表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

絶望の祝祭

 その夜、ハモニカのリビングは異様な熱気に包まれていた。

 三浦が持ち込んだ赤ワインの、甘ったるく重苦しい香りが狭い部屋に充満している。テーブルの上には、コンビニのオードブルが雑に広げられ、百円ショップの安っぽいモールが壁を飾っていた。


「さあさあ、乾杯しましょう! 長谷川さんの新しい門出と、うちの息子の未来に!」

 三浦が、プラスチックのコップに波々とワインを注ぐ。彼女の頬は赤らみ、瞳には獲物を仕留めた後のような鋭い輝きがあった。


「ありがとう、三浦さん。いやあ、このスーツも新調したんだ。明日からの初出勤、これでビシッと決めてくるよ」

 長谷川が、椅子の背もたれに丁寧にかけてある紺色のスーツを指差した。まだ仕付け糸が残っているような、彼には不釣り合いなほど上質な一着。おそらく、手持ちのわずかな蓄えを全て注ぎ込んだ「最後の賭け」なのだろう。


 佐藤は、自分のコップのワインを一口も飲めずにいた。

 脳内の帳簿が、警告の音を鳴らし続けている。

 長谷川の新しい人生。三浦の息子の特待生。そして、今この部屋にある「お祝い」という名の飽食。

 支払われていない負債が、天井の隅で黒い霧のように渦巻いている。


「……伊藤さん、体調悪いなら、無理しなくていいんですよ」

 佐藤が、隣で小さくなっている伊藤に囁いた。

 彼女はパーティーの準備でこき使われ、立っているのもやっとという様子だった。顔色は土を通り越して、死人のような白さだ。


「大丈夫です、……三浦さんが、せっかくだからって」

 伊藤の声は掠れ、呼吸は浅い。三浦は「みんなで幸せを分け合う」という名目で、伊藤に最も重い雑用を押し付け、その上で「祝祭」への参加を強要していた。


「ほら、佐藤君も飲んで! 今日は無礼講だ。伊藤さんも, もっと景気良く注いでくれよ!」

 長谷川が空になったコップを差し出した。

 伊藤がふらふらと立ち上がり、ワインのボトルを手に取る。

 その瞬間、佐藤には見えた。

 部屋を支配していた不自然な「幸運」の糸が、限界まで引き絞られ、音を立てて千切れるのが。


 伊藤の膝が、崩れた。

「あ……」

 短い吐息。彼女の視界が暗転したのか、身体が大きくよろめく。

 その手から滑り落ちたボトルの口が、放物線を描いて「それ」を目掛けて飛んだ。


 深紅の液体が、空中で鮮やかな弧を描いた。

 ドロリとした重い音がして、長谷川が椅子の背にかけていた紺色のスーツが、無惨な返り血を浴びたように染まった。

 赤ワインは白い壁を汚し、床を這い、伊藤自身の震える手をも汚した。


 一瞬、部屋が完全な静寂に支配された。

 テレビから流れるバラエティ番組の笑い声だけが、場違いに響く。


「……あ、……あ……」

 伊藤が床に這いつくばったまま、喉の奥で鳴らす。

 長谷川が、ゆっくりと立ち上がった。その顔から、先ほどまでの快活な笑顔が消え、血管が浮き出た剥き出しの怒りが這い上がってくる。


「……お前」

 低い、地を這うような声。

「ふざけるな! お前……俺が、俺がどれだけのものを捨てて、やっと、やっとこの一着を手に入れたと思ってるんだ! 会社も、家族も、全部……全部なくなって、ここが最後の……。それを、お前みたいな掃き溜めの女が!」


「ごめんなさい、ごめんなさい、わざとじゃ……」

「わざとじゃなきゃ何だってんだ! 俺の人生を、これ以上汚すな! 明日、これを着て行けなかったら、俺はまた……!」

 長谷川の怒号が、木造の薄い壁を震わせた。その瞳に浮かんでいるのは怒りだけではない。すべてを失いかけた男の、悲鳴のような恐怖だった。


 佐藤は、汚れたスーツを見つめたまま動けなかった。

 深紅のシミは、まるで巨大な「領収書」のようだった。

 長谷川が掴み取った幸運の対価。三浦が享受した特待生の対価。

 それら全ての決済が、今、この家で最も弱く、何も持たない伊藤の「過失」という形で突きつけられたのだ。


「三浦さん、これ……クリーニングで落ちるかしら」

 三浦の声がした。驚くほど冷徹な、計算された響き。

「でも、これだけ染みちゃったら無理ね。新品を買い直すしかないわ。……困ったわね、伊藤さん。長谷川さんの門出を台無しにするなんて。……どうやって責任取るつもり?」


 三浦の言葉は、助け舟ではなく、トドメの宣告だった。

 彼女は自分の持ち込んだワインが原因であることには一切触れず、全ての罪を伊藤の「不注意」へと集約させていく。

 佐藤は、三浦の瞳の奥に、自分たちの「ツキ」を維持するために、伊藤を生贄として差し出す冷酷な合理性を見た。


 伊藤は、床に散らばったワインの海の中で、ただひたすらに謝り続けていた。

 その姿は、世界の不条理な重みを一身に背負わされた、哀れな供物のようだった。

 佐藤の脳内の帳簿は、そこでピタリと、最悪の均衡を示して停止した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ