004 第一話 火車(四) 空の通夜
四 準備
寺に戻ったのは、日が落ちきってからだった。
本堂の板間に胡座をかいて、朔は住職の出した番茶を飲んだ。隅に座った与次は、谷から戻る道で一言も喋らなかった。
「訊いていいか」
朔が言うと、住職が居住まいを正した。
「あの谷は、宿場のもんが決めた場所か」
「……さて。私が来た時にはもう」
「何代目だ」
「四代目です」
「前の住職から、何か聞いてないか。あの谷のことで」
住職は記憶を辿るように目を細めていたが、首を振った。
「聞いておりません。ただ」
「ただ」
「あそこへ行くなとは言われました。子供の時分に」
「あんたも子供の頃からここか」
「生まれはこの宿場です」
朔は湯呑みを置いた。
「じゃあ、あんたの婆さんの婆さんの頃にはもうあった。それより前は分からん。それでいい」
「それで、何か」
「いつからあるかが分かっても、やることは変わらん。溜まりきってから出るまでに、どれだけかかるかを知りたかっただけだ」
住職は膝の上で数珠を繰っていたが、その手を止めて、顔を上げた。
「宵士どの」
「なんだ」
「昼間、口にしなかったことがございます」
「ああ」
朔は湯呑みを持ったまま、続きを待った。
「経に出てくる話でしてな。亡骸を奪っていくものがあると。地獄から迎えに来て、車に乗せて連れていく」
「火車か」
住職が目を見開いた。
「ご存じで」
「そういう商売だ」
住職は数珠を握り直した。
「……ならば、なぜ私が口にできなかったかも、お分かりかと存じます」
「悪業を積んだ者を迎えに来る、という話だからだろう」
「はい」
住職は畳を見た。
「奪われたのは、七人とも、貧しい年寄りばかりです。一人として、人様に恨まれるようなことをした者はおりません。与次の祖母などは、自分で歩けなくなる前は、寺の前の道の石を拾っておりました。躓く者が出るからと」
朔は湯呑みを置いた。
「あの者たちが地獄から迎えを出されたと、私の口から言うわけには参りませんでした」
「言わんでよかった」
住職の手の中で、数珠が鳴った。
「名前は合ってる。中身が違うだけだ」
「……と申しますと」
「火車ってのは、あれ一匹の名前じゃない。ああいう出来方をしたものを、まとめてそう呼ぶ。谷だの、沼だの、坑道だの、弔われないものが積もった場所から出てくるやつをな」
「他にもいると」
「西にもいる。北にもいる。俺が知ってるだけで四つだ。姿はみんな違う。猫だったのは、この谷に猫が来てたからだ。犬が来てりゃ犬になる。烏が来てりゃ烏になる」
住職は息を呑んで、二の句が継げずにいた。
「では、経のほうは」
「順番が逆なんだ。ああいうものが出る土地があって、そこで仏が持っていかれた。持っていかれた家の者が、なんでうちのが、と思う。誰かが理由を探す。それで、地獄だの、悪業だのという話が後から足された。そのほうが納得がいくからな」
「……後から」
「あれは誰が死んだかを見てない。善人も悪人も数えてない。目がないのは、そのせいでもあるだろう。見て選ぶ必要がないんだ」
住職は数珠を握ったまま、下を向いた。
「では、あの婆さまがたは」
「何も悪いことはしてない。悪いことをしてないから持っていかれた、わけでもない。何もしてないし、何も関係ない。夜に死んで、朝まで置かれた。それだけだ」
住職は、やがて深く息を吐いた。
「……救いのない話ですな」
「そうか」
朔は帽子を膝から取り上げた。
「あんたが黙ってたおかげで、七軒の家は、身内が地獄行きだったと思わずに済んでる。それは救いのうちに入らんか」
朔は膝を叩いて立ち上がった。
「明日の晩に片をつける」
住職が目を見開いた。
「そんなに早く」
「遅らせる理由がない。次に誰か死ぬのを待つ気か」
「いや、それは」
「それに、こっちから条件を揃えてやればいい」
朔は本堂の隅に立てかけてあった早桶を指した。使い古しの、空のものだ。
「それを借りる。あと、白い布と、蝋燭と、線香」
「……何をなさるので」
「通夜をやる」
住職が黙り込み、隅の与次がこちらを向いた。
「仏はなしだ。桶だけ置いて、布を掛けて、蝋燭を立てて、線香を焚く。形だけ揃える」
「それで来ますか」
「来る」
朔は言い切った。
「あれは誰が死んだかを見てない。夜で、弔われてなくて、まだ土にも火にも入ってない。その形が揃ったら動く。そう出来てる。中身が入ってるかどうかは、たぶん数えてない」
「たぶん、ですか」
「指の数も数え損ねてる相手だ」
住職は何か言おうとして、やめた。
場所は宿場の南の外れ、谷へ下りる道の入口に決めた。周りに家がなく、木も生えていない。両側の斜面が、逃げ場を狭めている。
その晩のうちに下見を済ませ、翌日の昼は寝た。
夕方に起きて、支度をする。
早桶を置き、白布を掛け、四隅に蝋燭を立てて、線香を焚く。形だけ見れば、どこの通夜とも変わらない。ただ、桶の中には何も入っていない。
手伝っていた与次の手が、蝋燭を立てる途中で一度だけ止まった。
「大丈夫か」
「……はい」
「無理なら座ってろ」
「やります」
朔はそれ以上言わなかった。
線香に火を入れてから、朔は懐から紙包みを出した。中身は乾いた草を刻んだものだ。
「なんですか、それ」
「幻香だ。焚くと匂いが散る。狐が使う手の、安いやつだな。これで俺の匂いと気配を薄くする」
「効くんですか」
「人間には効く。獣にも効く」
「あれには」
「分からん」
手を止めずに、朔は答えた。
「あれには惑わす心がない。幻ってのは、相手が自分で騙されてくれる仕掛けだ。騙される側がいないと成り立たん。だから、効かん公算のほうが大きい」
「じゃあ、なんで」
「効かなかった時に、効かないと分かるからだ」
与次が朔の顔を見た。
「初めから使わなけりゃ、効くのか効かないのか永久に分からん。次の土地で同じものが出た時に困る」
紙包みを閉じて、桶から十間ほど離れた岩陰に置く。
「それと、あんたらは中に入っててくれ」
住職が持ってきた結界札を、道の内側の窪みに四枚打った。安物だが、生き物でないものを一時足止めするくらいはする。
「与次、住職と二人でここに入れ。出るな」
「見てちゃ駄目ですか」
「見るのはいい。出るな」
与次は頷いた。住職は数珠を握ったまま、朔の腰の刀を見ている。
「それは」
「夜蛭という」
朔は柄に手を置いた。
「連れが死んだ時に、牙から打ってもらった。血を吸う。斬った相手の血でも、俺の血でもな。吸ってる間は刃が鈍らん」
「……剣が、血を」
「便利なんだ。手入れが要らん」
柄頭を軽く撫でて、朔は少し笑った。住職は笑わなかった。
日が完全に落ちる。
四つの蝋燭が、白布を照らしている。風はなく、線香の煙がまっすぐ立っていた。
朔は桶から五間ほど離れた斜面の途中に座り、帽子を目深に被った。
あとは待つだけだ。
待つのには慣れている。二十年以上やってきた。この時間に考えるのは、いつも同じようなことだった。
刀の名の由来になった男のことだ。
夜にしか歩けなかった、あの男の。
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