007 第二話 魘獏の牙(二) 牛の頭の式神
三 山へ
臥雲山の麓にある杣口の町で一泊し、翌朝から登った。
木こりと炭焼きの町で、朝早くから人が動いている。律人は宿の主人にも、すれ違った炭焼きにも丁寧に挨拶をして、されたほうを驚かせていた。
「お前、疲れんか」
「何がだ」
「誰にでも頭を下げてる」
「下げないほうが疲れる」
律人の答えは、あっさりしていた。
道はすぐに細くなり、杣道が二股に分かれたところで、朔は左を取った。後ろからついてくる律人は、山道に慣れない足取りのわりに、音を立てない歩き方が身についている。陰陽師の修行なのだろう。
黙々と登っていると、律人が口を開いた。
「朔。瑛輝って、どこから来たと思う」
「藪から棒だな」
「加賀屋の子のことを考えてた。生まれつき瑛輝が溜まる体だった。溜まるものがあるなら、それはどこから来たんだろうって」
「考えたことがない。宵士は、あるものを使うだけだ。どこから来たかは、使うのに要らん」
「宵士らしい答えだ」
律人は可笑しそうに続けた。
「書庫の古い文献には、神々の喧嘩の名残だと書いてある。人が生まれるより前に、天から降りてきた神々が争って、皆倒れた。その力が大気に混ざったのが、瑛輝だって。妖怪が生まれるようになったのも、それからだと」
「その神々は、どうなった」
「分からない。倒れた、としか書いていない。ただ、海の底や山の奥に、人の手ではとても作れない古い遺構が残っていて、それがその頃のものだろうと言われてる」
律人は自分の掌に目を落とした。
「僕が使い魔に押し込んでるのも、朔の体に混ぜてあるのも、元をたどれば、倒れた神々の力の残りかすなんだ」
朔は少し考えた。
「神様の喧嘩の後始末を、俺たちがしてるわけか」
「……そういうことになるね」
「割に合わん仕事だ」
「宵士の報酬、上げてもらったら」
「誰に請求するんだ。倒れた神様にか」
律人が声を立てて笑った。
杣道の脇の木々が、風に鳴っている。
半刻ほど登ったところで、朔が足を止めた。
「どうした」
「静かすぎる」
律人も口を閉じた。
鳥の声がない。風はある。木が揺れる音はする。だが、生き物の音がしない。
朔は左手を鞘にかけた。
斜面の上から、石が落ちてきた。
落ちてきたのではない。蹴落とされていた。
最初の一匹が木の間から出てきた時、律人が息を呑んだ。
腹だけが膨れていた。手足は枯れ枝で、肋が浮いている。皮膚は灰色で、顔の造作は人に近い。口が横に裂けて、歯が覗いている。
一匹ではなかった。二匹、五匹、十匹。斜面の上から、木の裏から、次々に出てきた。
「餓鬼か」
「餓鬼だ」
朔は鯉口を切り、抜刀の姿勢に入った。
「この山に出るのか」
「出ない。少なくとも俺がいた頃は」
餓鬼は喋らない。鳴きもしない。ただ、口を開けて降りてくる。
一匹一匹は弱い。子供より力がない。だが、数が多いと話が変わる。腕を掴まれ、足を掴まれ、重なられれば動けなくなる。動けなくなれば食われる。
朔は数えた。三十は下らない。
「律人。下がってろ」
「下がるけど」
律人は下がりながら、筒の蓋を開けた。
「一つ出す」
「いい。多いからな」
「いや、そうじゃなくて」
律人は札を一枚抜いて、指で挟んだ。
「あんまり見て気分のいいものじゃないから、先に言っておく」
律人の指を離れた札が、地面に落ちる前に燃えた。
燃えた場所から、影が立つ。
影は輪郭を持ち、厚みを持ち、それから物になった。
牛の頭をした、人の形のものだった。背丈は九尺近い。肩から胸にかけて筋肉が盛り上がり、両腕が丸太のように太い。角は前へ向いて反り、先が黄ばんでいた。
だが、朔が見ていたのは体ではなかった。
毛皮が白い。白いというより、色が抜けていた。元は黒か焦茶だったはずの毛が、洗いすぎた布のように濁った白になっている。その白の上を、黒い紋様が走っていた。呪符の書き方に似ているが、書かれたものではなく、皮膚の下から浮いている。首、肩、背中、腕。太い血管の走るところに沿って、紋様が這っている。
そして目に、光がなかった。
瞳はある。黒い。ただ、何も映していない。開いているだけだった。
「牛頭鬼だ」
律人が言った。
異質な瑛輝を纏った牛頭鬼を見上げてから、朔は律人に言った。
「なら半分頼む」
「わかった。牛頭鬼、餓鬼を頼む」
牛頭鬼が動いた。
速かった。九尺の体が、山の斜面を一直線に上り、餓鬼の群れに突っ込んだ。最初の一匹を腕で薙ぎ、二匹目を踏み、三匹目を掴んで木に叩きつける。餓鬼の体は軽い。掴まれれば、それで終わりだった。
朔目掛けても、餓鬼が斜面を転がるように降りてくる。抜き放った刃が下から上へ走って一匹を両断し、返す刀で次の二匹目を斬り捨てた。
三匹目が朔の脇をすり抜け、律人のほうへ向かった。
すり抜けた、その一瞬だけ、一尺の内に入っている。
朔は左手を伸ばした。引かれた餓鬼が、足を浮かせて戻ってくる。その首根っこを掴み、掌から狐火を放つ。頭が一気に燃え上がる。
燃えたままの体を、掌で圧して押し出した。固まって向かってきていた数匹に叩きつけ、怯んだ隙に間合いを詰めて斬り伏せる。
その後も朔と牛頭鬼は餓鬼を次々と片付けていった。
そうして残った最後の一匹を牛頭鬼が踏み潰した時、律人が息を吐いた。
「ありがとう。助かった」
牛頭鬼に向けた言葉だった。
牛頭鬼は返事もせず、ただ立っている。
「戻ってくれ」
牛頭鬼の輪郭がほどけて、影になり、消えた。あとには何も残らない。
律人は札の燃えかすを拾って、懐に入れた。
「朔」
「なんだ」
「何か言いたそうだな」
「言ってない」
「言ってないけど、そういう顔をしてる」
朔は刀を納めた。
「いい腕だ」
「そういう意味じゃないだろ」
律人は笑ったが、目は笑っていなかった。
「……まあ、いい。慣れてる」
朔は答えず、歩き出す。
半刻ほど、二人とも黙って登った。
道が平らになり、木が開けたところで、朔がまた足を止めた。
少し先に垣根が見え、その向こうの屋根から煙が上がっている。
「律人」
「なんだ」
「この先は使い魔を出すな」
律人が眉を寄せた。
「なんで」
「出すな」
「いや、そうじゃなくて。理由を」
「行けば分かる。分からなければ、それでいい」
朔はそれだけ言って、歩き出した。
律人はその場に立ち尽くしていたが、やがて筒の蓋を確かめて、後を追った。
一言でも感想をいただけると、作者が小躍りします。ブックマーク・評価もお待ちしています。




