群青色の水槽Ⅲ
イルカの水槽を離れて再び屋内に入ると、また空気が変わった。
そこに水槽は無く、あるのは骨と死んだはずの身体たち。
「はく製コーナー?」
「そうみたい。水族館でも割とあるみたいだね」
良乃が見上げたのにつられて上を見ると、大きなクジラのはく製がつるされていた。
海を泳いでいた時みたいに空中を漂っているそれは、けれどピクリとも動かず、その時間が進みだすことはきっとない。
「これ本物なのかな」
「どうだろう。さすがに模型じゃない?」
天井から目線を外して良乃がどんどん進んでいく。
やけに暗い展示室で良乃を見失わないよう少し早足でついていきながら回りの展示を見渡す。
小さな水槽の中に、ピクリとも動かない魚や変わった生き物が展示されている。
「こっちはホルマリン漬け……かな?」
「そうだね。展示用に保存しているみたい」
展示用、か。
死んだら溶けて、消えて、仲間の元に還るか、宗教的な観点で見れば輪廻に還ることになるけれど、ここにいる子たちはそれすらできず死んだ瞬間で固定されていることになる。
死してなお、生きていた時の姿を維持されている。
「これって死んでるのかな」
「死んでるでしょ。生きたままホルマリン漬けにする方が怖いよ」
「そういう意味じゃない」
良乃は本当にどこまでも現実主義なんだから。
ホルマリン標本とはく製に囲まれた空間を進んでいくと、一つの標本と目が合う。
「こっちはクラゲかな」
生気を失って少し濁った色の、死んだ仲間たちと同一になれなかった子。
そういえばクラゲには脳が無いんだっけ。
思考することもなく、ただそこにあり消えていく生き物。
けれどその最後の瞬間の手前で時間を止められてしまった、死んでいるのに死んでいない時間に留められているクラゲ。
誰にも見られない場所に逝くことが死の定義ならば、いつまでも人間に見下ろされるこの標本は果たして死んでいるというのだろうか。
「行くよ、莉音」
良乃を連れてきたことを若干後悔しつつ、かけられた声を追いかける。
良乃、水族館見ていて楽しいのかな。
「もしかして楽しくなかった?」
誘ったのはこっちだけれど、少し不安になってつい尋ねる。
けれど良乃は何を言っているの? と言わんばかりの顔をしていた。
「つまんなくなったら途中で帰ってるよ」
「ならいいけど」
確かに良乃はそういう人だった。
ここまでついてきている時点で、ある程度興味や関心はあってここにいるんだと自分を納得させることにする。
「ここが最後みたいだけれど……」
あたりを見回して、今更違和感を覚える。
あんなにたくさんの人がいたはずなのに、いつの間にか私と良乃と展示物だけがあった。
水槽を稼働させる静かなモーター音と、二人分の呼吸しか聞こえないその場所には、中央に天井を貫く巨大なパイプ型水槽が鎮座していた。
「ここ、水族館だよね?」
「そうだと思うけど」
良乃も珍しく辺りを気にしている。やっぱりここ、何か普通じゃないのかもしれない。
戻った方がいい。経験が警告を鳴らし、それに従ってもと来た道を戻ろうと振り返って、その判断が遅かったことを痛感する。
あるはずの出口と明かりは無く、鏡が反射して作り出した空間だけが四方に広がっていた。
方向感覚が狂いそうになるその場所で、仕方なく前進していく。
二つの足音だけが響く空間。鏡が鏡を映して私たちを万華鏡みたいにいくつも映し出している。
「出口ってあっち……だよね?」
「多分ね」
「さっきから曖昧だなぁ」
「わかんないんだから仕方ないよ」
良乃の後をついて進んでいくけれど、一向に出口にたどり着かない。
鏡だらけの空間のせいだろうか。どこからか視線を感じてそっちを見ても、そこには私を見つめる自分自身と目が合うだけだった。
「……え?」
その中で。私のはずの私じゃない誰かが一瞬写り込んだように見えて、思わず足が止まる。
「どうしたの?」
「今、誰かいたような……」
私の言葉に良乃が辺りへ視線を巡らせるが、何も見えなかったのか首をかしげている。
「そう?」
「私の気のせい、かな」
「どうだろう。いつも通りおれに見えないだけかもしれないし」
「それは困る……っていうか今日ペンダント持ってないの?」
私が問い詰めると、良乃はポケットから青い宝石の付いたペンダントを取り出して見せる。持ってるんじゃん。
「それちゃんとかけておいて」
「はいはい」
雑な返事をするけれど言われたとおりにする良乃は、それでもやっぱり何かの正体はつかめていないらしい。
ふと、水族館に似つかわしくない香りが鼻をくすぐる。
水のにおいとは違う自然の匂い。
海辺には存在しないはずの、バラの匂いがどこからか漂っている。
「なんでこんなところで?」
「莉音の香水じゃなさそうだね」
良乃も感知したのか、匂いの出どころを辿るように首を巡らせている。
「あっち、かな」
私が指さした先にあるのは、さっきから意図的に無視していたパイプ型の水槽。
この部屋の中心部であり、中央に鎮座しているその中にいる生物を視認することができなかったもの。
慎重に水槽に近づき、その中にいるであろう生物に目を凝らす。
蒼い光に照らされた中で、小さな気泡が下から上へと昇っていくだけの、何も展示されていない水槽。
「っ!」
何のためにあるんだろうと顔を近づけると、私じゃない誰かが水槽の反射に映し出された。
驚いて思わず水槽から離れる。けれどそれはそのままそこにいた。
「何かいた?」
良乃に尋ねられて、返事の代わりに指をさす。
私の指を辿って良乃の視線がパイプ水槽へと移動していく。
「何もいないけれど」
「今、私じゃない誰かがいたはず、なのに」
私にしか見えていないっていうこと? それとも私の勘違い?
そこにいたはずの何かを探してもう一度周囲を見回す。
鏡に映る私がいくつも重なって、その中で一人だけ、今度こそ別の誰かがそこにいた。
同じ髪色、同じ背丈、同じ顔のはずなのに違う顔のそれだけは、私を見て笑っていた。
「いた!」
私の声に反応した良乃がそちらを見る。
けれど、良乃が視認するよりも早く、私たちをあざ笑うかのようにその場所からいなくなり、映るのは正真正銘喜多見莉音だった。
先ほどまでそれが映っていた鏡を撫でながら良乃が探すように辺りを見回す。
「これ、【怪異】?」
「わかんない。もしかしたら……」
私と同じ髪色、同じ背丈のそれに心当たりはある。
小さいころから何度も見た絵本の中の存在。
私が探し求めているモノ。
「幸福の魔女、かも」
私の憶測願望に良乃がほんの少し目を細めた。
「ここにいるの?」
「さっき一瞬だけ見えたけど、多分そうだと思う」
なんでこんなところに? という疑問はいったんおいておく。
さっきの薔薇の匂い。あれはきっと幸福の魔女の居所を示している。
他にも手がかりがないか探していると、良乃の足元に何かが落ちていた。
「良乃、それ何?」
私が指摘したそれを良乃が拾い上げる。
薄いうろこのようだけれど、それにしては柔らかそうで、何より鮮明な青が印象的だった。
「薔薇の花びらかな。青い薔薇なんて水族館どころか花屋にだって早々おいてないと思うけど」
不可能、或いは奇跡の象徴。絵本の中で何度も見た、幸福の魔女に添えられていた花。その花びらが水族館に落ちているなんて、人工的とは考えにくい。
「じゃあ、やっぱり」
ここには幸福の魔女がいる。
それなら絶対に見つけないといけない。幸福の魔女が姿を見せる条件は何?
そろそろ慣れてきた暗い視界の中で目を凝らす。
何かしら痕跡がないかと躍起になっている私に、鈴を転がすような甘い声が語りかけてきた。
「貴女の願いはなぁに?」
「――え?」
私の、願い?
幸福の魔女に会うこと? 柘榴お兄ちゃんに会うこと? それとも、私自身が、自分の願いを叶える力を手に入れること?
私、なんのために幸福の魔女を探しているんだっけ。
「莉音、いたの?」
相変わらず何かを探すそぶりをしながら良乃に声をかけられる。
さっきの声、良乃には聞こえていなかった……?
「今、私の願いは何って聞かれて……」
「おれには聞こえなかったよ」
お互いの認識のずれが沈黙となる。
あれは私にだけ見えて、私にだけ聞こえているということ?
もしかして、私の願いに反応している?
声のした方をゆっくりと振り返る。
振り返った先、部屋の中央。
何も展示されていない巨大なパイプ水槽の向こうに、ぼんやりと蒼い何かが揺らめいたように見えた。
「貴女の願いを教えて」
今度こそはっきりと、知っているけれど知らない声が私に問いかける。
「私の願い、は……」
今ここで私が願うべきものはなに?
あれは幸福の魔女なの? もしそうだとしたら、本当になんでもお願いを叶えてくれるのなら。
私は、何を望むのだろう。
誘導されたのか、自分の意思なのか。一歩、また一歩と水槽に吸い寄せられる。
もっと近づいたら、その顔を見ることができるはずだから。
小さいころから何度も見返していた。だから顔を見たら絶対にわかるはずだから。
光が揺れて、曖昧だった輪郭が意思を持ち始める。
「その願いが叶ったら、貴方は幸せ?」
私の叶ったら幸せなもの。嬉しい、じゃなくて幸せになるための願い。
私が幸せになるための願いって何? 柘榴お兄ちゃん? 自分で願いを叶えること? それとも。
「私の願いは――」
輪郭が少女の姿を象り始めた時、強制的に視界が暗転した。
次いで何かによって後ろに引き寄せられる。
「視すぎ」
後ろから低くて透明な声が響く。
はっと振り返ると、すぐ後ろに良乃の顔があった。
「良乃?」
私の問いかけに良乃は無言のまま、前を見据えていた。
私の視界を遮っていた良乃の手の隙間からそちらを覗くと、そこにあった蒼い輪郭は何処にもなく、代わりに蒼い花びらが数枚はらりと舞った。
「いなくなっちゃった……」
「最初からいないけれどね」
「でも」
匂いがあった。花びらがあった。声も、姿もあったはずだった。
「いないんだよ、この場所に幸福の魔女は」
私の願いを否定する良乃の言葉に反論したくて、幸福の魔女がいたという証拠を失いたくなくて、良乃の腕を抜け出して水槽に近寄る。
そこでようやく、良乃の言葉の意味を理解した。
何もないと思っていた水槽の中に、赤く脈動する傘が開いた。
蒼い水槽の中で花開いた赤。
周囲の色を飲み込むように反射した鏡にも、私の瞳にもそれが映し出される。
「ずっと気配はあったけど、今になって姿を見せたね」
私の隣に来た良乃が水槽を見上げながらこぼす。
もはやこの場所に私の求めていた色は無く、ただ見知った気配が水槽の中を漂っていた。
微妙な陰影の差なのか、本当にそうなのか。
脈動するたび、かき混ぜているみたいに中身が蠢いて、それが人の形を映し出す。
その中には、あの場所で倒れていた女の人の姿があった。
誰かの隣を歩いて、幸せそうに笑っているようにも見える。
「良乃、あれ見える?」
「流石にね。ここまではっきり姿を表したらおれでも見えるよ」
肩をすくめる良乃はでも、と続ける。
「水槽の中にいるから手出せないね。そもそも今日そんなつもりじゃなかったからなんも持ってないし」
「いつも持ち歩いてないの?」
「それただの不審者だからね」
そのままでも十分不審者だと思うけれど。
「で、あれは莉音が探してたものなの?」
正直いうとわからない。
きっと私は、私にとって都合のいいものを見せられていた。それは頭では理解している。
けれど、それでも。
あの瞬間、私の目の前に幸福の魔女が存在していたのは私にとっての事実だった。
「いた、よ。幸福の魔女」
喉が詰まる。水に溺れたみたいに鼻がツンとして視界がぼやける。
あと一人。誰か一人幸福の魔女が居たと言ってくれたら、きっとあれは――幸福の魔女なのに。
「でもおれには見えて無いんだよね」
花びらはあったけれど。と付け加える良乃が手を開く。
けれどそこには何も無かった。何も、残っていなかった。
いるのは私と良乃。そして水槽の中の赤いクラゲだけ。
「ここにいるの、おれと莉音だけだし」
水が凍って時間が止まるみたいに、良乃は淡々と冷たい事実だけを並べる。
良乃に悪意なんて無いのはわかっている。これはただの事象の確認。或いは現状の共有。
たったそれだけのことでも、幻想を殺すには十分。
だから私はたった一言認めればいい。そうしたらこの話はおしまい。きっと簡単に出口が見つかって、呆気なく帰れるのに。
この場所に閉じ込めているのはあのクラゲじゃなくて、他でも無い私自身なのに。
「でも……」
でも、何?
何も無い。ただ私が見たという事実以外何も無いじゃん。
いい加減認めてしまえば楽なのに、否定したく無い自分が同居して喧嘩している。
どっちに傾いても何かがひび割れてしまいそうで。
だから私は――。
「……良乃は、何も見てない?」
あたりの暗さに紛れた良乃の様子を伺う。
夜を宿した瞳と目が合う。そのまま星の届かない底に吸い込まれそうで、でもそれもいいかなとほんの少し思ってしまう。
それから、いつもみたいに軽く笑った。
「おれに見えないのは今に始まったことじゃ無いでしょ」
「……そうだね」
あぁ、そうだ。簾良乃というニンゲンはこういう人だ。
そんな良乃を見たら、なんか今この瞬間だけはどうでもいいなと思ってしまう。
良乃に見えないのはいつものことで、私が探しているのだっていつものことで、空振りするのだって、いつものこと。
「帰ろう、良乃」
「もういいんだ」
「うん、今はいいかな」
自然と足が進むべき方向へと動き出す。
「帰っておかかたちにご飯あげないと」
「刺身買って帰る?」
「本当に魚食べる気?」
まだ魚食べる気なんだ。良乃もおかかたちも。
探していた出口は思った通りすぐそこにあった。
けれどやっぱり、ほんの少しだけ諦められなくて、一度だけ振り返る。
そこには何も無かった。
幸福の魔女も、大きなクラゲもいない。
何も無いパイプ水槽が、静かに泡を吐くだけだった。




