誰もいない台所
翌朝、ハモニカは静まり返っていた。
昨夜の狂乱と怒号が嘘のように、冷たい沈黙だけが廊下を這っている。
佐藤が台所へ向かうと、そこにはすでに三浦がいた。彼女は昨日と変わらぬ手つきで、自分一人の分のコーヒーを淹れていた。
「長谷川さんは?」
佐藤が尋ねると、三浦はカップを口に運び、平然と答えた。
「さあ。クリーニング屋が開くのを待つって、早めに出て行ったわよ。でも無駄でしょうね。あのシミはもう、どうしようもないもの」
テーブルの上には、書き置きが一枚残されていた。
「ごめんなさい」
震える文字で、ただそれだけが書かれている。
伊藤の部屋は、すでに空だった。もともと荷物の少ない彼女だったが、昨夜のうちに、あるいは夜明け前に、逃げ出すように家を出たのだろう。
「彼女、出て行ったみたいですね」
「そうみたいね。まあ、あんなことをした後で、この家に居られるはずもないわ」
三浦が、窓の外を眺めながら他人事のように言った。
「でも困ったわ。長谷川さん、相当怒ってたから。あのスーツ、弁償してもらわないと気が済まない、買い直してもらうのが当然だって息巻いてたわよ。どこに逃げたか知らないけど、不義理よね」
三浦の言葉を聞いているうちに、佐藤の中で、今まで溜め込んできたドロリとした何かが、一気に溢れ出した。
「……不義理、ですか」
佐藤の声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「三浦さん、あなた分かってますよね。彼女を追い詰めたのは、僕たちだ。あなたが持ち込んだワインで、あなたが無理やり参加させたパーティーで、彼女が壊れた。それを、全部彼女のせいにした」
三浦が、ゆっくりとこちらを向いた。その表情には、罪悪感の欠片もなかった。ただ、得体の知れないものを見るような、冷やかな侮蔑だけがあった。
「佐藤さん、何が言いたいの? 彼女が不注意だったのは事実でしょ。私たちは善意でお祝いをしようとしただけ。それを台無しにしたのは彼女よ」
「善意……」
佐藤は乾いた笑いを漏らした。
「その善意のツケを、全部彼女に払わせたんだ。あんたの息子の合格も、長谷川さんの再就職も、全部、彼女がボロボロになることで帳尻が合ってるんだ! それを……あんたたちは……!」
「いい加減にして」
三浦が、ピシャリと言い放った。
「そんな不気味な話、二度としないで。運が悪かったのは彼女のせい。それを誰かのせいにするなんて、卑怯だわ。……あなたも、嫌ならこの家を出て行けばいいじゃない。一人で高い家賃を払えるなら、の話だけど」
三浦はカップをシンクに置くと、一度も振り返らずに自分の部屋へ戻った。
佐藤は、一人台所に立ち尽くした。
三浦の言う通りだ。自分もまた、この「不条理な会計」を理解しながら、何もできなかった。それどころか、自分が少しでも傷つきたくないがために、伊藤という「犠牲者」がいてくれることに安堵すらしていたのだ。
佐藤は、震える手で玄関のノブを掴んだ。
この家には、もう一秒もいられない。
ここにいれば、いつか自分も、誰かを無邪気に搾取する側に回るか、あるいは伊藤のように使い捨てられる供物になるかのどちらかしかない。
彼は、自分の僅かな荷物すら持たずに、ハモニカを飛び出した。
後ろで、古い引き戸が重苦しい音を立てて閉まった。
それは、彼が築き上げてきた卑屈な日常が、完膚なきまでに清算された音だった。




