群青色の水槽Ⅱ
約束の日の日曜日。
待ち合わせの駅前には当然のように良乃の姿はなかった。
まぁ二人で待ち合わせて良乃が先に来た事なんて一度もないので、今更なんとも思わない。
スマホで時間を確認すれば、約束の時間まであと五分ほどあった。
カフェに入るほどでもないので、適当な日陰に入って良乃の姿が見えるのを待つ。
ふと見たガラスに、自分の姿が映し出された。
おろしたての白いワンピースに合わせた白いサンダル。夏の装いには少し気が早いかもしれないけれど、この組み合わせは思った通り可愛い。
カバンにぶら下げたうさぎのマスコットも、心なしかご機嫌に映っている。
「あ」
約束の時間を少し過ぎたころ、ようやく良乃が改札から出てきたのが見えた。
少し眠たげな顔と、ベッドから出てそのままであろう髪。それからいつも通りの黒い装い。
朝と呼ぶべき時間にいる夜の人が、悪びれる様子も無くこちらに歩いてくる。
「やっぱり寝坊したでしょ」
「間に合ったからいいじゃん」
「間に合ってません~」
良乃と軽口をたたきながら人の流れに乗って水族館へ向かう。
水族館は商業施設の上の階のフロアにあるようで、それ以外にも休日を楽しむ人たちでにぎわっていた。
「人多いね」
「迷子にならないでね、莉音」
どっか行きそうなのはどっちかって言うと良乃だと思うんだけれど。
人でいっぱいのエレベーターに乗り込み、水族館のあるフロアへ移動する。
ほとんどの人が同じところで降りていることから、ずいぶん人気なことがうかがえる。
チケット窓口で良乃のくれた割引チケットと学生証を差し出し、入場チケットを受け取る。
良乃が受け取ったチケットには海月、私の方はいるかが印刷されていた。
「絵柄違うんだね」
「こっちが良かったの?」
「え……っと、そういうわけじゃないけど……」
どうせ使い終わったチケットはレシートと一緒に捨てちゃうし、なんだっていいのだけれど。
別に可愛いななんて思ってないし。
「それより早く行こ」
「はいはい」
入場ゲートにチケットをかざして最初に視界に入ってきたのは、色とりどりにライトアップされた水槽。
中では小さな魚たちが自由に泳いでいて、その体が動くたびにいろんな色に照らされて見え方を変えている。
「わ、きれい」
思わず水槽に駆け寄って、じっと水槽の奥を眺める。
周囲の喧噪が掻き消えるみたいに静かな空間。ここの魚たちには時間の概念は存在するのだろうか?
「あっちが順路みたいだね」
あとから来た良乃の手には案内パンフレットが収まっていた。
ウェルカムエリアを横目に良乃の後を追って進んでいく。
次のエリアにある水槽が、この水族館で一番大きくて、一番多くの魚が展示されているとのことだった。
「見て、イワシの群れだよ」
小さなイワシが集まって一匹の大きな魚みたいに泳いでいるのを指さすと、良乃はちらりと一瞥だけした。
「夜寿司屋行かない?」
「サイテー!」
本当にいるんだ、水族館に来て魚食べたいって思う人。
別にこれを見て魚を食べるのが可哀そうとかそういうことを言うつもりはないけれど、もう少しこう、情緒というものは……なかった。良乃にそんなものを感じたこと、一度もなかった。
こればっかりは私が悪かったように思える。
良乃を放って水槽に近づけば、一匹一匹が良く見えた。
名前を知っている魚、知らない魚。見たことある魚や、初めて見る魚。
けれどどの子たちも自由に、けれど決められた箱庭の中を悠々と泳いでいた。
遠目に魚を眺めている良乃とはぐれないように、良乃に合わせて進んでいく。
光を反射した足元に影ができて、海の中を歩いているみたいでなんだか楽しい。
「あ、サメ」
水槽の魚たちの中と比べてうんと大きくて異質な存在に目がいく。
「サメって水槽の魚食べちゃわないのかな?」
「食べないよ。めんどくさいじゃん」
「めんどくさい?」
そんなまさか、良乃じゃあるまいし。
「水族館なら十分に餌が与えられてるからね。それに餌は泳がないでしょ」
「えっと……あ、あそっか。ペースト状の餌団子とかをあげてるんだっけ」
「そうそう。それなのに水槽にいる泳いでる魚をわざわざ追いかけるのは無駄なエネルギーを消費して、無駄にお腹を空かせるだけだからね」
そうだったんだ。何となく疑問に思っていたけれど、ちゃんと理由があるんだ。
人込みではぐれないように良乃と並んで歩く。
途中の水中トンネルでは、天井を泳ぐエイのお腹の部分が笑ってる顔みたいに見えてなんだか笑ってしまった。
魚たちの水槽を抜けると、次に待っていたのは大型の生物たちだった。
アザラシの親子が仲良くお昼寝しているのを、通りかかった人たちが写真に収めている。
「アザラシって丸っこくてかわいいよね」
「環境に適応した姿だね。脂肪分をため込んで寒さに耐えるらしいよ」
「そういう話をしてるんじゃないんだけれど……」
水槽を歩いているときにいろいろ補足してくれてたけれど、良乃って海の生き物にも詳しいんだ。
「良乃、魚とか興味あったんだ」
「興味ってわけじゃないけれど、実家にいろいろ図鑑がおいてあったから勝手に覚えたんだよね」
なんというか、理由が良乃らしいなと思ってしまった。
きっとこの調子で植物も生き物も、ある程度知識があるんだろうな。
良乃の持っているパンフレットをのぞき込むと、次はカフェスペースがあるらしい。
少し歩き疲れたところだし、時間もいい感じなのでこのままお昼にしてしまってもいいだろう。
「そろそろお昼にしない?」
「ご飯食べるところあるみたいだし、いいよ」
良乃が頷いたのを見て、そのままカフェスペースに向かう。
カフェテリアには小さな水槽が点在していて、その中では熱帯魚がふよふよと漂っていた。
なんとか席を見つけて各々注文をしに行く。
私はオムライスと、ソーダアイスのサンデー。戻ってきた良乃のトレーには、ピックの刺さったバーガーとポテトがあった。
「良乃ってそういうの好きだよね」
「何が?」
バーガー。と指をさす。
良乃は多分、自分で選ぶときは大体片手で食べられるものをよく食べている気がする。
「楽だから?」
「もっと無いの? 好きなものとか」
割と何でも食べる印象はあるけれど、嫌いじゃないから食べていると感じることの方が多い気がする。
写真を撮っている私なんてお構いなしに、ポテトをつまみながら良乃が少し考える。
「割と何でも好きだけれどね」
「じゃあ一番を選ぶとしたら?」
「とくには? あんまり優劣考えたことないかも」
それはそれでどうなんだろう。
食欲はあるというくせに、具体的な欲求はない。そんなのでいいのかな。
「そういう莉音は?」
良乃に質問を返されると思っていなくて、私? と無駄な返しをしてしまう。
「うん。莉音は好きなものあるの」
良乃から私のことを聞いてくるなんて珍しいな。これも好奇心の延長だろうか?
「もちろんあるよ。焼き菓子とか、ケーキとか、甘いもの」
「太るよ」
「失礼だな~」
良乃の指摘に、ちょっとだけサンデーに罪悪感が沸いたけれど気にしないことにした。
今日はたくさん歩いているし、それでカロリーを消費すればいいだけなんだから。
そうと決まればさっそく次に行こう。
最後の一口を食べ終えて、カウンターに食器を返しに行く。
次の水槽は深海の魚だったっけ。
一段と暗い展示エリアの中。暗闇に紛れてしまいそうな良乃を見失わないように追いかけていると、隣を歩いている高校生たちの会話が耳に入った。
「ここの水族館、一番奥の展示コーナーでこっそりお願いをすると、理想の自分になれるんだって」
「そんなのあるの?」
「うん、ショート動画とかで流れてきたんだ」
「どうせステマでしょ」
きっとただの噂話だ。こんな人の多いところに【怪異】がいるわけない。
「莉音、おいていくよ」
いつの間にか少し先にいた良乃が私を呼ぶ声で思考を止める。
「置いてかないでよ」
多分止まっていたのは私の方なのだけれど。
私が追いつけば、良乃は再び歩き出す。
深海の魚たちはやっぱりちょっと変わった見た目の魚が多い。
こんな深くて暗いところにいてさみしくないのかな。
それだけじゃない。本来魚は大きな海を泳いでいるけれど、水族館の魚は決められた箱庭の中で生涯を過ごす。
「この子たちって、ここにいて幸せなのかな」
「急にどうしたの」
いつの間に思考が外に漏れていたのか。
言及されたのを誤魔化す方法も思いつかなくて、ついそのまま続けてしまった。
「だって、 本当はもっと広い海があるのに、そこが本来の居場所なのに、それを知らないまま終わるのって幸せなのかなって」
例えば目の前のメンダコだってそうだ。
人間の研究のために知らない場所に連れてこられて、ここで朽ちることが決まっている。
「どうだろうね、魚じゃないからわかんないや」
私の言葉に、良乃は否定するわけでも肯定するわけでもなく、ただ当たり前の言葉を口にする。
「でも、ここの魚たちはそもそも外の世界を知らないから、比べようがないと思うよ」
展示されている魚たちを眺めながら、当然のことのように良乃が言う。
そっか。そもそも知らないんだ。
与えられた世界が、その子たちにとっての全てであり、それ以外は存在しない。
だからここがこの子達にとっての海であり、生きる場所なんだ。
「そんな風に考えたことなかった」
「おれは莉音みたいに考えたことないけれどね」
良乃と並んで進んでいくと、急に視界が開けて思わず目を細める。
今度はお土産コーナーがお出迎えしたみたいだ。
「なんか難しい話しちゃったね」
「頭使ってお腹空いた?」
「空いてない!」
確かに横のフードコートにあるチュロスがおいしそうだなってちょっと思ったけれど。
また良乃に太るだのなんだの言われるので我慢することにする。
代わりにお土産コーナーの方へ目を向ければ、サメや魚のぬいぐるみやお菓子、文房具等が売られていた。
「これ良乃っぽい」
エイのぬいぐるみを見せると、どこが? と首を傾げられる。
「この笑ってるみたいな顔とか」
「おれそんな顔してる? あとそこ顔じゃないし」
おかかたちへのお土産に丁度いいと思ったんだけれどな。
仕方ないので元あった場所に戻しに行くと、今度は別の物に吸い寄せられる。
ライトアップされたクラゲが水槽の中でふわふわ浮いているみたいなインテリア。
いろんな色があるけれど、水色が一番かわいい。
「でもまだ見る場所あるし……」
もし最後の一番広いお土産ショップにあったら、その時に買おう。
「良乃は何も買わないの?」
元の場所で待っていた良乃に声をかけると、うん、と頷かれた。
「別に必要なもの無いし」
「お菓子とかあるよ」
「どこで買っても味一緒じゃん」
途中まで言いかけた良乃の口をふさぐ。ここでそういうこと言うの本当どうかと思う。
「こういうのは思い出を買うんだからね」
「じゃあ莉音が買えばいいよ」
これで私が何かクッキーとか買っておいて置いたら良乃が食べちゃうんだ。別にいいけれど。
「まだ見る場所あるから最後のところでね」
売店を抜けると、すっと喧噪が引いた。
人はいるのに、音だけを置いてきてしまったかのうような感覚。
けれどその理由はすぐに現れた。
ガラス張りの空間に閉じ込められた色とりどりの水槽。
そしてその中を漂うクラゲたち。
きっとみんな、その光景に息を呑んだのだろう。
「綺麗……」
光を透かしたクラゲたちが仄かに色づく。
周りの景色に合わせて色を変えていくクラゲたちを見ていると不思議な気分だった。
「クラゲって綺麗だよね、水みたい」
「みたいっていうか、ほとんど水だね。死んだら溶けるんだって」
隣の水槽を眺めている良乃の声が届く。
クラゲが浮遊するのに合わせて水槽の蒼が揺らめく。
夜を閉じ込めた水槽の中で溶けてしまいそうな、或いは私の方がこの空間に溶けてしまいそうな錯覚。
「でも、溶けたら見えなくなっちゃうね」
「死者はいなくなるのが道理だし、そんな変な話でもないんじゃない?」
埋葬の仕方に違いはあれど、確かに人も動物も死んだらその姿は見えなくなる。
死んだらそこまでで、もうその声を聞くことも、触れることもできないのはクラゲも人間も同じなのかもしれない。
「……幸福の魔女なら、どうするのかな」
死んだ人に会いたいと願ったら、幸福の魔女はどうやって叶えるんだろう。
顔を上げると、水槽の反射でクラゲの中に自分の顔が写り込む。
いつも鏡で見ているはずの顔が、どこか見慣れない顔をしている気がしてつい二度見をしてしまった。
そこにいるのは驚いたような、呆けたような顔をした私。
ただの見間違いかな。ちょっと疲れているのかも。
「ちょっと、大丈夫!?」
そろそろ次を見に行こうと視線を外した時、エリア内を駆け抜ける悲鳴が響いた。
思わず声の方を見ると、床に倒れる人の姿と、それに声をかける女性の姿があった。
「貧血?」
「スタッフの人呼んだ方がいいんじゃない?」
ざわめきが波紋のようにエリア内に広がり、視線がその場所に集中していく。
心配になって私も近寄ると、倒れている女性は静かに目を閉じていた。倒れた時に頭を打っていないといいのだけれど。
そっと女性の顔色を窺うように遠目から見ていると、その顔がひどく穏やかで優しいものだった。
幸せな夢を見ているだけのようにも、満足そうにも見える。
「莉音、邪魔になるから行くよ」
良乃に声をかけられてはっと回りを見ると、誰かが呼んだのであろうスタッフの人が何人か駆け付けてきていた。
良乃のいう通り、私はお医者さんでもなんでもなく、できることもないので、せめてもと思い邪魔にならないようにその場を後にする。
「あの人大丈夫かな」
ざわめきを取り戻した水族館の中を歩きながら、気になるのはやっぱりさっきの人のこと。
貧血で倒れたにしてはやっぱり表情が引っかかる。
あの人はどうして苦しそうな顔をしていなかったんだろう。どうして、あんなにも幸せそうな顔で眠っていたのだろう。
「あとはスタッフとか救急に任せておきなよ。多分人酔いとか貧血だろうし」
「それはそうなんだけれどね」
気にしているのはそっちじゃないんだけれどな、と思いつつたどり着いたのはイルカの水槽だった。
海とも水とも違う匂いに、外から流れ込む空気と日の光が混ざって独特の解放感がある。
この子達はショーにも参加しているようで、時々飼育員さんの合図に合わせて飛んで見せたり、ヒレを振ってサービスしてくれていた。
「イルカって賢いよね」
「莉音より聞き分けいいんじゃない?」
「それどういう意味?」
「だって莉音、勝手にどっか行くし」
「それは良乃の方でしょ」
何度先に進む良乃を見失って探したかなんて知らないくせに。
ヒレで愛嬌を振りまいているイルカたちに手を振ってさらに進んでいく。
もうそろそろ展示も終わりになってしまうはずだ。




