群青色の水槽Ⅰ
2話です。水族館っていいですよね。
「実はクラゲには脳がないんです」
しとしとと雨が降り注ぐ6月の夜。
いつものように良乃の家で夕飯の支度をしていると、つけっぱなしだったテレビの音が耳に入ってきた。
フライパンから目を逸らして音の方を見ると、大きな水槽が映し出されていた。
暗い水槽の中をふわふわ漂う白いモノ。
何も考えていなそうなところが少しだけ良乃に似ている気がした。
そういえば、水族館なんてもう随分と行っていない気がする。
最後に行ったのは……確かママと会った時だったっけ。
「いいなぁ」
最近オープンしたばかりのようで、どうやら思ったよりも近場にあるらしい。
あんなところに、水族館なんてできたんだ。
お洒落なカフェメニューや写真映えスポットなど、新しいデートスポットとしてすでにSNSでは話題になっているとテレビが言っている。
「ただいま」
映し出されたものを本物と勘違いしたたつとともが、画面の前で一生懸命魚たちを追いかけている姿を眺めていると、いつのまにか良乃の姿がリビングにあった。
「おかえり。びっくりしたぁ……」
「そんなにテレビに夢中になってたの?」
クスクスと良乃に笑われ、思わず表情に出た。
「良乃の気配がないのが悪い」
「気配消してるつもり無いんだけどね」
無意識かも。なんて笑う良乃の視線もテレビに向いた。
テレビの中ではまだあの水族館が映し出されている。
「水族館?」
「そうみたい。結構近くらしいよ」
良乃がテレビの話題に興味を示すなんて珍しいなと思いながら夕飯を盛り付けていると、横から二枚の紙が差し出された。
「何これ」
差し出されたチケットには、さっき映し出されていたクラゲの写真が印刷されていた。
「水族館の割引チケット。うちの大学の学生証見せたら割引になるんだって」
もらったからあげる。とだけ残して、良乃は自室に荷物を置きに行ってしまった。
行き場を失ったチケットにもう一度目を落とす。
夜の中を漂う月みたいなクラゲは、テレビで見たものよりもどうしてかうんと綺麗だった。
「でも良乃がもらったんでしょ?」
荷物と入れ替わりにおかかを抱き上げた良乃が戻ってくる。
良乃はあまり興味がないのか、盛り付けていたおかずをひょいっと摘んでそのままリビングに行ってしまう。
「おれ興味ないし。そっちの一枚は白乃がくれたんだよね。莉音にどうぞって」
「白乃さんが?」
白乃さんとはこの間食堂で話したきりだったはずだけれど。
「莉音がこう言うの好きそうだから。だって」
言われた通りに言葉を並べている様子の良乃は、こちらの困惑などお構いなしにおかかたちのご飯の準備をしている。
「まぁ、行ってみたいなとは思ってたけれど」
「丁度いいじゃん。友達いるんでしょ」
良乃の言葉に、クッションを用意しながら誘えそうな子を探して 記憶を巡らせる。
大学の子は水族館に行く感じじゃないし、そもそもチケットは二枚しかない。
高校の友達は学校が忙しそうで最近会えていないし。
「誘えそうな子いないんだよね」
「じゃあ一人で行ったら?」
「それはちょっと……」
あんまり水族館に一人で行くイメージが無いし、あぁ言うのは誰かと感想を分かち合いながら見るのが楽しいと思う。
誰か一人誘うなら……。
そこでふと、目の前の人間に焦点が当たった。
暇そうで、誘ったらきてくれそうな人。
「何?」
「じゃあ良乃一緒に行こう」
おれ? と手に持った箸が止まった。
「どうせ暇でしょ?」
休日に何かしてるの、あんまり想像できないし。
止まった箸を再び動かしながら、良乃はこちらをみないで答える。
「まぁ用事無いし、別にいいよ」
「じゃあ今度の日曜日ね」
「はいはい」
思ってもいなかった用事に思わず跳ねたくなるのを我慢して、代わりに近くにいたともを撫でた。
「楽しみだなぁ」
「莉音水族館好きなんだ」
人並みではあるけれどね。
それでもこんなに早くに行けるなんて、もしかして幸福の魔女が見ていてくれてたのかな。なんて思ってしまう。
「寝坊しないでよね」
「努力はする」
「もう。たつととも、ちゃんと良乃のこと起こしてね?」
足元で引っ付いてる双子にお願いをすれば、良い子のお返事が返ってくる。
当日は何を着て行こう。雨じゃなかったら、この間買ったワンピースにしようかななんて考えながら洗い物を片付けていく。
良乃と水族館に行くのはなんか変な感じ。
でも、別に絶対嫌と言うわけでも無い。
「良乃は水族館行ったことあるの?」
「子どもの時に連れて行かれた気がする。あとは修学旅行で行ったときくらい?」
自分で振っておいてなんだけれど、良乃の口から修学旅行なんて言葉が出てくるのは少し違和感があった。
そりゃ高校に行っていたら修学旅行は行くだろうけれど、あんまりそこで楽しんでいる良乃が想像できない。
「ちゃんと修学旅行行ってるんだ」
「莉音はおれをなんだと思っているの?」
一応人間だとは思っているよ、一応ね。
でも普通かと聞かれたら首をかしげてしまう。
「変な人」
「何それ」
間違ってはいないと思うし、十人に聞いたら九人くらいは同じ回答をすると思う。
「じゃあ日曜日。忘れないでね」
家を出る間際、良乃に念押しをすればわかってる。と言わんばかりに手を振られた。
雨に濡れるいつのも帰り道を、いつもより軽やかに進んでいく。
そういえばあの水族館、SNSでも色々話題なんだっけ。何があるのか後で見ておこうかな。
路地裏からの視線のようなものを無視して家に帰る。
返事の無い家に向かってただいまを告げ、そのまま自室へと向かった。
ベットに体を預け、SNSで水族館の写真を眺める。
カップルの写真、友達と写っている写真、家族連れの写真、かわいいパフェとぬいぐるみが一緒に写っている写真……。
ネットに挙げられている写真のどれもが、とても楽しそうで幸せそうに笑っていた。
適当にスワイプしていくと、一つの投稿に目が留まった。
なんてことない、水族館のクラゲと映っている女の人の写真。
そのテキスト欄を目が追っていく。
『ここに来たおかげで理想の自分がわかりました!』
なんで水族館で理想の自分がわかるんだろう。
リフレッシュとか、そういうことなのかな?
誰もいない家の中で、静かなはずの雨音がやけに響く。
「……上着どこだっけ」
衣替えで仕舞い込んだ部屋着を取り出そうとした時、スマホに着信が入った。
誰だろうと画面を見ると、相手は海外にいるママだった。
「もしもし?」
「あ、莉音ちゃん。まだ起きてた?」
スマホ越しに聞こえる明るい声が心地よくて、思わずこちらも声が弾んだ。
「うん、まだ全然起きてるよ。そっちはお昼ごろ?」
「そうよ。最近莉音ちゃんの声聞いてないなと思って電話しちゃった」
「何それ」
ママはいつもそうだ。思いついたから、やりたかったからで行動する人。私とは似てないなと思う。
「日本はもう梅雨かしら。風邪引いてない?」
「うん、大丈夫だよ。いつも通り」
「それならよかった。最近はどう?」
「ん〜、普通だよ。今度水族館に行くの」
「あらいいじゃない! 大学のお友達?」
友達……では無いと思う。かと言ってママにどう説明しよう。
少し迷ってから、一番手っ取り早い名前を口にする。
「良乃だよ」
その名前を聞いたママの顔は見えないけれど、どんな表情をしているかはありありと想像できる。
「最近よく名前を聞く子ね。日本に戻ったら紹介して頂戴ね」
「そんなんじゃ無いってば」
絶対ママは何か勘違いをしている。けれどその勘違いを直接訂正する機会はしばらく無さそうだ。
「いいじゃない。良乃くんによろしくね。楽しんできてね」
「うん、わかった」
それからいくつか他愛のない話をしてから電話を切る。パパもママも元気そうで良かった。
それから思い立ってクローゼットを開ける。
衣替えしたばかりの服が並ぶ中で、一番の新入りを手に取った。
この間一目ぼれして買ってしまったワンピース。
本格的な主役にするにはまだ少し早い気もするけれど、せっかくだし着て行こうかな。
あとは去年使っていたサンダルの中に、このワンピースと併せたらよさそうなものがあったはず。
ワンピースを自分に充てて鏡の前に立つ。
ふわりと揺れる裾と長めのフリル。
試着したときからずっと着るのを楽しみにしていたけれど、こんな早くに出番が来るなんてね。
「うん、絶対これにしよ」
これを着て誰かが褒めてくれるわけでもないけれど、自分がご機嫌になれるならそれでいい。
「お風呂入っちゃお」
いつの間にか気温も戻って、少し身体が軽くなる。
今日はどの入浴剤を使おうかな。なんて考えながらお風呂の準備を始めた。




