主人公のような
秋も深まった頃のことである。
放課後の校庭には、昼間の熱気がまだわずかに残っていた。校舎の窓には西日が斜めに差し込み、廊下の隅には、掃除の際に集められた砂が小さな山を作っていた。風が吹くたび、校庭の隅にある銀杏の葉が二、三枚、乾いた音を立てて地面を滑っていく。
私は教室の窓から、その様子をぼんやりと眺めていた。
終業のチャイムが鳴ってから、もう五分ほど経っていた。教室にはまだ数人の生徒が残っていたが、彼らも帰り支度を済ませると、互いに声を掛け合いながら廊下へ出ていった。私は机の横に立てかけたラケットケースを見た。黒い布地には、いくつもの白い擦り傷がついている。買ったばかりの頃には、これほど傷がつくことなど想像もしなかった。
私はテニス部に所属している。
中学校に入り、浮かれていた私はコート上を一人で駆け抜ける三年を一目見て入部を決めた。
入部したばかりの頃は、毎日の練習が楽しみだった。初めてラケットを握った日のことも、初めてまともにボールを打ち返せた日のことも、今でも覚えている。ボールがラケットの真ん中に当たった時の、あの乾いた感触は、何度味わっても飽きることがなかった。
当時の私は、練習をすればするほど上達するものだと信じていた。
今の私はどこぞの小説の主人公であるかのようなその甘く腐った考えを酷く嫌っていた。
実際、最初の一年ほどはそうだった。昨日まで届かなかったボールに手が届くようになり、何度もネットにかけていた球が、少しずつ相手のコートへ入るようになった。先輩の打ち方を真似し、顧問の先生に注意されたことを直し、家に帰ってからも素振りを繰り返した。ラケットを振るたびに、自分が少しずつ何者かになっていくような気がしたのである。
しかし、いつからか、その成長は止まってしまった。
練習をしていないわけではない。むしろ、以前よりも熱心に取り組んでいるつもりだった。授業が終わればすぐに着替え、誰よりも早くコートへ出る日もあった。練習が終わったあとには、顧問の先生に頼んでサーブを打たせてもらうこともあった。休日には壁打ちをし、動画を見てフォームを確認した。
それでも、試合の結果はほとんど変わらなかった。
大会のたびに、私は同じようなところで負けた。以前よりもラリーが続くようになったと思えば、今度は簡単なミスが増える。サーブが安定したと思えば、相手の返球に対応できなくなる。何か一つを直せば、別の何かが崩れる。まるで、片方の穴を塞ぐと、反対側から水が漏れ出す桶のようなものである。
もっとも、私の桶には、どうやら底がなかったらしい。
その日も、私は部室で着替えを済ませ、ラケットを持ってコートへ向かった。
テニスコートは校舎の裏手にあり、周囲を金網で囲まれている。金網の向こうには住宅が並び、その間から細い道路が一本見えていた。コートの白線はところどころ薄くなっており、ネットの中央は長年の使用で少しばかり垂れ下がっている。
そこでは、すでに何人かの部員が練習を始めていた。
ボールを打つ音が、乾いた空気の中に一定の間隔で響いている。ラケットがボールを捉える音、靴底が地面を擦る音、仲間を呼ぶ声。それらは、私が入部して以来、何百回となく聞いてきた音だった。
私は準備運動を済ませ、壁打ちを始めた。
一球目は、ラケットの端に当たって右へ逸れた。二球目は、ネットにかかった。三球目は、ようやく壁の中央に当たったが、返ってきた球をうまく捉えられなかった。私はボールを拾い、再び同じ場所に立った。
十球、二十球、三十球。
数を数えているうちは、まだよかった。百球を越える頃には、何球打ったのかも分からなくなっていた。腕が少し重くなり、手のひらに汗が滲んできた。それでも私はラケットを振り続けた。
隣のコートでは、後輩が顧問の先生から指導を受けていた。
入部した頃には、ラケットの握り方すらおぼつかなかった一年生である。彼は今では、私が苦手としているバックハンドを、いとも簡単に打ち返していた。先生が何かを説明すると、彼は頷き、すぐに同じ動作を繰り返した。数球も打たないうちに、見違えるほど安定した球を返すようになった。
私は壁に向かってボールを打ちながら、その様子を横目で見ていた。
後輩が上達することは、喜ばしいことである。先輩として、後輩の成長を喜ぶのは当然のことだろう。実際、彼が初めて試合に勝った時には、私も祝福した。よく頑張ったと思ったし、これからも伸びていくのだろうと思った。
ただ、その時、胸の奥に小さな棘のようなものが残ったことも事実である。
人間というものは、なかなか立派にはできていない。自分ができなかったことを他人ができるようになった時、素直に喜べる人間もいるだろう。しかし、少なくとも私には、そうした高尚な性質は備わっていなかった。
私はボールを拾うためにしゃがみ込んだ。
足元には、先ほどから使っているボールが三つ転がっていた。どれも表面が少し毛羽立ち、黄色い色がくすんでいる。私はそのうちの一つを手に取った。新品のボールは、もっと鮮やかな色をしていたはずである。
練習が終わる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
私は最後にサーブの練習をすることにした。ベースラインの後ろに立ち、ボールを一度地面につき、空へ放る。ラケットを振り抜くと、ボールはネットに当たって手前へ落ちた。
もう一度。
今度はサービスラインの向こうへ飛んでいったが、狙った場所とは大きく離れていた。
さらにもう一度。
私は何度も同じ動作を繰り返した。肩に疲れが溜まり、指先の感覚も少しずつ鈍くなっていった。それでも、あと一球だけ、あと一球だけと考えているうちに、時間だけが過ぎていった。
やがて、顧問の先生が声を掛けた。
「そろそろ片付けろよ」
私は返事をして、ボールを集め始めた。
ネットを外し、用具を倉庫へ運び、コートの隅に転がっていたボールを拾う。最後にベースラインの近くに残っていた一球を見つけた時、私はそれをしばらく眺めていた。
白線のすぐ外側に、黄色いボールが一つ転がっていた。
私はそれを拾い、かごに入れた。
帰り支度をしていると、隣のコートで練習していた後輩が話しかけてきた。
「先輩、今日も残って練習してたんですね」
「ああ、少しだけな」
「すごいですね。僕も先輩みたいに上手くなりたいです」
私は笑って、適当に返事をした。
彼の言葉に悪意がないことは分かっていた。むしろ、先輩として認められているのだから、喜ぶべきなのだろう。しかし、私はその言葉を聞いて、どうにも落ち着かない気持ちになった。
彼の目には、私は上手な先輩として映っているらしい。
実際には、私は何度も同じ失敗を繰り返し、試合に出ればいつも似たような結果を残している。そんな人間を目標にするとは、彼もなかなか見る目がない。
しかし、彼のような人を蔑むことができるほど私の心はもう強くなかった。
私はもう一度自嘲気味に笑い、鞄を肩に掛けた。
夕焼け空にはどっしりと雲が広がっていた。
翌週、地区大会があった。
朝から空はよく晴れていた。会場となった市営テニスコートには、他校の生徒たちが大勢集まっていた。コートの周囲には応援に来た保護者の姿もあり、ベンチには水筒やタオルが並んでいた。
私は試合前の練習を終え、ベンチに座っていた。
対戦相手は、以前一度だけ試合をしたことのある選手だった。その時は私が勝った。しかし、最近の彼の成績を見る限り、今度はそう簡単にはいかないだろうと思われた。
試合が始まると、私は最初のゲームを落とした。
サーブが入らず、相手の打球に追いつけない。ようやくラリーが続いても、最後の一球をネットにかけてしまう。二ゲーム目は何とか取ったものの、その後は相手に流れを渡してしまった。
私は何度もタオルで汗を拭いた。
空は青く、雲一つなかった。コートの向こうでは、別の試合が行われている。歓声が上がるたび、観客席から拍手が聞こえた。私の試合だけが、どこか別の場所で行われているような気がした。
最終ゲーム、私は一度だけ相手を追い詰めた。
長いラリーの末、相手の返球が浅くなった。私は前へ走り、ボールを打ち返した。相手はそれに追いつき、何とかラケットに当てた。浮いたボールがネットの向こうへ返ってくる。私はそれを決めようとした。
しかし、ボールはわずかにラインを越えた。
アウトだった。
試合はそこで終わった。
絵具で塗りつぶしたように蒼い空だった。
何故だか空の重さ全てが私の肩に圧し掛かってくるかのような気分だった。
私は相手と握手をし、審判に礼を言った。相手は笑顔で何かを話していたが、私はうまく返事ができなかった。ベンチに戻ると、ラケットを鞄にしまい、しばらくその場に座っていた。
負けた理由なら、いくらでも挙げられる。
サーブの精度が悪かった。足が動いていなかった。相手の弱点をうまく突けなかった。最後の一球を決めきれなかった。
しかし、それらを一つずつ直したところで、次の試合に勝てるという保証はない。
私はスコアを書いた紙を見た。
そこには、ただ数字が並んでいた。
数字は正直である。少なくとも、こちらの努力を気遣って嘘をついてくれるほど、親切ではない。
会場を出る頃には、空に薄い雲が広がり始めていた。
帰り道、駅までの歩道を仲間と歩いた。彼らは次の大会の話をしていた。今日の反省や、相手のプレーについて、あれこれと言葉を交わしている。私もその話に加わったが、どうにも言葉が続かなかった。
駅のホームには、電車を待つ人々が並んでいた。線路の向こうには、夕方の光を受けた建物がいくつも見えた。私はホームの端に立ち、線路の先を眺めていた。
自分は一体、何のために練習しているのだろう。
勝ちたいからである。
それは間違いない。試合に勝ちたい。自分より上手な相手に勝ちたい。努力したことが結果になって返ってくる、その瞬間を味わいたい。
だが、勝てない。
それならば、勝てるようになるまで練習すればよい。口に出せば、ずいぶん簡単な話である。実際、これまで何度もそう考えてきた。しかし、努力を続けることと、努力が実を結ぶことの間には、思っていたよりも広い距離があるらしかった。
電車がホームへ入ってきた。
風が吹き、ホームに落ちていた小さな紙片が線路の方へ転がっていった。私はそれを目で追ったが、紙片は線路の手前で止まった。
その夜、家に帰ってからも、私は試合のことを考えていた。
夕食を食べ、風呂に入り、机の上に置いたノートを開く。そこには、以前から書き留めていた練習の記録が並んでいた。サーブの成功率、苦手なショット、試合で気づいたこと。ページをめくるたびに、細かな文字が続いている。
私はその中から、今日の試合について書こうとした。
しかし、ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。
何を反省すればよいのだろう。
いつもと同じことを書けばよいのかもしれない。サーブの安定、フットワークの改善、ラリーの組み立て。そうした言葉は、これまで何度も書いてきた。書くたびに、次こそはと思ってきた。
私はノートを閉じた。
机の脇には、ラケットケースが立てかけてある。ケースの表面には、今日の試合でついた土が薄く残っていた。私はそれを手で払ったが、完全には落ちなかった。
翌日、私はいつもより遅く学校へ向かった。
授業中、教師の話はほとんど頭に入ってこなかった。黒板に書かれた文字をノートに写しながら、私は窓の外を眺めていた。校庭では、体育の授業を受けている生徒たちが走っていた。誰かが転び、周囲の者が笑っている。遠くから見れば、ずいぶん楽しそうな光景だった。
昼休みには、部活の仲間が集まって大会の話をしていた。
「次の大会は勝てるといいな」
誰かがそう言った。
私は曖昧に頷いた。
勝てるといい。まったく、その通りである。勝てれば、どれほどよいだろう。これまでの練習が無駄ではなかったと思えるかもしれない。毎日のようにコートへ通い、何百球も打ち返してきた時間が、ようやく何かの形になるかもしれない。
しかし、私はその言葉を聞いて、少し疲れた。
放課後になると、私はいつものように部室へ向かった。
今日は練習を休もうかとも思っていた。体調が悪いわけではない。怪我をしているわけでもない。ただ、ラケットを握る気になれなかったのである。たった一日くらい休んだところで、何も変わらないだろう。むしろ、今の自分には、その方が必要なのかもしれない。
そう考えながら歩いているうちに、私はいつの間にか部室の前に立っていた。
扉を開けると、後輩たちが着替えをしていた。
「先輩、今日も練習しますよね?」
一人がそう尋ねた。
「ああ」
私は、ほとんど考えずに答えていた。
ラケットを取り出し、グリップの汚れを確かめる。少し擦り切れていたので、巻き直した方がよいかもしれない。そんなことを考えながら、私はコートへ向かった。
その日は、特別な練習をしたわけではなかった。
いつものように球出しを受け、ラリーをし、サーブを打った。ミスをすれば拾いに行き、また同じ場所に立つ。何度も繰り返しているうちに、日が傾いていった。
練習の終わり頃、私はコートの向こうにある桜の木を見た。
葉はほとんど落ちていた。枝の間には、薄い夕空が見えている。木の下には、落ち葉がいくつも積もっていた。誰かが踏んだのか、その一部は土に混じり、形を失っていた。
私は、そこに立ったまま、しばらく動かなかった。
努力すれば報われるという言葉を、私はこれまで何度も聞いてきた。先生も、親も、先輩も、そう言っていた。もちろん、それが間違いだとは思わない。努力を続けたからこそ、できるようになったこともある。
ただ、努力をしたからといって、必ず望んだ結果が得られるわけではない。
そんな当たり前のことを、私は今になって、ひどく重たいものとして受け止めていた。
ボールが一つ、足元に転がってきた。
私はそれを拾い、ネットの向こうへ投げ返した。後輩が礼を言い、また練習を始める。
私はラケットを握り直した。
明日も、ここへ来るのだろう。
そう思うと、少しばかり気が重かった。だが、だからといって、明日になれば別のことを始めるというわけでもなかった。ラケットを置いてしまえば、これまで費やしてきた時間が、急にどこへ行けばよいのか分からなくなるような気もした。
もっとも、続けたところで、その時間が報われるという保証もない。
まったく、困ったものである。
練習が終わり、私は一人でコートの片付けをしていた。ネットの端を外し、ボールをかごに戻し、最後にベースラインの近くを確かめた。
白線の上には、靴底についた土が薄く残っていた。
私はそれを見下ろした。
何度もこの線の後ろに立ち、何度も同じ方向へボールを打ってきた。線の向こうには相手のコートがあり、そのさらに向こうには、いつも自分より少しだけ上手な誰かがいた。
私は、白線を越えることができるのだろうか。
そんなことを考えたが、答えは出なかった。
コートを出ると、空はすっかり暗くなっていた。校舎の窓には明かりが灯り、遠くの道路を走る車の音が聞こえる。私は鞄を肩に掛け、校門へ向かった。
帰宅してから、ラケットケースを部屋の隅に置いた。
明日の天気予報は、曇りだった。
私はそれを確認すると、携帯電話を机の上に置いた。窓の外には、街灯に照らされた木の枝が見える。風が吹くたび、枝の先がかすかに揺れていた。
明日も、練習はある。
私は目覚まし時計をいつもと同じ時刻に合わせた。
翌朝、目を覚ますと、窓の外は薄い雲に覆われていた。
私は制服に着替え、朝食を済ませ、鞄を持った。玄関を出る前に、部屋の隅に置いてあったラケットケースを手に取る。肩に掛けると、いつもと同じ重さがあった。
駅へ向かう道には、昨夜の風で落ちた葉が散らばっていた。
私はその上を踏まないように歩いた。
今日もまた、コートへ行くのだろう。
何かが変わるという確信はなかった。昨日より上手く打てるとも、次の試合に勝てるとも思えなかった。ただ、ラケットケースの肩紐を握る手に、少しだけ力が入っていた。
駅の向こうから、電車の音が聞こえてきた。
私は歩く速度を変えず、その音のする方へ向かった。




