屋根のない巨大な密室
駅前の広場は、刺すような陽光に満ちていた。
アスファルトの照り返しが、佐藤の乾いた瞳を灼く。ハモニカを飛び出した時の勢いはすでに失われ、彼を動かしているのは、もはやどこへも行けないという絶望的な慣性だけだった。
喉が焼けるように乾いていた。
佐藤は、広場の隅にある自動販売機に、震える手で百円玉を二枚投入した。一番安いミネラルウォーターのボタンを押す。ガコンという無機質な音を立てて、ボトルが落ちてきた。
取り出し口に手を伸ばしたとき、金属が触れ合う澄んだ音が聞こえた。
お釣り。
十円玉が三枚。……いや、四枚ある。
佐藤は、手のひらの上の硬貨を見つめたまま立ち尽くした。
自販機の故障か、あるいは設定ミスか。十円、多く払い戻されている。
以前の彼なら、これを「ラッキーだ」と喜んだだろう。あるいは、ハモニカにいた頃なら、即座に周囲を見渡し、誰かが躓く音や、誰かの持ち物が壊れる音を探したはずだ。
だが、今の彼に届くのは、無関心な雑踏のノイズだけだった。
「……そうか」
彼は、呟いた。
この十円が、自分の手元に余剰として現れたということは、今、この広場のどこかで、あるいはこの世界のどこかで、確実に十円の損失が発生したということを意味する。
それは魔法でも呪いでもない。
この世界という巨大な会計帳簿における、単なる記帳のズレに過ぎない。
彼が十円を得たとき、誰かの財布から十円がこぼれ落ちた。
彼が今日、一歩を踏み出したとき、誰かの一歩が阻まれた。
彼が今、この水を飲んで生き延びようとするとき、どこかの誰かが、その分の酸素と水を奪われて死に近づいている。
シェアハウス「ハモニカ」は、ただその残酷な符合が、壁一枚という近距離で可視化されていた装置に過ぎなかった。
外の世界は、もっと巨大で、もっと匿名で、もっと効率的に、誰かの不幸を誰かの幸運へと変換し続けている。
「身代わり」が見えなくなっただけで、誰かが「身代わり」にされている構造は、何一つ変わっていない。
佐藤は、青空を仰いだ。
眩しすぎて、涙が滲む。
この世界に、誰の身代わりにもならずに済む場所など、どこにもない。
生きるということは、誰かの皿から幸福を奪い取ることと同義なのだ。
彼は、十円玉を握りしめた。
金属の冷たさが、彼自身の体温でじわりと温まっていく。
その温もりさえも、誰かの体温を奪った結果のように感じられた。
佐藤は、雑踏の中へ一歩を踏み出した。
その一歩が、誰の足跡を消したのかも分からないまま、彼は、屋根のない巨大な密室の中を歩き続けた。




