金色の泡
それから数日間、ハモニカの空気は奇妙な浮遊感に包まれていた。
リビングのソファにふんぞり返り、長谷川が景気の良い音を立てて缶ビールを開ける。いつもの安価な発泡酒ではない、金色のラベルが眩しいプレミアムビールだ。
「やっぱりね、最後は人間力ですよ。面接官も最後は俺の熱意に押されてたな」
長谷川は、型崩れしたスーツの襟を誇らしげに正した。五十三歳、元・課長の肩書きをいまだに背負い続けている彼の声は、必要以上に大きく響く。
「すごいじゃない、長谷川さん。あんな大手、なかなか受からないわよ」
三浦が、テーブルにタッパーを並べながら相槌を打つ。彼女は手元のスマートフォンを何度も確認し、画面を見つめる時だけ、その峻烈な横顔に微かな、しかし歪んだ慈愛を浮かべた。
「うちの息子もね、この前の模試の結果が良くて。塾の先生から特待生の話が出てるの。あの子、本当によく頑張ってるわ」
「ははは! ありがたいね。ようやく俺のところにも、まともな潮目がやってきたよ。まあ、俺みたいな人間がいつまでも長居するような場所じゃないが、このキャンプ地でもしぶとくやってみるもんだな」
長谷川が上機嫌に笑い、ビールを煽る。その喉が鳴る音が、佐藤には不吉なカウントダウンのように聞こえた。
二人の語る「幸福」は、この狭いリビングに満ち溢れ、飽和し、壁を押し広げようとしていた。
だが、佐藤には見える。その「ツキ」の重みの分だけ、どこかが、誰かが、急速に削り取られているのが。
視線の先では、伊藤が膝をついて床を拭いていた。
彼女は数日前からひどい咳を繰り返しているが、病院に行く金はないと言っていた。共有スペースの掃除は、彼女がこの家に居させてもらうための「免罪符」のようなものだ。
長谷川の脱ぎ捨てた靴下が床に転がっている。伊藤はそれを無言で拾い、洗濯籠へ運ぶ。
長谷川にとって、伊藤はもはや同じ人間ですらないのかもしれなかった。彼の輝かしい再出発を汚さないための、動く什器。彼女の咳き込む声も、彼の耳には「運の悪い人間の雑音」としてしか届かない。
「佐藤君もさ、そんな暗い顔してないで祝いなよ。三浦さんがね、明日お祝いのパーティーをしようって言ってくれてるんだ」
長谷川が、佐藤の肩を強く叩いた。
「パーティー、ですか」
「そうよ。奮発して良いワインも買っちゃった。みんなで幸せを分けましょうよ。ね、伊藤さんもいいわよね?」
三浦が、床を拭く伊藤の背中に声をかける。その声は慈愛に満ちているようでいて、逆らうことを許さない湿り気を帯びていた。
「伊藤さん、掃除が終わったら、ついでに私の部屋の窓も拭いておいてくれる? 腰が痛くて困ってたの。……また、あの子の話、聞いてもらいたいしね」
伊藤の肩が、ほんの一瞬だけ、救いを見つけたかのように小さく揺れた。
「はい、……ありがとうございます、三浦さん」
彼女は濡れた雑巾を握りしめたまま、深く頭を下げた。
佐藤は、三浦の言う「幸せを分け合う」という言葉の裏にある、残酷な収支計算を思って戦慄した。
幸せを分け合うのではない。誰かに支払わせた「代償」の残りを、みんなで貪ろうと言っているのだ。
佐藤の脳内の帳簿には、すでに巨大な赤字が記されていた。
この数日間の長谷川の採用、三浦の息子の成功。それらを引き受けるには、伊藤のフロントライト程度ではあまりにも足りない。
もっと大きな、取り返しのつかない「決済」が近づいている。
「……僕は、夕食はいりません」
佐藤は、リビングの喧騒を避けるように立ち上がった。
「体調でも悪いの? せっかく三浦さんがおかずを用意してくれたのに」
長谷川が不思議そうに聞いたが、佐藤は首を振って自分の部屋へ戻った。
部屋に入り、鍵をかける。
腹の虫が鳴ったが、彼はそれを無視した。
自分が一食分、数百円の空腹を「支払う」ことで、ハウスの天秤が少しでも均衡に戻るのではないか。そんな、子供じみた祈り。
彼は、部屋の隅に積み上げられた文庫本の束から、最も大切にしていた一冊を抜き取ると、迷わずゴミ袋の中に放り込んだ。
せめて、俺の何かが代わりになれば。
そんな祈りに似た、傲慢な偽善だけが、彼の胸の中で虚しく渦巻いていた。




