003 第一話 火車(三) 谷の底
三 現場検証
与次が戻ってきたのは、日が傾いてからだった。
息を切らして、両手を膝につく。
「四軒は、ついてたそうです」
「四軒」
「二軒は覚えてないって。でも、消したかどうかは覚えてないだけで、消えてたわけじゃないと」
朔は小さく顎を引いた。
「ご苦労だったな。座れ」
「いえ」
「座れ。息が上がってる」
与次は川縁の石に腰を下ろした。朔はその隣に立ったまま、川を見ている。
「蝋燭は関わりがない」
与次が、はっと朔を見上げた。
「ついてた家も、消えてた家も、同じように潰れてる。お前が寝てようが起きてようが、昨夜あれは来た」
与次は口を開けかけて、下を向いた。しばらくして、鼻をすする音。
朔は急かさなかった。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
「でも」
「一つ言っておくとな。お前が起きてたら、お前が見られてた。昨夜と同じようにな。それだけだ。蝋燭が消えてたから婆さんが連れていかれたんじゃない。順番が逆だ」
与次は袖で顔を拭いた。
「行くぞ。お前んちだ」
与次の家は宿場の中ほどにあった。土間にいた父親は、朔を見ると黙って奥へ通した。座敷には、まだ早桶がある。置いてあるというより、置いたままになっていた。片づける気になれなかったのだろう。
白い布が畳に広がっている。
「触るぞ」
父親に断ってから草履を脱ぎ、朔は早桶の前にしゃがんだ。
箍が三つとも外れている。側板は外向きに開き、底板の縁に沿って裂けていた。上から押し潰されたというより、上から何かを差し込まれて、内側から広げられたような開き方だ。
板の縁を指でなぞると、爪の痕があった。
四本。
板を回して、反対側を見る。同じ深さの痕が四本。それから底板の近くに、少し離れて一本。
「与次、来い」
与次が戸口から寄ってきた。
「猫の足の指は何本だ」
「……五本、ですか」
「前足は五本、後ろ足は四本だ。飼ったことは」
「ないです」
「まあ、普通は数えんな。これを見ろ。四本並んで、離れて一本」
「五本あるじゃないですか」
「そうだ。数は合ってる。だがこの一本、角度を見ろ。他の四本と向きが違う。物を掴むときは、親指は残りと向かい合う。これは向かい合ってない。ただ横に並べてあるだけだ」
与次が身を乗り出して、板を見た。
「……ほんとだ」
「それと、四本の間隔が揃いすぎてる。生き物の指は、真ん中の二本が長くて外が短い。掴めば痕の深さも変わる。これは全部同じ深さだ」
「じゃあ、猫じゃない」
「猫の形をしてるが、猫じゃない」
朔は立ち上がって、天井を見た。板に傷はなく、梁も無事だ。与次が開けたままの雨戸から、外の光が細く入っている。
「入ってきた跡がないな」
「はい」
「だが桶は開いてる」
雨戸のところへ行って、敷居を見る。積もった埃に、与次が這った跡が残っていた。それ以外に、何かが通った跡はない。
朔は目を閉じた。
瑛輝の残滓があった。座敷の中ほど、早桶の真上あたりに、薄く濁ったものが漂っている。宵士の体は自然とそれを拾うが、人間には何も見えないし、何も感じない。
濁り方が妙だった。
妖怪の瑛輝には芯があって、どこから出ているかが分かる。この座敷にあるのは、芯のない、ただ場所に張り付いた濁りだ。何かがここにいた痕ではなく、何かがここで起きた痕に近い。
朔は目を開けた。
「与次。この宿場で、死んだ者をどこへ捨ててた」
与次は目を逸らした。父親が土間でこちらを見ているのが、視界の端に入る。
「弔えなかった者だ。行き倒れ、身寄りのない者、金のない家の者。焼く薪も買えないなら、どこかへ持っていくしかない。責めてるんじゃない。どこの土地にもある」
「……谷です」
「どこの谷だ」
「川の下です。宿場の南の外れに、落ちてるところがあって」
「いつからだ」
「分かりません。おれが生まれる前からです。じいさんも、その前も」
朔は帽子を取って、掌で形を直した。
「案内してくれ。日が落ちる前に見ておきたい」
谷は宿場から半刻ほど下ったところにあった。
川が細くなるにつれ、両側の斜面が迫ってくる。木が茂って日が入らない。道は途中でなくなり、獣道になった。与次は慣れた足取りで下りていく。慣れているということ自体が、この土地の話だった。
下りきったところは、思っていたより広かった。
水の流れた跡はあるが、今は涸れている。ごろごろした石の隙間に、白いものが見えた。
しゃがんで、一つ拾う。
骨だった。指のものだと分かる。表面が風化していて、軽い。
見回せば、石と石の間にいくつも埋もれていた。一人や二人ではない。何十年か、あるいは何百年か、ここへ運び続けた結果がここにある。
朔は拾った骨を、元の場所へ戻した。
「獣は来るか」
「来ます」少し離れたところから、与次が答えた。「狐とか、狸とか。あとは野良の猫が」
「猫」
「多いです。宿場に居着いてる猫が、ここまで下りてくるんで」
「なるほどな」
朔は立ち上がった。
目を閉じる必要はない。ここは目を開けていても分かる。
谷全体が濁っていた。瑛輝が、水の底の泥のように溜まっている。動かず、流れず、ただ積もっていく。閉ざされた場所は瑛輝を溜めるものだが、ここは三方を斜面に囲まれ、風も通らない。
そして、ここで繰り返されてきた光景がある。
弔われないまま置かれた死者と、それを漁りに来る獣。
何十年、何百年。同じことが、同じ場所で。
谷の斜面を見上げると、空が細かった。
「与次」
「はい」
「話が長くなるが、聞くか」
与次は朔のほうへ向き直った。
「あれには目がなかったな」
「はい」
「目がなくても、お前のほうを向いた。これがまず妙だ。見えてるなら目が要る。見えてないなら向く必要がない」
「じゃあ」
「見えてるんじゃない。向く、という動きだけを知ってる」
朔は足元の石を見た。
「猫の指の数も間違えてた。数は五本にしたが、並べ方を知らん。顔も、目という部品が要ることを知らん。外から見ただけで、見えたとおりに真似たからだ」
「……何がですか」
「ここだ」
与次が谷を見回した。石と、その隙間の白いもの。
「妖怪ってのは、澱んだ瑛輝が形を成して生まれるものがいる。溜まりすぎた場所に、そこで起きてたことがそのまま形になる。ここでは、弔われない仏が置かれて、それを獣が漁ってた。何十年も、何百年も、同じことが繰り返されてきた」
「それが」
「その光景が、そっくりそのまま形になった。獣の姿をしてるのは、ここに来てた獣を真似たからだ。おそらく、いちばん多く来てたのが猫だったんだろう」
与次は口を開けたまま、動かなかった。
「あれは考えてない。腹も減らん。恨んでもいない。喰ってるわけでもないだろう。夜に死んだ者が、まだ弔われずに置かれてる。ここで起きてたことと同じ形が揃う。揃ったら、来る。それだけだ」
「……おれのばあちゃんは」
朔は少し黙った。
「悪いが、戻らん」
与次が下を向いた。
「代わりにならんが、一つ言っておく。あれはお前の婆さんを選んでない。お前の家を狙ったんでもない。誰が死んだかを見てない。そういうものだ」
「それって、慰めになりますか」
「ならんな」
朔は帽子を被り直した。
「だが、憎む相手を間違えずに済む」
与次は谷の底に立ち尽くしていたが、やがて小さく頷いた。
「止められるんですか」
「止める」
朔は谷を出るほうへ歩き出した。
「そういう仕事だ」
見上げた谷の空は細い。その細い空のどこかを、あれは今も歩いている。
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