終わりの先に
秋も終わりに近づいていた。
校庭の隅に植えられた木々は、いつの間にか葉を落とし始めていた。朝、教室の窓を開けると、冷たい風が机の上に置かれたプリントを揺らす。誰かが慌ててそれを押さえ、誰かが窓を閉めろと文句を言う。そんな何でもない光景が、毎朝繰り返されていた。
三年生になってから、学校では進路の話が増えた。
もっとも、私たちの学校は中高一貫である。外部の高校を受験する者もいないわけではなかったが、大半の生徒にとって進路とは、来年も同じ校舎に通うということを意味していた。受験勉強に追われる者たちの姿を見ていると、いささか申し訳ないような気もする。こちらはというと、提出物を出し忘れないようにする程度の努力で、ひとまず高校生になれるのだから。
しかし、部活動についてはそうもいかなかった。
三年生の引退が近づいていたのである。
昼休みになると、教室のあちらこちらで高校の話が聞こえた。誰はどの部活に入るだとか、誰はもう部活を辞めるつもりだとか、そういった話である。運動部に所属している者にとっては、今までの活動に区切りをつける時期が近づいているのだった。
私も、当然その一人であった。
ただ、私には一つ、決めかねていることがあった。
高校でもテニスを続けるかどうかである。
中学三年間、私はそれなりに真面目に練習してきたつもりだった。放課後になればラケットを持ってコートへ向かい、休日にも練習に出た。調子の悪い日には、周囲が帰った後も一人でボールを打ち続けたことがある。
それでも、思うような結果は出なかった。
以前より上手くなっていることは、私自身にも分かっていた。入部したばかりの頃に比べれば、打てる球も増えたし、ラリーも続くようになった。しかし、試合になれば話は別だった。練習でできることが試合ではできず、何度も同じようなミスを繰り返した。
努力の量と結果が、必ずしも比例するわけではない。
そんなことは、随分前から分かっていたはずだった。
それでも、いざ自分のこととなると、どうにも納得がいかない。毎日練習している者よりも、たまにしかラケットを握らない者の方が良い結果を出すことだってある。もちろん、そういう人間はもともとの才能があるのだろう。あるいは、私の知らないところで努力しているのかもしれない。
いずれにしても、私の努力が足りなかったという結論にしてしまえば、話は簡単だった。
しかし、それでは三年間があまりにも寂しい。
ある日の放課後、私はいつものようにコートへ向かった。
空は薄い雲に覆われており、日差しは弱かった。風が吹くたび、コート脇に積もった落ち葉が乾いた音を立てて転がっていく。ネットの向こうでは、後輩たちがラリーを続けていた。
その中に、一人、目を引く後輩がいた。
入部した頃は、ラケットの振り方もどこかぎこちなかったはずなのに、今では随分と様になっている。打球は安定しており、相手の動きを見ながら、余裕を持ってボールを返していた。
私はしばらく、その様子を眺めていた。
別に、後輩が上達すること自体が嫌なわけではない。むしろ、同じ部活の仲間が上手くなるのは喜ばしいことだろう。そう考えるのが先輩として正しいのだろうし、私もそのつもりでいた。
ただ、彼の打つボールがネットを越えるたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような気がした。
私が三年間かけてようやく身につけたことを、彼はもっと短い時間で覚えてしまうのかもしれない。
そんなことを考える自分が、少し嫌だった。
「先輩、お願いします」
声をかけられ、私はラケットを構えた。
球出しを受け、何本か打ち返す。最初の数球は悪くなかったが、次第に打点がずれ始めた。ボールはネットにかかり、あるいは大きくコートの外へ飛んでいく。
「もう一本お願いします」
後輩がボールを拾い、こちらへ投げてくる。
私はそれを受け取った。
もう一本。もう一本。もう一本。
何度も同じことを繰り返した。ようやく狙った場所へ打てたと思えば、次の球はまたネットにかかる。どうしてこんな簡単なことができないのだろう。自分でも呆れるほど、同じ失敗を繰り返していた。
練習が終わるころには、空はすっかり暗くなっていた。
部員たちが道具を片付け始める。私はベンチに座り、ラケットのグリップを眺めていた。長い間握り続けたせいで、表面はところどころ擦り切れている。新品の頃にはなかった小さな傷も、いくつか見つかった。
このラケットを買った頃は、随分と期待していたものだった。
これさえあれば上手くなれる、などと本気で考えていたわけではないが、新しい道具を手にしたときの高揚感というものは、なかなか馬鹿にできない。あの頃の私は、次の練習が待ち遠しかった。
今はどうだろう。
ラケットを握ることが嫌いになったわけではない。ボールを打つ感触は、今でも好きだった。芯を捉えたときの乾いた音や、狙った場所へきれいに落ちたときの感覚は、何度経験しても悪くない。
ただ、それ以上に、上手くいかなかったときのことを考えるようになっていた。
次の試合でも負けるのではないか。練習しても何も変わらないのではないか。自分より後から始めた人間に、また追い越されるのではないか。
そうした考えが、いつの間にかテニスをする楽しさの上に、薄い膜のように覆いかぶさっていた。
帰り道、私は友人と並んで歩いていた。
彼も同じ部活に所属しており、高校でも続けるつもりらしい。来年はもっと練習できるようになるだとか、今度こそ大会で良い結果を残したいだとか、楽しそうに話していた。
「お前はどうするの」
不意に尋ねられた。
「何が」
「高校でもテニスやるのかって」
私はすぐには答えなかった。
「まだ決めてない」
「そうなのか。続けると思ってた」
「なんで」
「ずっとやってるじゃん」
彼は何でもないことのように言った。
ずっとやっている。
確かに、その通りだった。小学校の頃から始めたわけではないが、中学に入ってからは、ほとんど毎日のようにテニスをしてきた。休日に友人と出かけるよりも、練習を優先した日もある。家でのんびり過ごしたいと思いながら、結局ラケットを持って家を出た日もあった。
それだけ続けてきたのだから、高校でも続けるのだろうと、周囲が考えるのは自然なことなのかもしれない。
しかし、本人にとってはそう簡単な話でもなかった。
「まあ、考えとくよ」
私はそう答えた。
友人はそれ以上何も尋ねなかった。
その日の夜、部屋でラケットケースを眺めていた。
机の上には、学校の課題がいくつか置かれている。窓の外では、時折車の通る音が聞こえた。いつもなら、適当に課題を片付けて寝てしまうところだったが、その日はなぜかラケットケースが気になった。
続けるべきか、辞めるべきか。
考えてみても、どちらにも決め手がなかった。
テニスを続ければ、また同じように悔しい思いをするかもしれない。今までのように努力しても、何も変わらないかもしれない。高校では中学よりも上手い選手が増えるだろうし、今以上に自分の未熟さを思い知らされることになるだろう。
一方で、辞めたところで何かが変わるのだろうか。
テニスを辞めれば、放課後の時間は自由になる。休日に練習へ行く必要もなくなる。試合の結果に一喜一憂することもなくなる。そう考えると、随分と気楽な生活が待っているように思えた。
しかし、ラケットケースを押し入れにしまう自分の姿を想像すると、どうにも落ち着かなかった。
私は、テニスが嫌いになったのだろうか。
それとも、思うように上達しない自分が嫌いになっただけなのだろうか。
その違いは、思っていたよりも大きいように感じられた。
最後の大会の日、空はよく晴れていた。
朝から日差しが強く、会場に着くころには、額に薄く汗が浮かんでいた。コートの周囲には、すでに多くの選手が集まっている。どこかの学校の生徒が準備運動をし、別のコートでは試合前のラリーが続いていた。ボールの弾む音が、あちらこちらから聞こえてくる。
私はベンチに荷物を置き、ラケットを取り出した。
今日で最後になるかもしれない。
そう考えると、いつもより丁寧にグリップを確かめたくなった。何度も握り直し、フレームの傷を眺め、ガットの張り具合を指で確かめる。もっとも、そんなことをしたところで、ラケットが急に性能を上げるわけではない。道具にまで期待を押しつけるのは、いささか気の毒な話である。
試合前の練習が始まった。
最初の数球は悪くなかった。ボールはラケットの中央に当たり、相手のコートへきれいに返っていく。私は少しだけ安心した。今日に限っては、案外上手くいくのかもしれない。三年間も練習してきたのだから、最後くらいは多少の見返りがあってもよいだろう。
人間というものは、都合のよいときだけ過去の努力を持ち出すものらしい。
試合が始まった。
序盤は互角だった。相手の打球はそれほど強くなく、こちらにも十分に返せる余地があった。私は一球一球に集中し、できるだけミスをしないように心がけた。ラリーが続くたび、少しずつ身体が温まっていく。足も動いていたし、ラケットも振れていた。
ところが、一本のミスを境に、少しずつ歯車が狂い始めた。
相手の打球に対して半歩遅れる。無理に打ち返そうとして、ボールがネットにかかる。次の球では、慎重になりすぎて浅くなり、簡単に打ち込まれた。
たったそれだけのことで、試合の流れは変わってしまう。
私は自分に言い聞かせた。落ち着け。いつも通りに打てばいい。練習でやってきたことを思い出せばいい。
しかし、練習でできることを試合でできるのなら、そもそも苦労などしないのである。
頭では分かっている。相手の動きも見えている。次にどこへ打てばよいかも、ある程度は考えられている。それなのに、身体が思うように動かない。腕に余計な力が入り、足が止まり、普段ならしないようなミスを繰り返す。
まるで、三年間の練習をすべて忘れてしまったかのようだった。
スコアを見る。
少しずつ差が開いていた。
私はタオルで顔を拭き、水を飲んだ。喉は渇いていたが、水を飲んだところで状況が好転するわけではない。冷たい水が身体に入っていく間も、頭の中では先ほどのミスが繰り返されていた。
あの球を返せていれば。
もう少し落ち着いて打てていれば。
そんな仮定を並べることだけは、いくらでもできた。実際にその場でできなかったことを、後からならいくらでも正しく説明できるのだから、人間の頭というものは随分と便利にできている。
試合が再開した。
私は必死にボールを追った。左右に振られ、何度もコートを走った。届きそうにない球にも手を伸ばした。三年間、何度も繰り返してきた練習が、ようやく役に立つときが来たのかもしれない。そんなことを考えながら、最後まで諦めずに打ち返した。
しかし、ボールは容赦なくネットを越えていく。
相手の打球が白線の内側に落ちる。私はそれを見送り、また次のポイントへ向かった。
最後のポイントは、あっけないものだった。
相手の打ったボールに追いつこうとしたが、わずかに届かなかった。ボールはコートの隅に落ち、二度ほど跳ねて止まった。
試合終了。
審判の声が聞こえた。
私はネットの向こうへ歩き、相手と握手を交わした。相手は何か言っていたが、よく覚えていない。こちらも何か返事をしたはずだが、それがどんな言葉だったのかも分からなかった。
ベンチに戻り、ラケットを置いた。
空はよく晴れていた。日差しは強く、地面に落ちた影はくっきりとしている。試合に負けた人間にとって、天気が良いというのは、どうにも不親切なことだった。
試合前と何も変わらない。太陽は高いところにあり、風はフェンスを抜け、別のコートでは次の試合が始まろうとしている。私の三年間が終わったところで、世界の方は特に気にする様子もないらしい。
私はスコアを思い返した。
数字にすれば、ほんのわずかな差だった。あと数ポイント取れていれば、結果は違っていたかもしれない。そう考えると悔しくもある。しかし、そもそもその数ポイントを取れなかったから負けたのである。実に分かりやすい話だった。
三年間、何をしてきたのだろう。
そう思った。
毎日のようにコートに立ち、何百回、何千回とボールを打ってきた。暑い日も寒い日も、思うようにいかない日も、ラケットを握り続けた。そうして迎えた最後の試合で、私はまた同じように負けた。
努力はした。少なくとも、していないとは言えない。
しかし、努力したという事実は、勝利の代わりにはならなかった。
まことに公平な話である。試合の結果を決めるのは、練習に費やした時間でも、帰り道に感じた悔しさでもない。ただ、その場で相手より多くポイントを取ったかどうか、それだけなのだから。
私はラケットを手に取った。
グリップには、何度も握り直した跡が残っている。フレームにも小さな傷がある。これまでの練習を思い出させるものは、確かにそこにあった。
けれど、それを見たところで、先ほどの試合がなかったことになるわけではない。
私はラケットをケースにしまった。
周囲では、勝った選手たちが仲間と喜び合っていた。負けた選手たちは、それぞれ荷物をまとめている。私もその中の一人だった。
最後の大会は、こうして終わった。
帰り道、友人たちは試合のことを話していた。惜しかったとか、あのポイントが取れていればとか、次の大会ではどうするのかとか。私は適当に相槌を打ちながら歩いていた。
もう次の大会はない。
そのことが、少しずつ実感を伴って胸に沈んでいった。
悔しいという気持ちは確かにあった。しかし、それ以上に、何かをやり残したような感覚があった。もっと練習していれば、もっと早く自分の弱点に気づいていれば、あるいは違う結果になっていたのかもしれない。
そんなことを考え始めると、きりがなかった。
三年間の最後に残ったものが、この程度の結果だったとは。
私は自分のラケットケースを見下ろした。
これだけ長い間、肩にかけて歩いてきたのに、結局、何を持ち帰ることができたのだろう。
答えは出なかった。
ただ、明日からはもう、ここへ来る理由がなくなるのだと思った。
引退後の数日間は、妙に落ち着かなかった。
放課後になっても、コートへ向かう必要がない。家に帰れば、まだ明るい時間が残っている。休日も、朝早く起きる理由がなくなった。
初めのうちは、それが嬉しかった。
朝、目覚まし時計を気にせずに眠れる。友人と遊ぶ約束をしても、練習の時間を考える必要がない。これまで当たり前のように制限されていた時間が、急に自分のものになったような気がした。
しかし、数日もすると、その自由さにも慣れてしまった。
放課後、校舎を出ると、テニスコートからボールを打つ音が聞こえてくる。後輩たちが練習しているのだろう。私は足を止めることなく通り過ぎようとしたが、結局、フェンスのそばで立ち止まってしまった。
コートでは、見慣れた後輩たちが練習していた。
一人がボールを打ち、もう一人がそれを返す。ボールはネットを越え、白線の内側に落ちた。何でもないラリーである。特別上手いわけでも、目を見張るようなプレーでもない。
それなのに、私はしばらくその場を離れられなかった。
自分がいなくても、練習は続いている。
当然のことだった。部活動は私一人のためにあるわけではない。先輩が引退すれば後輩が引き継ぎ、また新しい一年生が入ってくる。そうして毎年、同じようなことが繰り返されていく。
それでも、あのコートに自分の居場所がなくなったことを、私は少し寂しく感じていた。
その日の帰り道、私は高校の部活動について考えていた。
高校に進めば、また新しい生活が始まる。勉強も忙しくなるだろうし、今まで以上に自由な時間が減るかもしれない。そんな中で、わざわざテニスを続ける必要があるのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
それからしばらくして、私は高校の部活動紹介に参加した。
体育館には、各部活動の紹介を聞きに来た生徒たちが集まっていた。運動部の紹介では、上級生たちがそれぞれの競技について説明している。テニス部の番になると、私は少しだけ姿勢を正した。
紹介の内容は、特別なものではなかった。
練習日や活動場所、大会の予定。どこの部活でも聞くような話である。最後に、上級生が高校のテニス部の写真を見せた。そこには、コートに並んで立つ部員たちの姿が写っていた。
私はその写真を眺めた。
見覚えのあるコートだった。中学の頃から使っている場所である。ネットもフェンスも、周囲の景色も変わらない。ただ、そこに立っている人間だけが違っていた。
高校生になった自分が、あの中にいる姿を想像してみた。
あまり似合わないような気がした。
しかし、同時に、少しだけ懐かしい気持ちにもなった。
部活動紹介が終わり、体育館を出ると、友人が声をかけてきた。
「テニス部、どうする?」
「まだ迷ってる」
「まだ迷ってるのかよ」
彼は笑った。
「俺はもう決めたけどな」
「知ってるよ」
「お前も続ければいいじゃん。せっかくここまでやったんだし」
また、その言葉だった。
せっかくここまでやったのだから。
その言葉は、私にとって少し厄介なものだった。今まで費やした時間を理由にして、これからの時間まで費やすべきなのだろうか。過去にどれだけ努力したとしても、それが未来の努力を正当化する理由になるとは限らない。
それでも、私はその言葉を否定できなかった。
家に帰ってからも、しばらく考えていた。
机に向かって課題を進め、夕食を食べ、風呂に入る。いつも通りの生活を送っているはずなのに、頭の片隅にはずっとテニスのことがあった。
ふと、部屋の隅に置いたラケットケースが目に入った。
表面には細かな傷がいくつもついている。ファスナーを開けると、使い古したグリップと、少し汚れたフレームが目に入った。私はしばらくそれを眺めた後、ラケットを取り出して、グリップを握り直した。
翌朝、学校へ向かう支度を済ませると、私は玄関に置いてあったラケットケースを肩にかけた。
母が、珍しそうにこちらを見た。
「今日、部活あるの?」
「いや、まだ」
私は靴紐を結びながら答えた。
「ちょっと、コートに行ってくる」
外へ出ると、春の風が吹いていた。校門をくぐり、いつもの道を歩いていく。校舎の窓には朝の光が反射し、グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえていた。
テニスコートの前まで来ると、私は一度足を止めた。
フェンスの向こうには、見慣れたコートが広がっていた。まだ誰もいない。ネットは張られたままで、白線の上には昨夜の雨の跡がわずかに残っている。
私はラケットケースを肩から下ろし、ファスナーを開けた。
ラケットを取り出して、グリップを握る。
それから、フェンスの扉に手をかけた。
扉は、少し錆びついた音を立てて開いた。
私はコートの中へ入り、ベンチにラケットケースを置いた。何をするでもなく、しばらくネットの向こうを眺めていた。
これから先、何が変わるのかは分からない。
また同じように負けるかもしれないし、何度練習しても上手くいかない日が続くかもしれない。
それでも、私はラケットを持ってここに来た。
やがて、校舎の方から足音が聞こえてきた。振り返ると、友人がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「やっぱり続けるんだな」
私は答えず、ラケットを軽く振った。
乾いた風が、ネットの向こうへ抜けていった。




