044 第十五話 浪都城(二) 簪の下
四 大広間
襖を開けると、広間だった。
二年前と同じ広間だ。
天井が高い。欄間の彫りが細かい。畳の縁が新しい。上段がある。
上段には誰もいなかった。
灯はない。朔の目には、暗がりの形が見える。
上段の手前に、女が立っていた。
大陸風の衣装。合わせが逆で、裾が長い。髪を高く結い、簪を挿している。八本。二年前と、同じ数。
奇蓮だった。
二年前、朔が平伏していた十を数えるほどの間に、音もなく上段の後ろに立っていた女だった。
今夜は、最初からそこにいる。
待っていた。
朔は目を閉じた。
何も感じない。
二年前と同じだった。三間先に立っている女から、濁りも芯も揺らぎも拾えない。人間と同じだった。
背中だけが、冷えていた。
二年前より、ひどく冷えている。
朔は目を開けた。
鯉口を切った。
奇蓮は動かない。
表情がない。作り物のように整った顔が、ただこちらを向いている。
朔は踏み込んだ。
三間を、一歩で半分詰める。そこから空気を圧して蹴り、残りの半分を跳んだ。
跳んだ先に、奇蓮はいなかった。
朔は畳に降りた。
奇蓮は元の位置から二間右に立っている。
動いたのが見えなかった。
衣擦れも、足音もなかった。
朔は振り向きざまに跳んだ。今度は低く、畳すれすれを這うように。
着地する前に、左肩が裂けた。
何かが通った。
見えない。刃物ではない。風に近い。空気そのものが刃の形になって走っていった。
朔は転がって距離を取った。
肩から血が出ている。浅い。だが、確かに斬られている。
夜蛭が柄を伝ってその血を吸い始めた。
朔は止めなかった。
深沢の谷では、掌を切って火車を誘い出している。あの時、刃が血を吸おうとするのを、手首を返して止めた。要らなかったからだ。
今夜は、止めない。
朔は柄を握り直した。
「俺の血は不味いと言っていたが」
刃に向かって、小さく言った。
「今は我慢してくれ」
夜蛭は黙って吸い続けた。
朔は幻術を使った。
街道の町の外れで、義寛と向き合った夜に初めて使ったもの。足元の空気を圧して、蹴らずに保ち、音だけを別の場所から鳴らす。
右で破裂音を鳴らして、左へ跳んだ。
奇蓮は、左にいた。
朔の跳んだ先に、最初から立っていた。
朔は空中で身を捩る。風の刃が脇を掠め、着物が裂けた。
降りて、転がる。
音は、効かなかった。
この女は音を聞いていない。義寛は音を聞いて撃った。櫛名は音を聞いて待った。この女は音より先に、朔が跳ぶ先を知っている。
跳べば、読まれる。
朔は跳ぶのをやめた。
畳の上を、歩いて詰めた。
奇蓮は動かない。朔が近づくのを、ただ待っている。
二間。
一間。
半間。
奇蓮の腕がわずかに上がる。
朔は刀を振った。
切っ先が奇蓮の袖を掠めた。
布が裂ける。
その下の腕には傷一つつかなかった。
当たっている。だが、切れていない。刃がただ撫でて通っただけだった。
刀を握れば、鍔元から先の一尺までが、朔の力の乗る場所だった。そこから先はただの鉄だ。人間やそこらの妖怪なら斬れる。だが、この女は、斬れなかった。
奇蓮の爪が来る。
朔は刀を引き戻しながら、左の掌を突き出した。
今度は、一尺の内側。
圧す。
奇蓮の体が畳を滑って二間下がった。
奇蓮が初めて自分の胸を見た。
衣装の胸に、掌の形の皺が残っている。
奇蓮が顔を上げた。
目が、朔の顔から手へ下りる。それから、刀の切っ先へ。
測っている、と朔は思った。
どこまでが危なく、どこからが危なくないか。
朔はそれを隠さなかった。
隠すどころか、もう一度見せた。
踏み込んで、わざと一尺半の距離で刀を振る。切っ先が奇蓮の頬の前を通った。奇蓮は避けなかった。当たっても切れないと、もう分かっている。
そこから一歩詰めて、掌を出した。奇蓮は今度は下がった。
一尺半なら、避けない。
一尺なら、下がる。
奇蓮は、覚えた。
朔は、それを確かめた。
五 正体
朔は広間を出た。
出ると決めてから実際に動くまでの一拍で、左の脇腹を斬られた。
構わない。
背後の襖を蹴破って、廊下へ転がり出た。
奇蓮が追ってきた。
音はしない。背中の冷えが近づいてくる。
廊下は狭い。幅は一間ほど。天井が低い。両側に襖と柱が並んでいる。
朔は角を曲がって、止まった。
振り返った。
奇蓮が角に立っている。
広間では、この女は三間の距離を一瞬で詰めて、一瞬で離れた。ここでは左右に動く場所がない。
来るなら、まっすぐ来るしかない。
風の刃が来た。
正面から。朔は柱の陰に入った。柱が削れる。欅の芯までは届かなかった。
朔は柱を蹴って、斜めに跳んだ。
地面ではない場所から跳ぶと、読まれ方が変わる。櫛名の胴を蹴った時と同じだった。
奇蓮の横へ出た。
一尺。
奇蓮が下がろうとした。背中が襖に当たる。下がれない。
朔は掌を奇蓮の腹に当てて圧した。
奇蓮の体が襖ごと隣の部屋へ吹き飛んだ。
朔は追って、部屋に入った。
奇蓮は畳に手をついて、起き上がりかけている。
朔は刀を振り下ろした。
一尺の内側。
夜蛭が奇蓮の左の二の腕に入った。
入った。
初めて、この女に刃が通ったのだ。
切り口から、黒いものが滲んだ。血ではない。煙に似ている。すぐに止まった。何かがそれを押さえ込んでいるように見える。
奇蓮が跳び退いた。
部屋の奥の襖を突き破って、向こうへ消える。
朔は追った。
襖を三枚抜ける。
その先で、広い場所に出た。
大きな板間だった。
天井が、ない。
正確には、天井板が張られていなかった。見上げると、太い梁が縦横に組まれていて、その上に屋根裏の闇がある。梁の間を、さらに上へ柱が抜けていた。
板間の奥に、太い階段があった。
上へ続いている。
その上に、天守閣がある。
奇蓮は階段の前に立っていた。
左の二の腕を、右手で押さえている。
その目が、朔に向いている。
その顔に、初めて何かが浮かんでいた。
表情ではない。
決めた、という顔だった。
奇蓮が右手を離した。
両腕を、下に垂らす。
それから、衣装が裂けた。
内側から裂けた。肩から背中へ、縫い目を無視して、布が割れていく。
割れた布の下から、毛が出てくる。
黄色と黒の、縞の毛だった。
背中が盛り上がった。盛り上がって、伸びていく。人の背骨ではありえない長さに伸びた。腕が太くなり、肘が逆に曲がり、指が縮んで、爪だけが残る。
顔が潰れるように前へ突き出した。
簪が、一本、床に落ちた。
朔の首筋がざわりとする。
二本目が落ちる。三本目が落ちる。
落ちるたびに、何かが板間に滲み出してくる。
八本目が、床を打った。
それは、一度に押し寄せてくる。
瑛輝だった。
二年前から、一度も感じなかったもの。
背中から、二枚、何かが広がった。
翼だった。
羽根ではない。一枚一枚が針のように硬く尖っている。それが扇のように開いて、板間の柱に触れた。
柱に、傷が走る。
虎だった。
翼のある、大きな虎。
頭の高さが朔の背丈を超えていた。尾を含めれば、板間の端から端まで届く。
そして、目が金色だった。
あの整いすぎた顔はどこにもない。
朔は目を閉じなかった。
閉じる必要がない。
目の前の虎から、瑛輝が溢れ出している。濃い。櫛名の谷より濃い。板間の空気そのものが、重く濁っている。
朔は床に散った簪を見た。
律人が十七の術を数えて、どれでもないと言っていた。
それが、ここにある。八本に分けて、一本残らず。誰かの手で。
髪から落ちた簪にはもう何も感じない。ただの、金と玉の飾りだった。
二年前から背中を冷やし続けてきたものの正体が、ようやく、目に見えた。
見えたところで、どうにもならない。背中の冷えは首筋から爪先まで広がっている。体中が逃げろと言っている。
虎が動いた。
速かった。
人の形の時より、速い。あの大きさで、そう動けるはずがなかった。
前足が振られる。
朔は受けなかった。受けられる大きさではない。床を蹴って横へ跳んだ。
跳んだ先に、翼が来た。
針の翼が横薙ぎに板間を払う。朔は刀で受けた。受けた刀ごと、体が飛んだ。
柱に叩きつけられた。
息が止まる。
視界が白くなった。
虎がもう目の前にいた。
前足が振り下ろされる。
朔は転がる。前足が朔のいた床板を叩き割った。
立ち上がった。
立ち上がった瞬間に、尾が来る。
腿を打たれた。骨が軋み、膝が落ちた。
虎は急がない。
櫛名と同じだった。
だが、櫛名は囲んで、こちらが弱るのを待った。
この虎は待つ必要すらない。
一尺に入れない。
人の形の時は、狭い場所に引き込めば入れた。今は違う。前足一本が朔の体より大きい。一尺に入る前に、前足が届く。前足をかわせば、翼が来る。翼をかわせば、尾が来る。
どこにも、一尺の内側がなかった。
朔は刀を杖にして立った。
脇腹と、肩と、腿から血が出ている。夜蛭がそれを吸っている。
止めなかった。
刃が、重くなってくる。
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