夏の入口
春の風は、思っていたよりも冷たかった。
高校生になって初めて訪れたテニスコートは、中学の頃と何も変わっていないように見えた。白線は以前と同じように地面に引かれ、フェンスの向こうには桜の花びらがいくつか舞っている。ネットの高さも、ベンチの位置も、見慣れたものばかりだった。
ただ、そこにいる人たちだけが違っていた。
高校のテニス部の先輩たちは、私がこれまで見てきた選手とはまるで違っていた。強い球を打つことだけが上手さではないらしい。相手の動きを見て、わずかに立ち位置を変え、無駄のない動きでボールを返す。打球音は乾いていて、ラケットを振り抜いた後の姿勢にまで余裕があった。
同じコートに立っているはずなのに、ずいぶん遠い場所にいるように思えた。
私はしばらく、その様子を眺めていた。
中学の頃、上手な選手を見ると、どうして自分にはできないのだろうと考えていた。練習量が足りないのか、才能がないのか、それとも単純に向いていないのか。考えたところで答えが出るわけでもないのに、私はよくそんなことを考えていた。
しかし、その日、先輩たちのプレーを見ていると、少し違うことを考えた。
あんなふうに打てるようになりたい。
それは、ずいぶん久しぶりに浮かんだ考えだった。
練習が始まると、私はさっそく先輩たちの動きを真似してみた。足の運び、ラケットの引き方、打った後の戻り方。見ていると簡単そうに思えるのに、実際にやってみると、どれも思うようにはいかなかった。
ボールはネットにかかり、あるいはコートの外へ飛んでいった。足が遅れ、姿勢が崩れ、打った後には次のボールに備える余裕もなかった。
相変わらず、私のテニスは不格好だった。
それでも、不思議と以前ほど嫌ではなかった。
目の前には、目指すべき姿があった。昨日より少しでも近づきたいと思えるものがあった。失敗するたびに、何が違ったのかを考えるようになった。できなかったことを、ただ自分の才能のせいにして終わらせることが少なくなった。
ある日の練習後、先輩の一人が私の打ち方を見て、少しだけ助言をしてくれた。
「打つときに腕だけで振ろうとしないで、もっと足を使ってみな。最初からうまくできる人なんていないから」
先輩はそう言って、何でもないことのようにラケットを肩に担いだ。
その言葉に、私は曖昧に頷いた。
最初からうまくできる人はいない。
考えてみれば、当たり前のことだった。けれど、当たり前のことほど、実際に自分のこととして受け入れるのは難しいらしい。
中学の頃の私は、できないことをできないままにしておくのが嫌だった。努力しているのだから、いつかできるようになるはずだと考えていた。そして、できるようにならないたびに、努力そのものが間違っていたのではないかと疑っていた。
今は、少しだけ違った。
先輩たちの背中は、まだ遠い。けれど、遠いからこそ、追いかける意味があるように思えた。
それからの日々は、決して劇的なものではなかった。
朝のコートには、まだ夜の冷たさが残っていた。昼になると日差しが強くなり、夕方にはフェンスの影が長く伸びた。季節が進むにつれて、練習着に染み込む汗の量も増えていった。
私は相変わらず失敗を繰り返していた。先輩のような鋭い球は打てず、思い描いた場所にボールを運ぶこともできない。それでも、以前より少しだけ足が動くようになり、苦手だった球にも追いつけることが増えた。
ほんのわずかな変化だった。
他人から見れば、気づかれない程度のものだったかもしれない。しかし、自分には分かった。以前なら届かなかったボールにラケットが触れた。以前ならネットにかけていた球が、相手のコートに入った。
それだけのことで、帰り道の景色が少し明るく見えた。
そして、夏が近づく頃、私は高校に入って初めての大会に出場することになった。
大会当日の朝、空はよく晴れていた。
会場には多くの選手が集まり、あちこちからボールを打つ音が聞こえていた。コートの周囲には、試合を待つ選手たちがラケットを持って立っている。誰もが落ち着いているように見えたが、実際にはそうでもないのだろう。私と同じように、何度もグリップを握り直している選手もいた。
初戦の相手は、同じ一年生だった。
試合が始まると、練習のときにはできていたことが、途端にできなくなった。足が止まり、打つタイミングが遅れ、簡単なボールをネットにかける。自分のミスが増えるたびに、相手の動きが大きく見えた。
中学の最後の大会を思い出した。
あのときも、私は同じように焦っていた。三年間練習したのだから、最後くらいは何かが変わるはずだと、勝手に期待していた。そして、その期待が裏切られることを恐れて、余計に体が動かなくなった。
また同じことを繰り返すのだろうか。
そう考えたとき、ふと、先輩の言葉を思い出した。
足を使うこと。打った後に戻ること。無理に決めようとしないこと。
私は一度、息を吐いた。
次のボールが飛んでくる。
今度は、まず足を動かした。
相手の打球を見て、無理に強く打とうとせず、確実に返す。決して格好のよいプレーではなかった。むしろ、見ている人には退屈なラリーだったかもしれない。
それでも、少しずつ体が動くようになった。
気がつけば、点数のことを考える時間が減っていた。相手の位置を見て、ボールの落ちる場所を予測し、次の一球に備える。頭の中にあった余計な考えが、打球音とともに少しずつ消えていった。
試合は接戦になった。
最後のポイントを取ったとき、私はしばらく何が起きたのか分からなかった。相手がネットの向こうで礼をし、審判が試合終了を告げる。そこでようやく、自分が勝ったのだと理解した。
大きな歓声が上がったわけではない。誰かが駆け寄ってきたわけでもない。ただ、いつも通りの青空がコートの上に広がっていた。
それでも、ラケットを握る手には、確かな感触が残っていた。
初戦を終え、私はベンチに座った。汗を拭きながら、先輩たちの姿を探した。少し離れたコートで、先輩の一人が試合をしていた。相変わらず、無駄のない動きだった。
あの人たちのようになるには、まだまだ時間がかかる。
そう思うと、次の試合が少し楽しみになった。
二回戦の相手は、初戦の相手よりもずっと強かった。
打球は速く、コースも厳しい。こちらが返したボールを、相手は簡単に打ち返してくる。初戦でうまくいったことが、そのまま通用するほど甘くはなかった。
それでも、私は以前ほど慌てなかった。
点を取られても、次のポイントがある。ミスをしても、そこで試合が終わるわけではない。そんなことを考えながら、私は一球ずつ返した。
試合は長く続いた。
何度も走り、何度もボールを追いかけた。足が重くなり、腕にも疲れがたまっていく。それでも、最後までラケットを振ることができた。
結果は、辛うじて勝利だった。
試合が終わると、私はベンチに腰を下ろした。額から落ちた汗が地面に染み込んでいく。空には薄い雲が広がり、日差しが少しだけ和らいでいた。
勝ったことが嬉しかった。
しかし、それ以上に、自分が最後まで試合を続けられたことが嬉しかった。以前なら、途中で諦めていたかもしれない。苦しい場面で足を止めていたかもしれない。
ほんの少しだけ、自分が変わったような気がした。
三回戦の相手は、さらに強かった。
試合が始まってすぐに、その差を思い知らされた。こちらの打球は簡単に返され、甘いボールを見逃してはくれない。相手の動きには無駄がなく、こちらが苦労して取った一点を、次のゲームではあっさりと取り返してくる。
それでも、私は何とか食らいついた。
先輩に教わったことを思い出し、足を動かした。相手の打球をよく見て、簡単に諦めないようにした。以前なら届かなかったボールに追いつき、何度か相手の意表を突くこともできた。
けれど、最後には力の差が出た。
試合終了を告げる声が聞こえたとき、私はしばらくその場に立っていた。
負けた。
当然のことながら、勝ち進めるのはどこかで敗れなかった選手だけである。大会というものは、そういう仕組みでできている。全員が満足して帰れるようにはできていないらしい。
私は相手と握手を交わし、コートの外へ出た。
悔しくないわけではなかった。もっとできたはずだと思うところもあった。あのボールを返せていれば、あの場面で焦らなければ、と考え始めればきりがない。
けれど、中学最後の大会の帰り道とは、少し違っていた。
あのときは、負けたことよりも、三年間続けたものが何も残らなかったように感じたことが苦しかった。努力しても報われないのなら、いったい何のために続けてきたのだろうと考えていた。
今は違う。
確かに負けた。自分より強い相手がいて、まだ足りないものがいくつもある。それは疑いようのない事実だった。
けれど、試合の中でできたこともあった。以前ならできなかった動きができた。苦しい場面でも、最後までボールを追いかけることができた。
それらは、スコアには残らない。
しかし、なかったことにもならない。
会場を出る頃には、日差しが少し傾いていた。朝はあれほど強く感じられた日差しも、今は柔らかく地面を照らしている。道路脇の木々は風に揺れ、葉の隙間からこぼれた光が、歩道に細かな影を作っていた。
私はラケットケースを肩にかけ直した。
大会で勝ち続けることはできなかった。けれど、もう一度試合をしたいと思っていた。次は、今日よりも長くラリーを続けたい。今日返せなかったボールを、次は返せるようになりたい。
そう考えている自分に、少し驚いた。
中学の頃は、練習が終わるたびに、明日もまた同じことを繰り返すのかと思っていた。今は、明日の練習で何を試そうかと考えている。
駅へ向かう道の途中、風が吹いた。
春に見た桜はもうなく、木々には青々とした葉が茂っていた。季節は、私が何を考えていようと勝手に進んでいく。けれど、その景色は以前よりも少しだけ鮮やかに見えた。
明日も練習がある。
それは、以前の私にとって、ただの予定でしかなかった。
今は、それが少し楽しみだった。




