直後に顔を合わせれば、多少気まずくなるのは理解できた。
「喧嘩じゃないよ。こっちで何とかするから、母さんは心配しなくていい」
そう答え、涼介は皿に残っていた目玉焼きを食べ終える。
「そう言ってくれるなら安心ね」
美恵子は微笑みながら、空になった皿を下げた。
涼介は鞄を手に立ち上がる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関で靴を履きながら、涼介の手がふと止まった。
凌乃が高校へ進学してからというもの、朝はたいてい隣で、
「遅い! このままじゃ遅刻するでしょ!」
などと急かされ、そのまま一緒に学校へ向かっていた。
今日は、それがない、妙に静かだった。
涼介はそこで初めて気づいた。
いつの間にか、自分も凌乃という妹がそばにいる日常に慣れていたらしい。
……
高城凌乃は、普段より20分近く早く学校へ着いていた。
教室にはまだほとんど人がおらず、朝の当番になっている数人の生徒が、教室の前後で作業しているだけだ。
凌乃は自分の席まで行くと、鞄を机に置き、そのまま突っ伏した。
しばらくして、新垣瑠璃が教室へ入ってくる。
席へ向かう途中、机に伏せている親友の姿に気づいた。
珍しい。
普段の凌乃なら、登校時間はかなりギリギリなのに。
「凌乃? 今日はずいぶん早いね」
「うん」
顔を腕の中に埋めたまま、凌乃は小さく返事をした。
「寝不足?」
「うん」
「じゃあ、少し寝てていいよ。先生が来たら起こしてあげるから」
「うん」
見事なまでに「うん」しか返ってこない。
だが実際には、凌乃はまったく眠くなかった。
昨夜は夜中まで何度も寝返りを打ち、頭の中ではずっと同じ場面が繰り返されていた。
床に倒れ込んだこと。
すぐ近くに涼介の顔があったこと。
驚いたような表情。
そのあと、気まずそうに目を逸らしたこと。
最後はどんな顔をしていたっけ?
あのときは逃げることしか考えていなくて、振り返る余裕なんてなかった。
「あああっ、もう! うるさい!」
「えっ!?」
隣にいた瑠璃がびくっと肩を揺らす。
「あっ、ごめん! 瑠璃に言ったんじゃないから!」
凌乃は慌てて両手を振り、そのまま手を合わせて謝った。
「それならいいけど……凌乃、本当に大丈夫? 今日は休んだほうがいいんじゃない?」
瑠璃は心配そうに顔を覗き込む。
こんな凌乃を見ることは滅多にない。
「大丈夫!」
凌乃は顔を上げると、気合いを入れるように両手で頬をぱんぱんと叩いた。
ただの事故だ。
お互いわざとじゃない。
兄妹なんだから、それくらいのことをいつまでも気にしてどうする。
あいつだって、もう忘れているに決まってる。
自分だけ一晩中ぐるぐる考えていたなんて、馬鹿みたいじゃないか。
そう。
忘れればいい。
何もなかったことにすればいいのだ。
凌乃は無理やり気持ちを切り替えた。
「そういえば、昨日は瑠璃から返事なかったね?」
「ごめんね。昨日は読み始めたら止まらなくなっちゃって。気づいたらもう寝る時間だったから、凌乃の邪魔をしたら悪いと思って」
「ふふっ。私が勧めたあのラノベ読んでたんでしょ?」
瑠璃が頷く。
こうして凌乃は、ようやく昨夜の出来事から意識を逸らすことに成功した。
「こういう作品は初めて読んだから、新鮮ではあるんだけど……」
少し言いづらそうに続ける。
「私、読むのが遅くて。まだ雨生龍之介が出てきたところなんだけど……ちょっと怖いね」
「でしょ? だから言ったじゃない。あいつ、変態キャラを書くと妙に上手いのよ」
話題ができると、凌乃もひとまず昨夜のことを忘れることができた。
……
もっとも、そう簡単にはいかなかった。
その日の放課後。
家へ帰った凌乃は、玄関でちょうど靴を脱いでいた涼介と鉢合わせた。
「ただい――私、部屋に戻るから!」
靴を乱暴に脱ぎ、風のような勢いでリビングを横切って、そのまま階段を駆け上がっていく。
「凌乃?」
キッチンから美恵子が顔を出した。
「もうすぐご飯よ?」
「分かってる! あとで下りる!」
バタン。
ドアの閉まる音が響いた。
涼介の表情がわずかに引きつる。
美恵子はそんな彼をちらりと見た。涼介は気づかなかったふりをして靴を脱ぎ、リビングへ入っていく。
夕食の時間、食卓には、何とも言えない空気が漂っていた。
兄妹は向かい合って座っている。
片方は黙々とご飯を食べ、もう片方は俯いたままおかずをつまむ。
一度も目を合わせない、一言も会話しない。
聞こえるのは、箸と食器が触れ合う乾いた音だけだった。
「凌乃、今日のエビフライ、新鮮でおいしいわよ」
「うん」
「涼介、好きなお味噌汁、もう1杯あるわよ」
「うん」
まるで最低限の受け答えだけをこなしているようだった。
美恵子は茶碗を持ったまま、2人を交互に見てから、隣の勇夫へ視線を送る。
「ゴホン。お前たち2人――」
一家の主として何か言おうとした、その瞬間だった。
「何でもないから!」
凌乃が勢いよく顔を上げ、自分でも驚くほど大きな声だった。
「……?」
高城勇夫はきょとんとした。
まだ何も言っていないのだが。
仕方なく涼介へ視線を向ける。
信頼している息子なら、何か知っているだろう。
父親の視線に気づいた瞬間、凌乃の顔が一気に赤くなった。
そのとき。
涼介は茶碗を置き、紙ナプキンで口元を拭いた。
「ごちそうさま」
立ち上がり、階段へ向かって数歩進んだところで足を止める。
「凌乃。食べ終わったら部屋に行くから」
凌乃の箸が落ちかけた。
「な、何しに?」
まさか、このタイミングで……。
「勉強を見るために決まってるだろ。毎日のことじゃないか。それとも今日はやめる?」
涼介は思わず笑いながらそう言うと、そのまま2階へ上がっていった。
凌乃は呆然と、その背中が階段の向こうへ消えるのを見送る。
胸の奥に、なぜか妙な引っかかりが残った。
あいつ……本当に何もなかったみたいな顔してる。
「ほら、何見てるの。早く食べちゃいなさい」
美恵子は楽しそうに笑いながら、凌乃の皿にエビフライをもう1本載せた。
「食べ終わったら早く行きなさい。お兄ちゃんを待たせちゃ駄目よ」
「べ、別に待たせてなんかないし……」
凌乃は小さく呟き、そのままさらに深く俯いた。




