36・糸が繋ぐ縁
信じられない思いで振り返ると、クラリッサ様はそっぽを向いたままで、どことなく気恥ずかしそうな表情をしていた。
「……歩ける程度には、できそう?」
「多分、できるかと」
持っていた箱を中庭の芝生の上へ置いて、私は服のポケットを探る。
(よかった。やっぱり入れっぱなしだった)
ポケットの中を探って、指先に触れた硬い小箱の感触にほっとする。
取り出したのは、手のひらサイズの裁縫セットだった。
蓋を開けると、針と糸、それから小さなハサミがきちんと収まっている。
「あなた、そんなものを持ち歩いているの?」
クラリッサ様は驚いたように目を瞬かせていた。
「え、ええ。癖みたいなものです。昔から、何かあった時のために入れていて」
私は苦笑しながら答えた。
クラリッサ様の手前やんわりとぼかして伝えたが、要は使い古した服がいつほつれるか気が気でなかっただけだ。
シリウス様のおかげでその心配からは解放されたものの、癖がまだ抜けきれない。
「では、少し失礼しますね」
一声だけかけて、私はクラリッサ様の前にしゃがみ込んだ。
破れた裾をそっと持ち上げ、状態を確かめる。
「本当に……できるの?」
クラリッサ様の声はどこか不安げで、先日のような刺々しさはもうどこにも見当たらなかった。
そのことに少しだけ安堵する。
「ええ、大丈夫ですよ」
安心させるように答えながら、私は針に糸を通し、裂け目を丁寧に縫い合わせていく。
針が布を通る感触は、バクスター家で繕い物をしていた時と変わらない。
(繕い物はいつも、自分のためだった)
ほんの少し前までは、破れた服を直さなければ着るものすらなかった。
けれど今回は違う。今回は、クラリッサ様のためだ。
今までの自分の経験が誰かの役に立つ日が来るなんて思わなかった。
「あなた、ずいぶん手際がいいのね」
ふと、クラリッサ様が感心したような声で呟いた。
「よく、家でやっていたので。慣れているだけですよ」
最後のひと針を縫い終え、糸を結んで仕上げる。
「これで、なんとか」
私が裾から手を離すと、クラリッサ様は恐る恐る縫い目を確かめていた。
ほつれは止まり、歩く分には十分な状態になっている。
「……っ、これなら、すぐには破れているなんて気づけませんわ……」
驚きと安堵が入り交じった声だった。
クラリッサ様は立ち上がって、くるりと小さく回って裾の動きを確かめている。
その紫の瞳からはもう、先日のような敵意は感じられなかった。
「それなら良かったです。……じゃあ、私はこれで」
私は置いていた箱を抱えあげる。
クラリッサ様は私の様子を黙ったままじっと見ていた。何か言いたげである。
やがてクラリッサ様は小さく息を吸うと、
「お待ちなさい」
立ち去ろうとする私を呼び止めた。
「はい……?」
思わず肩をはね上げながら、私は動きを止める。
(またこの間みたいに正論を言われるのかしら……)
内心びくびくしながらクラリッサ様へ視線を向けると、クラリッサ様は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ありがとう。本当に助かったわ」
まさかクラリッサ様からお礼を言ってもらえるとは思っていなかった。
こちらはつい面食らって、瞬きを繰り返してしまう。
「い、いえ。お役に立てたのならよかったです」
「あなた、この前のわたくしの態度を覚えていないわけではないわよね? わたくしのことが嫌いじゃないの?」
「……ええと、特には……。クラリッサ様のお気持ちは、理解できますし」
怖い人だと思ってはいたけれど……。
その余計な一言だけは口には出さず、胸の中で留める。
「……おかしな子ね」
クラリッサ様は小さく息を吐き、ほんのわずかに目元を緩めた。
「でも……。シリウス様がわたくしではなくあなたを選んだ理由が、わかった気がしたわ」
どういう意味だろうか。
すぐには意味を汲み取れず首を傾げてしまう。
クラリッサ様はすっと背筋を伸ばすと、私を真っ直ぐに見つめた。
「この間の非礼を詫びましょう。先日は、言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「えっ!? い、いいえ!」
お礼のみならず、まさか謝罪までされるとは。
それに、先日のクラリッサ様の言葉は厳しいものではあるが、間違ったことは言っていない。
恐縮してしまった私へ、クラリッサ様はどこからか取り出した二枚のチケットを差し出してきた。




