005 第一話 火車(五) 一尺
五 討伐
子の刻を回った頃、線香が半分になった。
月は細く、薄い雲が流れている。
最初に気づいたのは、音が消えたことだった。
虫の音がやんだ。風もない。宿場のほうから犬の声もしない。
朔は帽子を上げた。
雲の上に、四つ足がいた。
与次の話の通りだ。大きさが分からない。遠近を測る手がかりが何もない。猫の形をしていて、足を運ぶたびに雲がわずかに沈む。踏んでいるのではなく、そこに足を置いている。
顔に、目がない。
朔は息を整えた。
あれは降りてくる。条件が揃っているから降りてくる。そうでなければ、この半年で七件も起きていない。
四つ足は、まっすぐ桶のほうへ向かってくる。
朔は動かなかった。降りきるまで待つ。届く距離は一尺。そこまで入れば、それで終わる。
四つ足が桶の真上まで来て、止まった。
そのまま、動かない。与次が見たという、三つか四つの息の間よりもずっと長い。
そして、離れた。
朔は舌打ちを飲み込んだ。
中身がない。数えていないと思ったが、数えていた。あるいは、数えてはいないが、何かが足りないことだけは分かるのか。形が揃っていない。
四つ足は雲の上をゆっくり歩きはじめた。宿場のほうへ。
朔は立ち上がった。
行かせれば、また誰かの家の座敷で同じことが起きる。今夜でなくとも、次に夜のうちに誰か死んだ時に。
足元の空気を圧し潰す。
掌ほどの範囲の空気が、一尺の中で固く縮んだ。それを蹴る。破裂音がして、体が跳ね上がった。
二間、三間。空中でもう一度、足の下に空気を集めて蹴る。
四つ足の進む先を読んで、斜め上へ。
着いた時、そこに四つ足はいなかった。
空を切って落ちながら、足の下に空気を溜め、地面に当たる寸前で蹴って勢いを殺す。
「くそっ」
跳んだ後は軌道を変えられない。それが朔の跳び方の穴だ。集めた空気を蹴って飛ぶ以上、蹴った瞬間に行き先が決まり、途中で曲がることができない。
そして、跳ぶたびに音が鳴る。
二度目に跳んだ時には、四つ足は既に進路を変えていた。
着地して、上を見る。
音を聞いている。目はないが、音は拾う。あるいは、空気が動いたことを拾っているのかもしれない。どちらでも同じだった。跳べば読まれる。
朔は岩陰に走り、幻香に火を入れた。
匂いが散り、自分の輪郭が薄くなるのが皮膚で分かる。人間なら、今の朔を見失う。
もう一度跳んだ。
四つ足は、跳んだ先から正確に離れた。
朔は着地して、膝をついた。
効かない。分かっていたことだが、実際に効かないのを見ると、手札が一枚減ったことを認めるしかなかった。
惑わす心がないというのは、こういうことだ。あれは朔を認識していない。認識していないものは、騙せない。ただ、空気が鳴った場所から離れているだけだ。
四つ足は宿場のほうへ進んでいく。
朔は帽子を押さえた。
跳んでも届かない。届く距離は一尺で、その一尺に入るには相手が降りてくる必要がある。降りてくるのは、条件が揃った時だけ。
条件。
朔は桶を見た。
空の桶。白布。蝋燭。線香。足りないのは中身だ。
谷を思い出す。石と、その隙間の白いもの。そこで何十年も繰り返されてきた光景。弔われないまま置かれた死者と、それを漁りに来る獣。
漁りに来る獣が求めるのは、桶でも布でも線香でもない。
朔は夜蛭を抜いた。
刃が蝋燭の光を返す。手入れをしたことがない刃だった。
左の掌を刃に当てて、引いた。
浅く裂けて、血が出る。夜蛭がそれを吸おうとするのを、手首を返して止めた。今はいらない。
懐から出した手拭いに、掌の血を押しつける。白い布が、みるみる赤くなった。
しばらく押しつけてから、桶のほうへ走る。
白布をめくり、血の染みた手拭いを桶の中へ放り込んで、桶の陰に伏せた。
空気が動いた。
顔を上げなくても分かる。上から何かが降りてくる時の、圧の変化だ。
朔は掌を握り込んだ。血が滴っている。桶の中と、自分の掌と、両方にある。どちらへ来るかは五分。
どちらでもよかった。どちらも一尺の内側だ。
布が擦れる音がした。
顔を上げると、桶の縁に前足がかかっていた。
指が五本。四本並んで、離れて一本。角度が違う。板についた痕とまったく同じ並びだった。
朔は体ごと起き上がる。
顔があった。耳があり、鼻があり、口があり、牙もある。目のあるべきところには、窪みも盛り上がりもない。毛が生えているだけだ。
距離は一尺を切っていた。
朔は溜めていたものを、全部使った。
瑛輝が体の芯から抜けていく。二十年やっていても慣れない感覚だ。掌の血が一瞬で乾き、視界の端が白くなる。
一尺の中の空気が、限界まで縮んだ。
異変を察した獣が、空へ逃げようとした。逃げられない。正面へ強く引き寄せられて、その場から動けずにいる。
朔は夜蛭を、縮んだ空気ごと振り抜いた。
音はしない。
四つ足の形が、胴の途中から断ち切られた。血も出なければ、骨も見えない。断面は、ただの濁りだった。灰色とも茶色ともつかない、淀んだ何かが、そこに詰まっている。
四つ足は、そのまま桶の縁から滑り落ちた。
地面に触れたところから、崩れはじめる。
耳が溶け、足が溶け、顔の輪郭がなくなっていく。最後まで残ったのは前足の指だった。五本。四本並んで、離れて一本。それも消えた。
あとには、地面に薄く広がった濁りだけが残っている。それも風もないのに散っていき、じきに何も見えなくなった。
朔は膝をついた。
立てない。体の中が空になっている。一晩で一度しか使えない出力だった。使い切れば、しばらくは跳ぶことも走ることもできない。
夜蛭が掌の傷から血を吸っているのが分かったが、止めなかった。
背後で足音がする。
与次が結界の外に出てきていた。住職が後ろから何か言っているのに、止まらない。
朔のところまで走ってくると、桶を見た。
「終わったんですか」
「終わった」
桶を覗き込んだ与次が、底に落ちた血染めの手拭いに気づいた。
「これは」
「囮だ」
「囮って」
「あれが谷に来てたのは、死体を漁るためだ。漁る側の形をしてる以上、漁るものが要る。桶と布と蝋燭を揃えても、肝心なものがなけりゃ来ない」
与次の目が、手拭いから朔の左手へ移った。
「その手」
「たいしたことはない」
「たいしたことあるでしょう」
「刀が吸ってる。放っときゃ止まる」
与次は何か言おうとして、口を閉じた。代わりに、桶の縁を指でなぞる。
「ここに、いたんですよね」
「いた」
「おれのばあちゃんを持ってったやつが」
「そうだ」
与次の次の言葉は、すぐには来なかった。
「同じやつですか」
「同じものだ。個体って言えるのかどうかは分からん。あれは一匹いて一匹倒したっていう話じゃない。谷が溜めてたものが、こういう形を取ってた。それを散らした」
「じゃあ、また溜まったら」
「また出る。何十年か、何百年か先にな。同じことを続けてればな」
与次は空を見た。雲が流れているだけで、もう何もいない。
「あの、朔さん」
「さんは要らん」
「……朔」
与次はそう呼んで、それから何を言おうとしたのか忘れたような顔をした。
朔は笑った。
「いい。今は何も言わんでいい」
結界の内から、住職が駆け寄ってきた。数珠を握ったまま、朔と桶と与次を順に見る。
「これは、その」
「片がついた」
「本当に」
「本当にだ」
住職はその場に座り込んだ。
朔は帽子を拾って、埃を払った。
「悪いが、しばらく立てん。そこで休ませてくれ」
六 報酬
三日寝た。
寺の一間を借りて、飯を食っては寝る。瑛輝が戻るまでは、これしかない。二日目には歩けるようになったが、急ぐ用事もないので、三日目まで寝た。
四日目の朝、住職が二両を持ってきた。
包みを朔の前に置いて、手をつく。
「これしかありません」
「聞いてる」
朔は包みを開けずに、脇へ寄せた。
「不足分の話をしよう」
「はい」
「宿場で、何が出せる」
住職は顔を上げ、それからまた下げた。
「米ならいくらか。あとは、山のものが」
「要らん」
「では」
「谷に塚を建ててくれ」
住職が動きを止めた。
「……塚」
「大きいのは要らん。石を積んで、上に一つ据えるくらいでいい。名前も要らん。書きようがないだろう」
「それは、その、しかし」
「それから、年に一度でいい。誰か下りて経を上げてくれ。あんたでもいいし、次の代でもいい」
住職はまじまじと朔を見つめた。
「それが不足分だ」
「……宵士どのの得になりません」
「ならんな」
朔は湯呑みを取った。
「だが、あれが出たのは瑛輝が溜まったからだ。溜まったのは、あの谷で同じことが何十年も繰り返されてたからだ。俺が斬ったのは形だけで、元は何も変わってない」
「……また出ると」
「出る。すぐじゃない。あんたの代でも、次の代でも出ないだろう。だが、このままなら必ず出る」
朔は湯呑みを置いた。
「塚があって、年に一度誰かが下りて、そこで手を合わせる。それだけで、あの谷の光景は変わる。捨てる場所じゃなくなるからな。溜まり方も変わる」
「それで、防げるので」
「防げるとは言わん。遅くはなる。百年か、二百年か。それだけ先延ばしにできれば、その頃には俺も死んでる。あんたも死んでる。与次も死んでる。それでいい」
住職は長く黙り込んだ末に、深く頭を下げた。
「建てます」
「頼む」
「必ず」
「あんたが死んだ後のことは、あんたの仕事じゃない。次の代に言い置いてくれりゃ、それでいい。あとはそいつの仕事だ」
支度をして寺を出たのは、昼前だった。
石段の下に、与次が立っていた。
「行くのか」
「仕事がある」
与次は、布に包んだ小さなものを手にしていた。
「これ、母ちゃんが」
受け取って開けると、握り飯が三つ入っていた。
「ありがたい。ちょうど腹が減ってた」
「あの」
「なんだ」
与次は言いにくそうにしている。
「おれ、宵士になれますか」
朔は包みを結び直した。
「なれん」
与次の顔が固まった。
「宵士を作る技術がなくなった。何十年も前にな」
「……そうなんですか」
「知らんかったか」
「知りませんでした」
「知らんでいい。誰も言わんからな」
朔は帽子を被り直した。
「今いる連中が死んだら、それで終わりだ。増えることはない」
与次は足元を見ていた。
「じゃあ、いなくなったら、どうするんですか」
「さあな」
朔は歩き出し、二、三歩行ってから振り返った。
「塚が建つそうだ。谷にな」
「聞きました」
「たまに下りてやってくれ。あんたの婆さんも、あそこにいる」
与次が顔を上げた。
「持ってかれたんだ。行き先は一つしかない」
与次は何か言いかけて、唇を結んだ。目が赤くなっている。
「行ってきます」
「ああ」
「今日、行ってきます」
朔は頷いて、帽子のつばを下げた。
街道へ出ると、荷車が一台通っていった。宿場のほうから犬の声がする。半年ぶりに、夜にも出歩く者が戻るのだろう。
次の宿場までは半日ほどある。
朔は握り飯の包みを懐に入れ、歩き出した。
第一話「火車」はここまでです。お付き合いいただきありがとうございました。
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1話で世界観を何となくわかってもらいたかったので1日で完結まで投稿させてもらいました。
毎日投稿の為2話以降からはゆっくりと投稿させていただきます。




