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宵士  作者: 酒蔵ツクル


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045 第十五話 浪都城(三) 二尺の一閃

六 梁(はり)


 虎がまた前足を上げた。

 朔(さく)は上を仰いだ。

 梁があった。

 縦横に組まれた、太い梁。その間を抜けて、柱が上へ伸びている。上の階を、天守閣を、支えている木組みだ。

 朔は跳んだ。

 真上へ。

 足元の空気を圧して蹴る。破裂音。体が浮く。

 梁に手がかかった。

 体を引き上げた。

 下で、虎の前足が空を切る。


 朔は梁の上に立った。

 見下ろした。

 虎がこちらを見上げている。

 金色の目が朔を捉えていた。

 虎が後ろ足で立ち上がった。

 前足が梁へ伸びる。

 届いた。

 朔の足元の梁に、爪がかかった。

 朔は隣の梁へ跳んだ。

 虎は梁に爪をかけたまま、体を引き上げようとした。

 引き上げられない。


 体が大きすぎた。梁の間は人一人が通れるほどしか空いていない。虎の肩が梁と梁の間に挟まった。

 虎が翼を広げようとした。

 広げられない。

 針の翼が梁に当たって止まった。

 虎が低く唸(うな)る。

 初めて、この女が声を出した。

 虎は前足で梁を叩こうとした。

 前足を振り上げる。

 振り下ろさなかった。


 振り上げたまま、止まっている。

 朔には分かった。

 この梁を叩き折れば、上が崩れる。上には天守閣がある。

 虎は、叩けなかった。

 朔はそれを見て確信した。

 律人(りつと)は正しい。こいつは窮奇(きゅうき)だ。悪意を持つ人間を選んで、付いている。

 そして、天守閣にいる人間を――鷺宮寿玄(さぎのみやじゅげん)を守るために、この梁を叩き折れなかった。


 朔は梁の上を走った。

 梁から梁へ跳ぶ。跳ぶたびに破裂音が鳴った。虎は音の方向を向いた。向いても、梁の間に挟まれて、首しか動かせない。

 読まれても、追ってこられなければ意味がない。

 朔は虎の真上へ出た。

 虎の首が真下にある。

 翼の付け根が肩のところで盛り上がっていた。

 朔は梁から落ちた。


 落ちながら、足元の空気を圧す。蹴らずに、自分を下へ押した。

 速く落ちた。

 一尺。

 夜蛭(よる)が翼の付け根に入った。

 深く入った。

 血を吸って重くなった刃が、硬い毛と皮を割って、肉まで届く。

 虎が咆えた。

 体を捩(よじ)る。朔は刀を抜いて、梁へ跳び戻った。


 虎の肩から、また黒いものが滲(にじ)んでいる。今度はすぐには止まらなかった。

 虎が梁から爪を外す。

 床に降りた。

 朔を見上げている。

 その体が、縮み始めた。

 翼が畳まれて、背中へ沈んでいく。背骨が縮み、顔が引っ込み、毛が消えていった。

 人の形に戻っていった。

 戻りきらない。


 胴と顔はあの整った女の形に戻った。髪は解けて、背中に落ちていた。裂けた衣装が肩に引っかかっている。

 だが、両腕が、虎のままだった。

 肘から先が太い前足。黄色と黒の縞の毛に覆われて、指の先に鉤爪(かぎづめ)が伸びている。

 両脚も、膝から下が虎だった。踵が浮いて、爪先で立っていた。

 奇蓮(きれん)が跳んだ。

 梁へ。


 人の大きさで、虎の脚で。

 朔の隣の梁に、音もなく降りた。

 速い。

 虎の時より、速かった。

 人の大きさなら、梁の間を抜けられる。虎の脚なら、梁から梁へ跳べる。虎の前足なら、朔の体を裂ける。

 奇蓮は、必要な部分だけを、残していた。

 朔は梁の上を後ずさった。

 奇蓮が近づいてくる。

 そして、止まった。


 朔から、一尺半のところで。

 朔は刀を振った。

 切っ先が奇蓮の胸の前を通った。

 奇蓮は避けない。

 一尺半だった。切っ先は届く。だが、力は乗らない。ただの鉄が胸の前を撫(な)でて通るだけだった。

 奇蓮の前足が来た。

 鉤爪が一尺半の距離から、朔の胸に届く。

 前足は朔の腕より長かった。


 朔は仰け反る。爪が着物を裂いて、胸に三本、赤い筋を引いた。

 朔は一歩詰めた。

 一尺に入ろうとする。

 奇蓮が一歩下がった。

 一尺半に戻った。

 朔が詰める。奇蓮が下がる。朔が下がる。奇蓮が詰める。

 どちらに動いても、一尺半だった。

 奇蓮はそこから動かない。


 朔の力が届かず、自分の爪が届く、その距離から。

 広間で、覚えさせた距離だった。

 朔が、自分で見せた距離だった。

 朔は梁の端に追い詰められている。

 背中が柱に当たる。

 これ以上、下がれない。

 奇蓮の前足が上がった。

 一尺半の距離から、朔の喉へ。

 朔は刀で受けようとした。

 間に合わなかった。



七 一発


 音がした。

 上の壁からだった。

 梁の高さに、連子窓(れんじまど)が切ってある。その格子の一本が弾けた。

 奇蓮の肩が弾けた。

 虎の毛に覆われた右の二の腕の付け根に、穴が開いている。

 奇蓮の前足が朔の喉の手前で止まった。

 三寸。

 奇蓮が窓を見た。

 首だけを動かして、窓のほうを向く。

 朔はその動きを知っていた。


 四年前、義寛(ぎかん)が五町先から見ていた時、この女は同じように首を向けた。正確に、見ている者の方角へ。

 今度も、正確に向いている。

 窓の外を。

 濠(ほり)の向こうの櫓(やぐら)の、屋根の上を。

 朔からは見えなかった。暗すぎる。遠すぎる。

 奇蓮には見えていたのかもしれない。

 だが、その目は、何も捉えていないようだった。


 櫓の屋根の上に、もう誰もいなかったからだ。

 撃って、すぐに動いていた。

 音が届く前に、もう場所を移している。

 奇蓮の目が窓の外を探していた。

 この女が何かを探すのを、朔は初めて見た。

 朔は柱を蹴って横へ跳んだ。

 隣の梁に移る。奇蓮の前足が届く範囲から、抜けた。


 奇蓮の顔は、まだ窓のほうを向いている。

 ゆっくりと、朔のほうに顔を戻す。

 肩の穴から、黒いものが漏れていた。

 煙に似ている。細く、途切れずに、流れ出している。

 朔は目を閉じなかった。

 閉じなくても、分かる。

 漏れていた。

 あの女の肩の穴から、瑛輝(えいてる)が漏れている。血のように、細く、途切れずに。


 瑛鉄(えいてつ)の弾が穿った穴は、塞がらなかった。虎の体がどれほど速く傷を塞いでも、その穴だけは、開いたまま。

 奇蓮の目がわずかに見開かれていた。

 朔は窓を見なかった。

 礼を言うつもりはない。

 言う相手がいなかった。いたとしても、言わなかっただろう。

 あの男は、朔を助けに来たのではない。


 奇蓮の意識が全部、朔に向いていた。だから撃てた。

 四年前、この女は五町先の義寛を見つけて、睨んだ。義寛は動けなくなって、山を下りた。

 今夜は違う。

 見つかる前に撃って、見つかる前に消えた。

 義寛にとってはそれで足りたのだろう。

 二発目は来なかった。



八 奥の手


 奇蓮が梁から降りた。

 板間に、音もなく立つ。

 朔も降りた。

 脚が言うことを聞かない。着地で膝が折れかけた。刀を床について、立つ。

 二人は板間の中ほどで向き合った。

 奇蓮の背に、階段がある。

 奇蓮の肩から、まだ瑛輝が漏れている。虎の前足がだらりと下がっていた。右はもう上がらないようだった。


 左は上がっている。

 鉤爪が、朔のほうを向いていた。

 朔は自分の中を数えた。

 瑛輝はほとんど残っていない。跳ぶのも、あと一度か、二度。圧すのは一度が限界だった。

 あと一度。

 朔は夜蛭に目を落とした。

 刃が黒ずんでいる。


 鉄の色ではなかった。血を吸った色だった。肩から、脇腹から、腿から、胸の三本の筋から、朔の体から流れたものを、刃はずっと吸い続けている。

 止めなかった。

 深沢(ふかさわ)の谷では、止めた。

 今夜は、一度も止めていない。

 刃が重かった。

 手の中で、脈を打っているようだった。

 これほど吸わせたのは、初めてだ。


 こいつが通すのは、吸ったものだけだ。

 千炉(せんろ)で、鋼次(こうじ)はそう言った。あの時は、鉄は通さないという意味にしか聞かなかった。

 鉄ではない。

 吸ったものに、乗せる。

 奇蓮が一歩前に出た。

 朔は一歩下がった。

 奇蓮が止まる。

 一尺半の距離だった。


 奇蓮はそこで止まる。朔の力が届かない、自分の爪が届く距離。広間で覚えて、梁の上で確かめた距離だった。

 朔はもう一歩下がった。

 二尺。

 奇蓮は動かない。

 二尺なら、朔の力は届かない。刀を振っても、切っ先が撫でて通るだけだ。

 奇蓮の爪は一歩踏み込めば届く。

 奇蓮が腰を落とした。

 踏み込む前の、一瞬。


 朔は刀を構えた。

 奥の手だった。

 櫛名(くしな)を討ってから、作りかけてきたもの。二年かけて、一度も三寸より先へ届いていない。

 一尺の力を、刃に沿って伸ばす。鍔(つば)元から切っ先まで、切っ先から先まで。一振りの間だけ、朔の間合いが、刀の長さを超える。

 届くとしても、一度きりだ。


 使えば、残っている瑛輝を全部持っていかれる。刃に吸わせた血も、たぶん全部。振り終えた後は立っていられるかも分からない。

 そして、意味を持つ相手は限られていた。

 朔の間合いを知らない相手なら、最初から一尺の外側にいる理由がない。近づいてくる。近づいてくれば、ただの一尺で足りる。


 朔の間合いを知っている相手にだけ、意味がある。

 一尺を知っていて、一尺の外に立つ相手にだけ。

 朔は、それを知っている相手を、今夜一人作った。

 奇蓮が、踏み込んだ。

 二尺の距離から。

 朔が、刀を振った。

 奇蓮は避けない。

 二尺だった。切っ先は撫でるだけだ。力は乗らない。この夜、何度もそうだった。


 奇蓮は、そう覚えている。

 朔が、そう覚えさせた。

 刃が、走る。

 鍔元から、刃の上を、何かが流れた。重さだった。朔の一尺にしか乗らなかったものが、刃の全部に乗っている。切っ先を越えて、その先まで伸びていた。

 吸わせた血が刃の上で燃えるように熱くなった。


 刃が熱くなるほど、体が冷えていく。指先から、足の先から、温もりが抜けて、刃のほうへ吸われていく。

 握っている柄の感触だけが、最後まで残っている。

 奇蓮の首の付け根を、刃が通った。

 二尺の距離から、通った。

 奇蓮の目が、見開かれる。

 避けなかった。避ける必要がないはずの距離。

 深く入った。


 奇蓮の体が揺れ、そのまま、後ろへ倒れた。

 階段の最初の段に、背中から。

 朔は、膝をついた。

 刀を握っていられない。夜蛭が手から落ちた。

 刃の黒ずみが消えていた。吸わせたものが、全部持っていかれている。

 朔は四つん這いのまま、奇蓮を見た。


 奇蓮は仰向けに倒れていた。首の傷から、黒いものが流れ出している。血ではない。瑛輝だった。

 朔の体中がそれを拾っていた。

 濃い。

 櫛名より濃い。朔が今まで触れたどの妖怪より、濃かった。

 これを、隣に置いていた。

 奇蓮の虎の前足が少しずつ縮んでいく。毛が消えて、人の腕に戻っていった。脚も戻っていった。


 最後に残ったのは、あの美しい顔。

 奇蓮の目が動いた。

 朔を見なかった。

 上を見ている。

 階段の、上を。

 暗がりの奥を、見つめている。

 それから、目が動かなくなった。

 朔はしばらくそこにいた。

 立てない。

 窓のほうを見た。

 梁の高さの連子窓に、格子が一本欠けている。

 外は暗かった。


 どこにも、人の気配はない。

 朔は夜蛭を拾った。

 軽い。

 刀を杖にして、立つ。

 勝った。

 勝ったと、思った。

 まだ間に合う、とも。

 城は静かだ。人の気配が薄い。それが何を意味するのかは、分からない。だが、上に鷺宮(さぎのみや)がいる。奇蓮が最後まで守ろうとしていた男が、上にいる。

 まだ、何も終わっていないなら。


 まだ、止められるなら。

 朔は奇蓮の体をまたいで、階段に足をかけた。

 脇腹が痛んだ。瑛輝は空だった。跳ぶことも、圧すこともできない。刀を振れるのはあと一度あるかどうか。

 それでも、上った。

 一段。

 二段。

 上は暗かった。

 その暗がりの先に、天守閣があった。

第十五話「浪都城」、完結です。

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