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冷えきった鯖の脂

 安っぽい蛍光灯が、死にかけの羽虫のような音を立てて瞬いている。

 シェアハウス「ハモニカ」の台所は、いつもどこか湿り気を帯びていた。拭いても落ちない換気扇の油汚れと、誰かがこぼしたまま乾いた調味料の匂い。佐藤は、四人掛けの安物のテーブルの端で、パックに入った鯖の味噌煮弁当を広げていた。


 三百九十八円の三割引き。

 指先でなぞると、シールの粘着剤が指に残った。百十九円の得。消費税を合わせれば、百三十円ほどが俺の元に残ったことになる。

 派遣先の倉庫で八時間、重い段ボールを運び続けて得た日銭に比べれば、それはあまりにも微々たる金額だ。それでも、この百三十円があるからこそ、明日の朝の缶コーヒーを「贅沢」だと思わずに済む。


 それなのに、鯖の脂は不自然なほど冷えきっていた。喉を通る時、それは栄養というよりは、何か得体の知れない負債の塊のように感じられた。



 割り箸を割る乾いた音が、静かな家の中に響いた。

 鯖の身を口に運ぶ。冷えて固まった脂の味が、疲れた舌にまとわりつく。

 そのとき、玄関の引き戸が重苦しく開く音がした。


「……ただいま」


 湿った空気と共に、伊藤が台所に入ってきた。

 彼女の肩は雨でぐっしょりと濡れ、薄い上着が肌に張り付いている。三十代の終わりを介護に捧げ、残ったのは土気色の顔色と、存在を消すような歩き方だけ。そんな彼女が、今日はいつになく項垂れていた。


「おかえりなさい。雨, ひどいですか」

 佐藤が形式的に声をかけると、伊藤は力なく笑った。その笑顔は、ひび割れた陶器のように危うい。


「……駐輪場で、自転車が倒れちゃって」

 彼女の手には、粉々に砕けたプラスチックの破片が握られていた。フロントライトのカバーだ。

「隣のバイクが倒れてきたのを支えようとしたんですけど、無理で。ライトが……根元からバッキリ折れて、カバーも粉々です。明日の夜、仕事の帰り道、警察に止められちゃうかな」


 伊藤の声が、微かに震える。

 佐藤は箸を止めた。

 ライトのユニット交換。自分で安いものを買って取り付けても、二千円は下らない。自転車屋に持ち込めば工賃でもっとかかるだろう。


 佐藤の脳内で、無意識に「会計」が始まった。

 俺の弁当の割引、百十九円。

 今日、俺が派遣先で誰にも文句を言われずに終業できた幸運。

 それらの小さな「プラス」が、目の前で濡れ鼠になっている彼女の「マイナス」と、あまりにも残酷なほどに帳尻が合っているように思えた。


 いや、俺だけじゃない。

 二階の部屋からは、長谷川の大きな笑い声が聞こえてくる。彼は今日、再就職先の内定を勝ち取ったはずだ。

 その巨大な幸運のツケが、この折れたフロントライトに支払われているのではないか。


「……大変でしたね」

 佐藤に言えるのは、それだけだった。

 自分の弁当の「三割引き」という事実が、急に汚らわしいものに感じられた。鯖の脂が、喉の奥で嫌な熱を持って停滞している。

 俺がこの弁当を安く手に入れたせいで、彼女の自転車が倒れたわけではない。そんなことは分かっている。

 けれど、この家では。

 この壁の薄い、湿った箱の中では。

 誰かの安寧は、必ず誰かの悲鳴を燃料にして燃えている。


「佐藤さん、……ごめんなさい、暗い話しちゃって。でも、三浦さんだけはいつも、親身に……私の話、聞いてくれるから」

 伊藤はライトの破片をポケットにねじ込み、逃げるように自分の部屋へ向かった。


 佐藤は一人、台所に残された。

 蛍光灯がまた、チチッと音を立てて瞬く。

 目の前の弁当は、もう完全に冷めきっていた。


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