046 第十六話 天守閣(一) 天守閣の男
一 対面
階段は長かった。
一段ごとに、脇腹の傷が開く。夜蛭を杖にして上った。刃が板を叩く音が狭い階段の中で跳ね返る。
上の階に出た。
また階段がある。
上った。
三つ目の階段の上に、明かりがあった。
行灯が一つだけ、灯っている。
天守閣の最上階だった。
四方に窓が切ってあって、そのうち南の一つだけが開いていた。夜風が入ってきて、行灯の火を揺らしている。窓の外に、浪都の町の灯が見えた。
部屋の真ん中に、男が座っていた。
金糸の羽織を着て、髪を結わずに肩に流している。脇息に肘をかけて、膝の上に書物を一冊、開いて置いていた。
鷺宮寿玄だった。
「ああ、来ましたね」
鷺宮は書物から顔を上げた。
二年前、広間の上段で朔を迎えた時と、同じ声だった。
「どうぞ。座布団は出してありませんが、どこでも」
朔は動かなかった。
階段の口に立ったまま、部屋を見回した。
誰もいない。
護衛も、侍女も、小姓もいない。刀掛けに刀が一振り掛かっていたが、鷺宮の手の届くところではなかった。
鷺宮の目が朔の脇腹と、肩と、腿の血を順に辿った。
「ずいぶん斬られましたね」
気の毒そうな声だった。
「奇蓮は、手加減をしない子でしたから」
でした、と言った。
朔はそれを聞き逃さなかった。
「知ってるのか」
「分かりますよ」
鷺宮は書物を閉じた。
「下の音が止んでから、君が上がってくるまでの時間で。あの子が勝っていたら、もう少し早く静かになっていましたし、上がってくる足音もしなかったでしょう」
鷺宮は階段の下のほうへ目をやった。
悲しんでいるようには見えない。惜しんでいるようにも見えない。書物の頁を一枚めくるのと、同じ目をしていた。
「座りませんか」
鷺宮は手で畳を示した。
「立っているのも、お辛いでしょう」
朔は夜蛭を構えた。
構えられなかった。
腕が上がりきらない。刃の先が畳の上で震えた。
鷺宮はそれを見て、少し笑った。
「今の君に斬られても、たぶん私は死にませんよ」
穏やかな声だった。
「刃は通るでしょうが、深くは入らない。そういう手でしょう、それは」
朔は刀を下ろした。
下ろしたのではない。持っていられなかった。
膝をついた。
階段の口で片膝をついたまま、鷺宮を見上げる。
鷺宮は脇息から肘を下ろした。
「では、お話をしましょうか」
鷺宮は膝の上で手を組んだ。
「君はそのために、ここまで来たのでしょうから」
二 計画
「何をしてた」
朔はそう訊いた。
「何を、ですか」
「人と妖怪を集めてた。瑛沢の坑でも、潮洲でも。浪都へ運んで、西へ送ってた」
朔は鷺宮から目を離さなかった。
「何をしてた」
「作っていました」
あっさりした答えだった。
「人と妖怪の、あいだにあるものを」
朔は動かなかった。
「武者溜まりで見たでしょう。六つ」
鷺宮は指を六本、折るように動かした。
「あれは、よくできた部類です。最初の頃のものは、瑛沢に置いてきてしまいましたけどね。君と、天羽の坊ちゃんが片づけてくれたと聞きました」
朔の指が夜蛭の柄を握った。
「……全部、知ってたのか」
「君が見て回ったところは、だいたい」
鷺宮は軽く頷いた。
「街道の町の三人も」
朔の指に、力が入った。
「あれは、片づけておかなければならなかったので」
鷺宮の口調は変わらない。
「荷に触れた人は、何かを覚えているかもしれない。それで十分でした」
鷺宮は少し首を傾げた。
「ついでに、あの盗賊の頭と君が潰し合ってくれれば、もっと片づくと思ったんですが」
鷺宮は小さく肩をすくめた。
「二人とも、賢かったですね」
朔は二年間を思い出していた。
松林の浪人。潮洲の集落。瑛沢の坑。街道の町。義寛の小屋。
一つずつ、足で見て回ったものだった。誰にも言わず、一人で繋いできたもの。
全部、この男の前を通っていた。
「どこから集めた」
「いろいろです」
鷺宮は指を折った。
「帳面に載っていない人たち。牢で死んだことにできる人たち。それから」
鷺宮は窓のほうへ顔を向けた。
窓の外に、浪都の灯が見えている。
「飢饉の年に、蔵を開けたでしょう。私が」
朔はそれを知っていた。
浪都の飯屋の女がそう言っていた。うちの人は、あの年、お城の炊き出しで生き延びたのだと。
「あの時、各地から人がたくさん集まってきました」
鷺宮は窓の外を見たまま続けた。
「浪都へ行けば食べられると、噂になったんです。私がそう流しましたから」
鷺宮は窓から目を戻した。
「集まった人の中から、身寄りのない人を選びました。帰る場所のない人。いなくなっても、誰も探さない人」
声は穏やかなままだった。
「炊き出しで生き延びた人も、たくさんいます。ほとんどはそうです。私は良い領主でしたから」
鷺宮は何かを思い出すように目を細めた。
「炊き出しの列でね。皆、私に手を合わせてくれました。椀を受け取って、ありがとうございます、ありがとうございますと」
鷺宮の目が遠くを見た。
「その列の中から、明日いなくなる人を選んでいました」
鷺宮は窓の外の灯を見た。
「選んだ人も、次の日の朝、また列に並ぶんです。何も知らずに、昨日と同じように頭を下げて、ありがとうございますと言う。その声を聞きながら、私が椀を渡す」
鷺宮の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「あれは、何度見ても、よかった」
朔は口を開いた。
声が出なかった。
「何のためだ」
ようやく、そう言った。
鷺宮は少し首を傾げる。
その問いには答えなかった。答えずに、別のことを口にした。
「奇蓮は、もともと大陸にいたものです」
鷺宮は階段のほうへ目をやった。
「窮奇と言います。天羽の坊ちゃんが調べたでしょう。書庫で。熱心に、名簿までめくって」
朔の指先から、血の気が引いた。
「知ってるのか」
「知っていますよ」
鷺宮は微笑んだ。
「あの子は、仕える相手を選ぶ。選んだら、何でもする。そういう性質です」
鷺宮は階段のほうを見た。
「私を選んでくれました。十六年前に」
その声に、わずかな温度があった。
「ただ、あのままでは連れて歩けません。気配が濃すぎる。だから、隠してもらいました」
「誰にだ」
「それは、もうすぐ分かりますよ」
鷺宮はそう言って、窓の外を見た。
北の方角だった。
「洛環のほうで」
朔は窓の外へ目をやった。
北の空は暗い。
洛環はここから十数里先にある。見えるはずがなかった。
「何が起きる」
「結界が落ちます」
今日の天気を言うような口調だった。
「夜明けに」
「落ちるわけがない」
朔は首を振った。
「あれは何百年ももってる。陰陽連が守ってきたんだ」
「陰陽連が、ですか」
鷺宮は少し笑った。
「陰陽連の繕いの記録を、少し拝見しました。八百年ぶん。繕っているのは、縁だけです。真ん中には、一度も手を入れていない」
鷺宮は膝の上の書物に手を置いた。
「真ん中は、ずっと満ちている。人の手では、ああはならない」
鷺宮は脇息に肘を預け直した。
「中心に、何かがいます。人ではない、大きなものが。八百年、自分を流し出して、あれを張っている。知っているのは、ほんの数人でしょうね」
「……記録を並べただけでか」
「並べただけです」
鷺宮は頷いた。
「誰にでもできることです。八百年、誰もやらなかっただけで」
鷺宮はそこで少し間を置いた。
「それにも、手を打ってあります」
朔の喉が鳴った。
「何をした」
「流れ出しているものなら、受け止める器を用意すればいい」
鷺宮は両の掌を、椀の形に合わせてみせた。
「器を一つ、用意しました。十年かけて」
それ以上は言わなかった。
代わりに、窓の外の北の空を見て、こう言った。
「気づいてしまったら、見てみたくなるでしょう。八百年、誰も触れなかったものが、落ちるところを」
朔は立ち上がろうとした。
膝が滑る。畳に手をついた。
「何のためだ」
朔はもう一度訊いた。
鷺宮はそれにも答えなかった。
「城が静かだったでしょう」
鷺宮は天井のほうへ目をやった。
「皆に暇を出しました。昨日のうちに。家老も、小姓も、台所の者も」
目が朔に戻ってくる。
「今夜は、君と私と奇蓮と、武者溜まりの六つだけでよかったので」
「俺が来るのを知ってた」
「来ると思っていました」
鷺宮は当たり前のことのように答えた。
「君は、来る人ですから」
「何のためにだ」
三度目だった。
鷺宮は書物の表紙を指でなぞった。
「それより、君はこれからどうするつもりですか」
鷺宮は窓の外へ目をやった。
「夜明けまで、あと三刻ほどです」
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