第103話 社長
凌乃が突然あんなふうに大泣きしてから、さらに1週間が過ぎた。
この1週間、高城凌乃は日常生活でどうしても必要なとき以外、ほとんど涼介と口を利いていない。
『Fate/Zero』を読み終えた反動が、思った以上に大きかったのだ。
涼介の顔を見るだけで、どうしてもあの物語の内容が頭に浮かんでしまう。
こいつ、本当に性格が悪い。
夜中にこっそり部屋へ忍び込み、あの4冊のノートを盗み出したことを、凌乃は少し後悔していた。
あんなことをしなければ、最後まで読むこともなかったはずだ。
とはいえ、よく考えてみれば、結局は避けられなかったのかもしれない。
聞くところによれば、今月中旬から下旬には正式版の小説が島川書店から刊行されるらしい。
『Fate/stay night』を遊んだプレイヤーなら、どうしたって気になって買ってしまうだろう。
つまり――
散々好きにさせてから地獄へ叩き落とすつもりなのだ。
わざわざ別のペンネームを使ったあたり、本人にも自覚はあるらしい。
食卓についた凌乃は、フォークに刺したソーセージを勢いよく噛み切り、向かいに座る涼介をじろりと睨んだ。
「……?」
涼介は、いまだに自分がいつ妹を怒らせたのか分かっていない。
こうも理由の分からない敵意を向けられては、今のところ打つ手もなかった。
「このあと東京工芸大学に行って、アニメーターの採用をするけど、お前も来る?」
「行くに決まってるでしょ」
「じゃあ早く食べろ。そろそろ出ないと間に合わないぞ」
大学側との約束は10時。
人材確保を急いでいるため、10月末の秋季合同企業説明会を待っている余裕はなかった。
大学側と相談した結果、キャリア支援課の担当者が個別企業説明会を申請してくれ、無事に許可が下りたのだ。
今回はANIPLEX株式会社1社だけを対象とした、事実上の学内採用説明会だった。
「分かってるわよ。いちいちうるさい」
凌乃は不機嫌そうに鼻を鳴らし、残りの朝食を急いで平らげると、自室へ着替えに戻っていった。
◇
斎藤律が母校を訪れるのは、卒業以来初めてだった。
涼介からは1週間前に連絡を受けている。
今後、アニメ制作の中核となる人材を採用する以上、将来的に現場全体を統括する監督である斎藤も、当然この場に立ち会う必要があった。
今日は週末なので、島川での仕事にも支障はない。
仮に誰かに知られたところで、大きな問題にはならないだろう。
「久しぶりだな、斎藤。島川ではずっと編集をやっていたそうじゃないか。まさか、また監督の道に戻るとは思わなかったよ」
「卒業してから、一度も顔を出してなかっただろう?」
東京工芸大学、キャリア支援課。
担当教員が斎藤律と談笑していた。
相手は斎藤より1世代近く年上だが、昔からの顔なじみということもあり、会話に堅苦しさはない。
斎藤が島川ほどの大手出版社に入れたのも、元をたどれば目の前にいる教師の紹介がきっかけだった。
この話題になると、斎藤は少しばかり肩身が狭い。
本当なら副編集長へ昇進してから、改めて恩師へ挨拶に来るつもりだった。
「お前を見たときは、島川の編集部が人手不足で採用に来たのかと思ったんだが……まさか転職先の会社とはな」
「お前を引き抜けるくらいなら、このANIPLEX株式会社という会社も、それなりに期待できるところなんだろう?」
斎藤律は苦笑するしかなかった。
恩師がANIPLEXにそれほど期待していないことは、何となく察している。
無理もない。
高城涼介が立ち上げた会社は、現時点では業界内でほぼ無名に等しい。
そうでなければ、小島先生も先ほどから遠回しに会社の内情を探ったりはしないだろう。
もっとも、今は知名度がなくても、斎藤自身はANIPLEXの将来性をかなり高く評価していた。
いや、正確には――
高城涼介という人間を評価している。
『キノの旅』から始まり、現在までに彼が個人で世に送り出した作品は、すでに4作。
しかも、そのどれもが作風も方向性もまったく違う。
まだ16歳。
その年齢でこれだけの引き出しを持っていること自体、異常と言っていいほどの才能だった。
「小島先生。後輩たちの進路については、俺も責任を持ちます」
斎藤律は笑いながら、相手が最も聞きたかったであろう言葉を口にした。
「お前がそう言ってくれるなら安心だ」
小島健一は、ようやくほっとしたように息を吐いた。
大学の就職担当として、学生たちの進路には責任がある。
ここ数年、バブル崩壊の影響で中小企業の倒産が相次ぎ、生き残った企業ですら新卒採用を大幅に縮小、あるいは停止しているところが少なくない。
数年前までの就職活動なら、企業側が学生を奪い合い、ほぼ全員が内定を得るような状況だった。
それが今では、秋の合同説明会へ参加する企業自体が減り、求人枠も目に見えて少なくなっている。
「先週、芸術学部の先生から突然連絡が来てな。秋の合同説明会まで待てないから、ぜひうちの学生を採用したいという会社があると聞いたときは驚いたよ」
「しかも、これほどの待遇を提示してくるとは思わなかった」
「知り合いを通じて会社について調べたら、設立したばかりだというじゃないか。正直、学生たちを任せていい会社なのか心配だったんだ」
年を取るとどうしても話が長くなるものらしく、斎藤律も少々疲れてきた。
幸い、涼介についてしばらく話しているうちに、恩師もようやく安心したらしい。
口数も少しずつ減っていった。
◇
面接開始まで、あと10分。
井上莉奈は緊張していた。
もともと彼女は、この採用選考を受けるつもりなどなかった。
というのも、この会社については、会場にいるどの学生よりも多少詳しい自覚があったからだ。
先週、ANIPLEXの若すぎる社長を直接案内し、キャリア支援課まで連れていったのも彼女である。
ANIPLEXが現在世に出している作品は、R18のギャルゲーが1本だけ。
今後はアニメ制作にも参入する予定だという。
井上莉奈は、どうせそちらも成人向けの作品なのだろうと勝手に想像していた。
そんな会社に、さほど魅力は感じていなかった。
どうせどこへ入社しても最初は末端からのスタートだ。
だったら、わざわざ成人向けの絵を描く会社を選ぶ理由がない。
1枚あたりの単価が数十円高くなる程度で、そこまでしたいとは思わなかった。
先週も、高城留美子本人に会えなかったことだけが心残りだった。
できれば自分を売り込んで、アシスタントとして雇ってもらえないかと考えていたのだ。
人気漫画家のアシスタント経験。
それだけでも実習歴として箔がつく。
卒業後に業界へ入ったとき、外注の仕事だって取りやすくなるだろう。
ところが――
会場の端で説明を聞いていた井上莉奈は、若すぎる『社長』が提示した待遇を耳にした瞬間、思わず心臓が高鳴るのを感じた。
採用形態は、固定給。
原画および動画を担当する育成枠を、合計40名採用。
月給は――16万円。
「……え?」
一瞬、この会社は慈善事業でもやるつもりなのかと思った。
アニメ業界では、自分たちのような新卒学生が専門教育を受けていたところで、卒業した瞬間から実質的にはフリーランス同然になることも珍しくない。
学歴より、圧倒的に画力と実績が重視される世界だ。
新人が最初に任されるのは、動画――いわゆる中割りのような最下層の仕事。
どれだけ必死に描いても、月収は5万円から10万円程度。
アルバイトをしたほうが稼げることすらある。
それこそ、多くの先輩たちが業界を去ったり、少しでも単価の高い成人向けの作画へ流れたりする理由だった。
「ってことは……原画から始められる可能性もあって、それで固定給まで出るの?」
「しかも月16万円……?」
「いや、待って。成人向けを描くにしたって、普通こんなにもらえないよね?」
「……違う」
井上莉奈の中で、答えはすでに決まっていた。
「この給料なら、別にそういう絵だって描ける」
アシスタント?
末端の歯車?
そんなもの、もうどうでもいい。
この会社の採用試験を通りさえすれば、明るい未来が待っている。
問題は――
この待遇の異常さに気づいたのは、当然ながら井上莉奈だけではなかった。
会場に集まった学生のほとんどが、この条件に惹かれて応募している。
くっ……!
だったら、実力で勝ち抜くしかない!
「コホン」
井上莉奈が頭の中でそんなことを考えていると、キャリア支援課のスピーカーから少年の咳払いが聞こえてきた。
マイクが入っているか確認しているらしい。
莉奈はすぐに顔を上げる。
前に立ったのは、先週自分が案内した、あの若すぎる『社長』だった。
「皆さん、はじめまして」
高城涼介は会場を見渡し、マイクを握った。
「ANIPLEX株式会社の社長、高城涼介です。本日は皆さんにお会いできて、とても嬉しく思います」




