↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宵士  作者: 酒蔵ツクル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/48

044 第十五話 浪都城(二) 簪の下

四 大広間


 襖を開けると、広間だった。

 二年前と同じ広間だ。

 天井が高い。欄間(らんま)の彫りが細かい。畳の縁が新しい。上段がある。

 上段には誰もいなかった。

 灯はない。朔(さく)の目には、暗がりの形が見える。

 上段の手前に、女が立っていた。


 大陸風の衣装。合わせが逆で、裾が長い。髪を高く結い、簪(かんざし)を挿している。八本。二年前と、同じ数。

 奇蓮(きれん)だった。

 二年前、朔が平伏していた十を数えるほどの間に、音もなく上段の後ろに立っていた女だった。

 今夜は、最初からそこにいる。

 待っていた。

 朔は目を閉じた。

 何も感じない。


 二年前と同じだった。三間先に立っている女から、濁りも芯も揺らぎも拾えない。人間と同じだった。

 背中だけが、冷えていた。

 二年前より、ひどく冷えている。

 朔は目を開けた。

 鯉口(こいぐち)を切った。

 奇蓮は動かない。

 表情がない。作り物のように整った顔が、ただこちらを向いている。

 朔は踏み込んだ。


 三間を、一歩で半分詰める。そこから空気を圧して蹴り、残りの半分を跳んだ。

 跳んだ先に、奇蓮はいなかった。

 朔は畳に降りた。

 奇蓮は元の位置から二間右に立っている。

 動いたのが見えなかった。

 衣擦れ(きぬずれ)も、足音もなかった。

 朔は振り向きざまに跳んだ。今度は低く、畳すれすれを這うように。


 着地する前に、左肩が裂けた。

 何かが通った。

 見えない。刃物ではない。風に近い。空気そのものが刃の形になって走っていった。

 朔は転がって距離を取った。

 肩から血が出ている。浅い。だが、確かに斬られている。

 夜蛭(よる)が柄を伝ってその血を吸い始めた。

 朔は止めなかった。


 深沢(ふかさわ)の谷では、掌を切って火車(かしゃ)を誘い出している。あの時、刃が血を吸おうとするのを、手首を返して止めた。要らなかったからだ。

 今夜は、止めない。

 朔は柄を握り直した。


「俺の血は不味いと言っていたが」


 刃に向かって、小さく言った。


「今は我慢してくれ」


 夜蛭は黙って吸い続けた。

 朔は幻術を使った。

 街道の町の外れで、義寛(ぎかん)と向き合った夜に初めて使ったもの。足元の空気を圧して、蹴らずに保ち、音だけを別の場所から鳴らす。

 右で破裂音を鳴らして、左へ跳んだ。

 奇蓮は、左にいた。

 朔の跳んだ先に、最初から立っていた。


 朔は空中で身を捩(よじ)る。風の刃が脇を掠(かす)め、着物が裂けた。

 降りて、転がる。

 音は、効かなかった。

 この女は音を聞いていない。義寛は音を聞いて撃った。櫛名(くしな)は音を聞いて待った。この女は音より先に、朔が跳ぶ先を知っている。

 跳べば、読まれる。

 朔は跳ぶのをやめた。

 畳の上を、歩いて詰めた。


 奇蓮は動かない。朔が近づくのを、ただ待っている。

 二間。

 一間。

 半間。

 奇蓮の腕がわずかに上がる。

 朔は刀を振った。

 切っ先が奇蓮の袖を掠めた。

 布が裂ける。

 その下の腕には傷一つつかなかった。

 当たっている。だが、切れていない。刃がただ撫(な)でて通っただけだった。


 刀を握れば、鍔(つば)元から先の一尺までが、朔の力の乗る場所だった。そこから先はただの鉄だ。人間やそこらの妖怪なら斬れる。だが、この女は、斬れなかった。

 奇蓮の爪が来る。

 朔は刀を引き戻しながら、左の掌を突き出した。

 今度は、一尺の内側。

 圧す。

 奇蓮の体が畳を滑って二間下がった。


 奇蓮が初めて自分の胸を見た。

 衣装の胸に、掌の形の皺が残っている。

 奇蓮が顔を上げた。

 目が、朔の顔から手へ下りる。それから、刀の切っ先へ。

 測っている、と朔は思った。

 どこまでが危なく、どこからが危なくないか。

 朔はそれを隠さなかった。

 隠すどころか、もう一度見せた。


 踏み込んで、わざと一尺半の距離で刀を振る。切っ先が奇蓮の頬の前を通った。奇蓮は避けなかった。当たっても切れないと、もう分かっている。

 そこから一歩詰めて、掌を出した。奇蓮は今度は下がった。

 一尺半なら、避けない。

 一尺なら、下がる。

 奇蓮は、覚えた。

 朔は、それを確かめた。



五 正体


 朔は広間を出た。

 出ると決めてから実際に動くまでの一拍で、左の脇腹を斬られた。

 構わない。

 背後の襖を蹴破って、廊下へ転がり出た。

 奇蓮が追ってきた。

 音はしない。背中の冷えが近づいてくる。

 廊下は狭い。幅は一間ほど。天井が低い。両側に襖と柱が並んでいる。

 朔は角を曲がって、止まった。


 振り返った。

 奇蓮が角に立っている。

 広間では、この女は三間の距離を一瞬で詰めて、一瞬で離れた。ここでは左右に動く場所がない。

 来るなら、まっすぐ来るしかない。

 風の刃が来た。

 正面から。朔は柱の陰に入った。柱が削れる。欅の芯までは届かなかった。

 朔は柱を蹴って、斜めに跳んだ。


 地面ではない場所から跳ぶと、読まれ方が変わる。櫛名の胴を蹴った時と同じだった。

 奇蓮の横へ出た。

 一尺。

 奇蓮が下がろうとした。背中が襖に当たる。下がれない。

 朔は掌を奇蓮の腹に当てて圧した。

 奇蓮の体が襖ごと隣の部屋へ吹き飛んだ。

 朔は追って、部屋に入った。


 奇蓮は畳に手をついて、起き上がりかけている。

 朔は刀を振り下ろした。

 一尺の内側。

 夜蛭が奇蓮の左の二の腕に入った。

 入った。

 初めて、この女に刃が通ったのだ。

 切り口から、黒いものが滲(にじ)んだ。血ではない。煙に似ている。すぐに止まった。何かがそれを押さえ込んでいるように見える。

 奇蓮が跳び退いた。


 部屋の奥の襖を突き破って、向こうへ消える。

 朔は追った。

 襖を三枚抜ける。

 その先で、広い場所に出た。

 大きな板間だった。

 天井が、ない。

 正確には、天井板が張られていなかった。見上げると、太い梁(はり)が縦横に組まれていて、その上に屋根裏の闇がある。梁の間を、さらに上へ柱が抜けていた。


 板間の奥に、太い階段があった。

 上へ続いている。

 その上に、天守閣がある。

 奇蓮は階段の前に立っていた。

 左の二の腕を、右手で押さえている。

 その目が、朔に向いている。

 その顔に、初めて何かが浮かんでいた。

 表情ではない。

 決めた、という顔だった。

 奇蓮が右手を離した。

 両腕を、下に垂らす。


 それから、衣装が裂けた。

 内側から裂けた。肩から背中へ、縫い目を無視して、布が割れていく。

 割れた布の下から、毛が出てくる。

 黄色と黒の、縞の毛だった。

 背中が盛り上がった。盛り上がって、伸びていく。人の背骨ではありえない長さに伸びた。腕が太くなり、肘が逆に曲がり、指が縮んで、爪だけが残る。


 顔が潰れるように前へ突き出した。

 簪が、一本、床に落ちた。

 朔の首筋がざわりとする。

 二本目が落ちる。三本目が落ちる。

 落ちるたびに、何かが板間に滲み出してくる。

 八本目が、床を打った。

 それは、一度に押し寄せてくる。

 瑛輝(えいてる)だった。

 二年前から、一度も感じなかったもの。


 背中から、二枚、何かが広がった。

 翼だった。

 羽根ではない。一枚一枚が針のように硬く尖っている。それが扇のように開いて、板間の柱に触れた。

 柱に、傷が走る。

 虎だった。

 翼のある、大きな虎。

 頭の高さが朔の背丈を超えていた。尾を含めれば、板間の端から端まで届く。

 そして、目が金色だった。


 あの整いすぎた顔はどこにもない。

 朔は目を閉じなかった。

 閉じる必要がない。

 目の前の虎から、瑛輝が溢れ出している。濃い。櫛名の谷より濃い。板間の空気そのものが、重く濁っている。

 朔は床に散った簪を見た。

 律人(りつと)が十七の術を数えて、どれでもないと言っていた。


 それが、ここにある。八本に分けて、一本残らず。誰かの手で。

 髪から落ちた簪にはもう何も感じない。ただの、金と玉の飾りだった。

 二年前から背中を冷やし続けてきたものの正体が、ようやく、目に見えた。

 見えたところで、どうにもならない。背中の冷えは首筋から爪先まで広がっている。体中が逃げろと言っている。


 虎が動いた。

 速かった。

 人の形の時より、速い。あの大きさで、そう動けるはずがなかった。

 前足が振られる。

 朔は受けなかった。受けられる大きさではない。床を蹴って横へ跳んだ。

 跳んだ先に、翼が来た。

 針の翼が横薙ぎに板間を払う。朔は刀で受けた。受けた刀ごと、体が飛んだ。

 柱に叩きつけられた。


 息が止まる。

 視界が白くなった。

 虎がもう目の前にいた。

 前足が振り下ろされる。

 朔は転がる。前足が朔のいた床板を叩き割った。

 立ち上がった。

 立ち上がった瞬間に、尾が来る。

 腿を打たれた。骨が軋(きし)み、膝が落ちた。

 虎は急がない。

 櫛名と同じだった。

 だが、櫛名は囲んで、こちらが弱るのを待った。


 この虎は待つ必要すらない。

 一尺に入れない。

 人の形の時は、狭い場所に引き込めば入れた。今は違う。前足一本が朔の体より大きい。一尺に入る前に、前足が届く。前足をかわせば、翼が来る。翼をかわせば、尾が来る。

 どこにも、一尺の内側がなかった。

 朔は刀を杖にして立った。


 脇腹と、肩と、腿から血が出ている。夜蛭がそれを吸っている。

 止めなかった。

 刃が、重くなってくる。

最後まで読んでいただきありがとうございます。ブックマークでの応援、お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。