第104話 監督
涼介が口を開くと、それまで会場を満たしていたざわめきはすぐに静まった。
それでも、あちこちから小声で話す声は聞こえてくる。
「この人が、この会社の社長なの? 若すぎない?」
「そこは別に気にするところじゃないだろ。ANIPLEXの前身はYPEMNっていうサークルで、あの人が『Fate/stay night』の企画を立ち上げたらしいぞ」
「募集要項にも書いてあったよ。高城留美子先生と一緒に『カードキャプターさくら』も作ってるって」
「LAMP先生って……本人、こんなに若かったんだ」
「いや、気にするところはそこじゃないだろ。問題は給料だよ。こんな好条件、本当に出せるのか?」
「面接を始める前に、まず皆さんが一番気になっていることについてお話ししたいと思います」
涼介は、会場にいる全員が最も関心を寄せている話題へ、いきなり踏み込んだ。
「給与についてです」
その一言で、空気が変わった。
学生たちの視線が、一斉に壇上へ集まる。
「現在のアニメ業界では、出来高制が主流だということは僕も理解しています。ただ、ANIPLEXでは、自分たちにできる範囲で、そのやり方を変えていきたいと考えています」
「理由は……とても単純です」
涼介は一度言葉を切り、会場を埋める数百人の学生を見渡した。
「いつか皆さんが、この時期のことを振り返ったとき――思い出すのが、締め切りと枚数に追われ続けた苦しさだけであってほしくないんです」
「これまでも、今も、そしてこれからも。ANIPLEXが目指すのは、世界中の人たちに夢や希望、感動を届けられる作品を作ることです」
「そのためには、まず作る側の人間が安心して机に向かえる環境が必要だと思っています」
「生活の不安を抱えたままでは、いいものを作ることに集中するのは難しい」
「月給16万円」
「これは、ANIPLEXが皆さんに約束する最低限の生活保障です」
社員が生活していけるようにするためだけに、市場相場を大きく上回る固定給を出す。
そんな話を、この時代の学生たちが素直に信じられるはずもなかった。
バブル崩壊以降、企業が生き残るだけでも難しい。
経費削減は、どこの会社にとっても当たり前の課題だ。
ましてアニメ制作会社では、低賃金と出来高制が半ば常識になっている。
だからこそ、今日ここで語られた内容は、学生たちが知る「常識」とはあまりにもかけ離れていた。
会場が、一瞬静まり返る。
井上莉奈は、持参したポートフォリオを胸元でぎゅっと抱きしめながら、壇上で話す涼介を見つめていた。
「夢を……届ける、か」
十年以上絵を学び続け、東京工芸大学へ進み、アニメーションを専攻した。
ここまで彼女を動かしてきたものは、ずっとアニメへの憧れだった。
けれど、好きという気持ちだけで食べていけるほど、現実は甘くない。
1年生から4年生になるまでの間にも、たくさんの先輩たちが大学を卒業していった。
そして、戻ってくる話は年を追うごとに厳しくなっている。
夢を追い続けられず、途中で業界を去った者も多い。
最後まで残れたのは、ほんの一握りだ。
もしこの採用試験に受かることができれば――
少なくともアニメーション学科の学生にとって、これ以上ないほど恵まれたスタートになる。
「入社後は、およそ6か月間の研修期間を設ける予定です。その間に現場へ慣れ、必要な技術を身につけてもらいます」
「そして6か月後から、ANIPLEXとして初めてのアニメ作品の制作に入ります」
「それから……」
そこで涼介は、ふと話を止めた。
何かを探すように会場を見渡し、やがて一人の金髪の少女へ視線を向ける。
井上莉奈も、つられてそちらを見た。
「もう1つだけ、お伝えしておきます」
「その作品の作画監督は――皆さんもよくご存じの、高城留美子先生に担当してもらう予定です」
「……!」
会場の空気が、今度こそはっきりと揺れた。
◇
「ちょっと! あんた本当に性格悪いわね! わざわざ壇上で言わなくてもいいでしょ!」
説明を終えて壇上から戻ってきた涼介を、高城凌乃が睨みつけた。
最後の一言が出た瞬間、会場中から一斉に視線を浴びたのだ。
幸い、今日も変装は万全だった。
サングラス。
マスク。
つばの広い帽子。
この3点セットさえ装備していれば、よほど親しい相手でもない限り、自分だとはまず気づかれないという自信がある。
「そのほうが、みんなやる気になるだろ?」
「高城留美子先生と一緒に仕事ができるって聞いたら、少しくらい期待も増えるだろうし」
涼介は笑った。
彼自身が別名義を使っているのは、将来どこから飛んでくるか分からない恨みを避けるためでもある。
だが原画担当の「高城留美子」には、その必要がない。
むしろ今の彼女の名前は、業界では立派な看板だった。
顔出しさえしなければ、普段の生活への影響も最低限に抑えられる。
どうせ入社したスタッフたちには、いずれ正体を明かすことになるのだ。
「ふん。そんなふうに持ち上げたって、別に嬉しくなんかないから」
凌乃はそう言って顔を背け、そのまま面接用のテーブルへ歩いていった。
ただし、その足取りが妙に軽かったことまで隠せてはいなかった。
◇
業界相場を大きく上回る固定給。
そして、高城留美子と一緒に作品を作れるという魅力。
その2つが揃ったことで、採用は驚くほど順調に進んだ。
約3時間をかけ、応募者が持参した作品の審査と、簡単な適性・人物面の確認が行われる。
その結果、今回の学生の中から特に優秀な40名が選ばれた。
その場で内定通知が渡され、翌月から順次ANIPLEXへ入社する予定となった。
「これだけの予算を用意できるなら、最初から経験者を中途採用したほうがよかったんじゃないか?」
すべての選考が終わったあと、斎藤律が涼介に尋ねた。
「そうすれば、もっと早くアニメ制作へ入れるだろう」
斎藤には、涼介がなぜそこまで大きなコストをかけて新人を採るのか、まだ理解しきれていなかった。
同じ大学の後輩ということもあり、若手アニメーターたちの苦しい現状には共感している。
それでも会社経営という観点だけで見れば、同じ金額を払って経験者を集めたほうが、短期的な成果は明らかに大きい。
「急ぐ必要はありません」
涼介は答えた。
「僕が目指しているのは、作品のクオリティを優先するやり方ですから」
「それに――時代も変わっていきますよ、斎藤監督」
「時代?」
「新人を採った理由の1つは、今の彼らがまだ白紙に近いからです。新しい技術や考え方を吸収する速度なら、経験者より早い場合もあります」
CDからDVDへ移り変わっていったように。
20世紀から21世紀へ移ろうとしている今は、アニメ制作の現場もまた、大きな転換期を迎えている。
セル画を中心とした従来の制作工程から、デジタル制作へ。
今後数年で、ソフトウェアも機材も一気に進化していく。
制作環境が完全に整ってから移行を始めるのでは遅い。
長年現場で働いてきた経験者ほど、それまで培ってきた方法や感覚が身体に染みついている。
それ自体は強みだ。
だが、まったく違う制作工程へ移行するときには、その強みが逆に足枷になることもある。
涼介が調べた限り、東京工芸大学のアニメーション系の授業では、数年前からデジタル制作に関する科目も導入されている。
「人材育成そのものが長期投資なんです」
「ANIPLEXが1本アニメを作って終わる会社なら、こんなことはしません」
「これから先も作品を作り続けるつもりだからこそ、ここは削るべきところじゃないと思っています」
その考えがあるからこそ、涼介はこの段階で『魔法少女まどか☆マギカ』を持ち出すことができた。
あの作品に欠かせないのは、独特すぎる映像表現だ。
特に魔女の結界。
そこでは、一般的なアニメ背景とはまるで違う美術が求められる。
中心となるのは「コラージュ」と呼ばれる表現手法。
1枚の背景を最初から最後まで筆で描くのではない。
異なる模様や紙の質感、写真、文字、立体物を思わせる素材などを、切り貼りするように組み合わせる。
それによって、現実感のない不気味さと、強い象徴性を持つ空間を作り上げる。
従来の手描きだけで同じものを実現しようとすれば、作業量は膨大になる。
試行錯誤のコストも高い。
紙に描いたものは、デジタル作業のように簡単な操作1つで元に戻せるわけではない。
「もちろん、経験者の採用も必要です」
「新人だけでは、チームが育つまでに時間がかかりすぎますから」
「経験者に引っ張ってもらいながら、新人を育てる。それが一番いい」
「なるほどな」
斎藤律は頷いた。
すると涼介が、ふいに彼のほうを見た。
「だから、斎藤監督にも勉強してもらいます」
「……俺も?」
「小島先生とはもう話をつけています。会社側で必要な費用を負担しますから、東京工芸大学でデジタル制作について学べるようにしてもらいました」
「監督が新しい制作技術を理解していないと、現場で困りますからね」
「週末、時間を作って授業を受けに来てください」
「……」
斎藤律が返事をする前に、涼介は楽しそうに片目をつぶった。
「時代に置いていかれないようにしてくださいね、斎藤監督」
そう言い残し、涼介は凌乃を連れてその場を後にした。
FANBOXでは現在、第170話まで更新しています。
今週の日曜日には、最終話まで一気に公開する予定です。
続きを先に読みたい方は、よろしければリンクからご覧ください。
https://zhurenfei.fanbox.cc/
いつも応援していただき、本当にありがとうございます!




