008 第二話 魘獏の牙(三) 桃と呼ばれる男
四 臥雲山
垣根の内側に、洗い物が干してある。
朔が門をくぐると、井戸のところにいたものが顔を上げた。
犬だった。
後ろ足で立ち、袖をたくし上げた着物を着て、前足――というより手で、たらいの縁を掴んでいる。毛は赤茶で、耳が立っていた。体高は人の胸ほどある。
律人は妖怪に違いないものを見て、一瞬気を張り詰めた。
「おう。久しぶりだな」
犬が喋った。
「朱丸」
朔が答えた。
「三年ぶりか。いや、四年か」
「四年だ」
「桃に用事か」
「ああ、そうだ」
朱丸はたらいの水を捨てて、こちらへ歩いてきた。その目が、律人に止まる。
「そっちは」
「律人という。陰陽連の人間だ」
「陰陽連」
朱丸は鼻を鳴らした。
「初めまして。天羽律人と申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
律人が深く頭を下げた。朱丸が片眉を上げるような顔をした。
「妙な奴を連れてきたな」
「行儀がいいだけだ」
「行儀がよすぎる奴は信用ならん」
「朱丸さん」
縁側から声がした。
女が座っている。少なくとも、女に見えた。着物を着て、髪を結っている。ただ、髪と思ったものは羽で、首から肩にかけて細かい羽が並んでいた。目の縁が赤い。
「お客様に失礼ですよ」
「客じゃない。朔だぞ」
「朔さんはお客様でしょう」
千代は立ち上がって、律人のほうへ頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。すぐお茶をお持ちします」
「あ、いえ、どうかお構いなく」
律人が慌てて頭を下げ返した。千代は微笑んで、奥へ入っていく。
朔は庭を見回した。
薪が積んである。竿に洗い物が干してある。庭の隅に菜が植わっていて、畝がまっすぐだった。
「悟平はいないのか」
朔が訊くと、朱丸が舌打ちをした。
「あの猿ならまたどっかを遊び歩いてる。二月前に土産だけ置いて行ったきりだ」
「土産」
「異国の茶碗だとよ。使い道がないからそのへんに置いてある」
朔は少し笑った。
振り返ると、律人が棒立ちになっていた。
「律人」
「……朔」
「なんだ」
律人の目が、井戸から縁側へ動いた。千代が盆を持って戻ってくるところだった。
「もしかして、ここは」
「そうだ」
「いや、待て。犬と、雉と、猿って」
「猿は今いない」
「そうじゃなくて」
律人は口元を押さえた。
「もしかしてここに住んでいるのは」
「お前が考えてるので正解だと思うぞ」
律人の喉が、ごくりと動いた。
「……嘘だろ」
「本当だ」
「だって、二百年前の」
「今は昼から酒を飲んでる爺さんだ」
奥の襖が開いた。
「誰だ、騒がしい」
出てきた男は、背が低かった。
律人より頭一つ小さい。痩せてはいない。肩と胸に厚みが残っていて、着物の袖から出た腕には筋が浮いている。だが、それは若い男の腕ではなかった。髪は白く、短く刈ってある。顔は皺だらけで、左の眉から頬にかけて古い傷が走っていた。
手にした湯呑みの中身は、茶ではない。匂いで分かる。
「朔か」
「まだ昼にもなってない」
「もう昼だ」
「まだだ」
「わしの中では昼だ」
桃はそう言って、縁側にどすんと腰を下ろした。
律人は身じろぎもできずにいた。
「そっちの若いのは」
「天羽律人と申します」
律人が膝をついて頭を下げた。深すぎるほど深く下げた。
「その、お目にかかれて、光栄です」
「なんだ、こいつ」
「行儀がいいだけだ」
「行儀がよすぎる奴は信用ならんぞ」
「朱丸と同じこと言うな」
朱丸がどこかで笑った。
千代が茶を運んできて、律人の前に置いた。律人は礼を言って受け取ったが、湯呑みを持ったまま桃を見ている。
「……あの」
「なんだ」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「桃、というお名前は」
桃が酒を飲んだ。
「桃から生まれたって話か」
「い、いえ、その」
「あれは嘘だ」
桃は湯呑みを置いた。
「わしが拾われた時にはもう桃と呼ばれとった。誰がつけたかも知らん。それが先だ。桃から生まれたって話は、後から誰かが作った」
「後から」
「宵士ってのはな、子供の頃に拾われる奴が多い。どこの誰だか分からん。分からんと、みんな勝手に話を作る。そのほうが面白いからな」
桃は顎で庭を指した。
「だいたい、桃から生まれたら、わしが一番妖怪みたいじゃないか」
朱丸が今度ははっきり吹き出した。
律人は湯呑みを持ったまま、目を白黒させている。
朔は上がり框に腰を下ろした。
「頼みがある」
「金か」
「牙だ」
桃が目を上げた。
「魘獏の牙。持ってるか」
桃は朔を見据えたまま、酒を一口飲んだ。
「何に使う」
「子供が一人、死にかけてる。十二だ」
「病か」
「瑛輝だ。生まれつき弾けん体で、十二年ぶん溜まった」
桃の手が止まった。
「そりゃ気の毒だな」
「牙が効く。八百年前の医書にある」
「効くのか」
「律人が調べた」
桃が律人を見た。律人が姿勢を正した。
「はい。二つ処方が見つかりまして、そのうちの一つに」
「ふん」
桃は立ち上がって、奥へ入っていった。
物を動かす音がする。何かが倒れる音がして、朱丸が「また散らかすぞ」と声を上げた。
戻ってきた桃は、桐の箱を縁側に置いて蓋を開けた。
布に包んだものが、いくつも入っている。桃はそれを一つずつ出して並べた。爪、鱗、角の欠片、何か分からない乾いたもの。どれも小さい。
「これだ」
桃が差し出したのは、指ほどの長さの牙だった。乳白色をしていて、根元が少し黄ばんでいる。
律人の目が、牙に吸い寄せられた。
「……これが、魘獏」
「四十年ばかり前だな。北の山で獲った。その時はもう珍しかった」
「なぜ、売らずに」
律人が言ってから、失礼だったと思ったらしく口を閉じた。桃は気にしなかった。
「売れんかっただけだ」
「売れない」
「魘獏は薬にならんと思われてたからな。妖物商が値をつけん。そのへんの獣の牙と同じ値段だ」
桃は箱の中を指した。
「安く買い叩かれるもんは、売る。酒代になる。高く売れんかったもんが、こうやって残る」
「では、これは」
「値がつかんかったから残った」
桃が放った牙を、朔は片手で受け取った。
「それと、値がつかんもんの中には、いつか要るかもしれんもんが混じっとる。四十年寝かせりゃ、たまには当たりが出る」
「当たったな」
「今日は当たった」
桃は湯呑みを取り上げた。
「金は要らんぞ」
「加賀屋は出すと言ってる」
「その加賀屋とやらが困っとるんだろう。わしが取ってどうする」
「四十年前に獲ったのはあんただ」
「獲っただけだ。置いといただけだ。置いとくのに金はかからん」
桃は酒を飲み干して、朱丸のほうへ湯呑みを差し出した。朱丸がぶつぶつ言いながら受け取って、奥へ持っていった。
「それより、飯を食っていけ。千代が張り切っとる」
「急ぐんだ」
「子供が死にかけとるんだったな」
「そうだ」
桃は湯呑みに目を落とした。
「そうか」
それだけ言って、庭を見た。
朔は牙を懐に入れて、立ち上がった。律人も立ち上がって、また深く頭を下げる。
「本日は、本当に、ありがとうございました」
「若いの」
「はい」
「そんなに頭を下げると、首が疲れるぞ」
「……はい」
門を出る時、朔は一度だけ振り返った。
千代が縁側で洗い物を畳んでいる。朱丸が井戸で湯呑みを洗っている。桃は縁側に座って、庭を見ている。
四年前と、何も変わっていなかった。
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