絶望の祝祭
その夜、ハモニカのリビングは異様な熱気に包まれていた。
三浦が持ち込んだ赤ワインの、甘ったるく重苦しい香りが狭い部屋に充満している。テーブルの上には、コンビニのオードブルが雑に広げられ、百円ショップの安っぽいモールが壁を飾っていた。
「さあさあ、乾杯しましょう! 長谷川さんの新しい門出と、うちの息子の未来に!」
三浦が、プラスチックのコップに波々とワインを注ぐ。彼女の頬は赤らみ、瞳には獲物を仕留めた後のような鋭い輝きがあった。
「ありがとう、三浦さん。いやあ、このスーツも新調したんだ。明日からの初出勤、これでビシッと決めてくるよ」
長谷川が、椅子の背もたれに丁寧にかけてある紺色のスーツを指差した。まだ仕付け糸が残っているような、彼には不釣り合いなほど上質な一着。おそらく、手持ちのわずかな蓄えを全て注ぎ込んだ「最後の賭け」なのだろう。
佐藤は、自分のコップのワインを一口も飲めずにいた。
脳内の帳簿が、警告の音を鳴らし続けている。
長谷川の新しい人生。三浦の息子の特待生。そして、今この部屋にある「お祝い」という名の飽食。
支払われていない負債が、天井の隅で黒い霧のように渦巻いている。
「……伊藤さん、体調悪いなら、無理しなくていいんですよ」
佐藤が、隣で小さくなっている伊藤に囁いた。
彼女はパーティーの準備でこき使われ、立っているのもやっとという様子だった。顔色は土を通り越して、死人のような白さだ。
「大丈夫です、……三浦さんが、せっかくだからって」
伊藤の声は掠れ、呼吸は浅い。三浦は「みんなで幸せを分け合う」という名目で、伊藤に最も重い雑用を押し付け、その上で「祝祭」への参加を強要していた。
「ほら、佐藤君も飲んで! 今日は無礼講だ。伊藤さんも, もっと景気良く注いでくれよ!」
長谷川が空になったコップを差し出した。
伊藤がふらふらと立ち上がり、ワインのボトルを手に取る。
その瞬間、佐藤には見えた。
部屋を支配していた不自然な「幸運」の糸が、限界まで引き絞られ、音を立てて千切れるのが。
伊藤の膝が、崩れた。
「あ……」
短い吐息。彼女の視界が暗転したのか、身体が大きくよろめく。
その手から滑り落ちたボトルの口が、放物線を描いて「それ」を目掛けて飛んだ。
深紅の液体が、空中で鮮やかな弧を描いた。
ドロリとした重い音がして、長谷川が椅子の背にかけていた紺色のスーツが、無惨な返り血を浴びたように染まった。
赤ワインは白い壁を汚し、床を這い、伊藤自身の震える手をも汚した。
一瞬、部屋が完全な静寂に支配された。
テレビから流れるバラエティ番組の笑い声だけが、場違いに響く。
「……あ、……あ……」
伊藤が床に這いつくばったまま、喉の奥で鳴らす。
長谷川が、ゆっくりと立ち上がった。その顔から、先ほどまでの快活な笑顔が消え、血管が浮き出た剥き出しの怒りが這い上がってくる。
「……お前」
低い、地を這うような声。
「ふざけるな! お前……俺が、俺がどれだけのものを捨てて、やっと、やっとこの一着を手に入れたと思ってるんだ! 会社も、家族も、全部……全部なくなって、ここが最後の……。それを、お前みたいな掃き溜めの女が!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、わざとじゃ……」
「わざとじゃなきゃ何だってんだ! 俺の人生を、これ以上汚すな! 明日、これを着て行けなかったら、俺はまた……!」
長谷川の怒号が、木造の薄い壁を震わせた。その瞳に浮かんでいるのは怒りだけではない。すべてを失いかけた男の、悲鳴のような恐怖だった。
佐藤は、汚れたスーツを見つめたまま動けなかった。
深紅のシミは、まるで巨大な「領収書」のようだった。
長谷川が掴み取った幸運の対価。三浦が享受した特待生の対価。
それら全ての決済が、今、この家で最も弱く、何も持たない伊藤の「過失」という形で突きつけられたのだ。
「三浦さん、これ……クリーニングで落ちるかしら」
三浦の声がした。驚くほど冷徹な、計算された響き。
「でも、これだけ染みちゃったら無理ね。新品を買い直すしかないわ。……困ったわね、伊藤さん。長谷川さんの門出を台無しにするなんて。……どうやって責任取るつもり?」
三浦の言葉は、助け舟ではなく、トドメの宣告だった。
彼女は自分の持ち込んだワインが原因であることには一切触れず、全ての罪を伊藤の「不注意」へと集約させていく。
佐藤は、三浦の瞳の奥に、自分たちの「ツキ」を維持するために、伊藤を生贄として差し出す冷酷な合理性を見た。
伊藤は、床に散らばったワインの海の中で、ただひたすらに謝り続けていた。
その姿は、世界の不条理な重みを一身に背負わされた、哀れな供物のようだった。
佐藤の脳内の帳簿は、そこでピタリと、最悪の均衡を示して停止した。




