047 第十六話 天守閣(二) 何のためだ
三 先回り
朔は考えた。
止める手を、探す。
口を開いた。
「お前が命じれば」
「止まりません」
朔が言い終える前に、鷺宮が答えた。
「止める手順は、作っていません。私が何を言っても、もう動いています。始めたのは十年前ですから」
朔は口を閉じた。
別の手を探した。
「なら、洛環に――」
「報せますか」
鷺宮は首を傾げた。
「今から走って、夜明けまでに洛環に着きますか。君の足なら、着くかもしれません。着いて、誰に何を言いますか。陰陽連ですか。皇主ですか」
鷺宮の目が朔を見据えた。
「誰が、何を止めればいいのかを、君は知らないでしょう」
朔は答えられなかった。
「私が教えなければ、知りようがない」
鷺宮は小さく笑った。
「そして、私は教えません」
朔は夜蛭を握った。
「なら、吐かせる」
「どうやって」
鷺宮は少し笑った。
「拷問ですか。構いませんよ」
鷺宮は脇息に凭れた。
「ただ、時間が足りないと思います」
朔は鷺宮の顔を見た。
行灯の明かりで見ても、顔色が少し悪い。
「何を服んだ」
「毒です」
鷺宮は何でもないことのように答えた。
「君が奇蓮を倒すまでに、どれくらいかかるかを見て、服みました。君が階段を上がってくる音がした頃に」
鷺宮は自分の胸のあたりに手を当てた。
「あと四半刻くらいでしょうか」
朔は立ち上がった。
膝が笑う。それでも立った。
鷺宮に向かって、歩く。
三歩で、目の前に来た。
朔は鷺宮の襟を掴んだ。
金糸の羽織が朔の手の中で皺になった。
「吐け」
朔の声が低く掠れた。
「毒を吐け」
「胃には、もう残っていません」
鷺宮は襟を掴まれたまま答えた。
「遅く効く毒を選びました。吐かせても、体に回ったものは戻りません」
「解毒は」
「手がない毒を選びました」
「医者は」
「城にはいません。暇を出しました」
朔は鷺宮を揺さぶった。
鷺宮の頭が前後に揺れる。髪が乱れた。
鷺宮は何も抵抗しなかった。
「何を作った」
朔は襟を掴んだまま、顔を寄せた。
「何が起きる。結界が落ちて、どうなる。誰がやってる。どこでだ」
揺さぶられながら、鷺宮は朔を見ていた。
静かな目だった。
「言え」
朔の手に、力がこもった。
「言え!」
朔は鷺宮の顎を掴んだ。
口をこじ開けようとした。何が出てくるわけでもないのに、こじ開けようとした。
鷺宮はされるがままになっている。
朔の手が震えていた。
自分でも、何をしているのか分からない。
二十年やってきて、こんなふうに人の襟を掴んだことはなかった。相手が何であれ、斬るか、斬らないかで済ませてきた。
斬っても、意味がない。
斬らなくても、意味がない。
どちらを選んでも、夜明けに結界は落ちる。
朔は鷺宮の顎から手を離した。
襟も離した。
鷺宮は脇息に凭れ直して、乱れた髪を指で耳にかける。
「落ち着きましたか」
気遣うような声だった。
朔は畳に座り込んだ。
夜蛭が、膝の横に転がった。
四 吐血
どちらも、口をきかなかった。
窓から夜風が入ってきて、行灯の火が揺れる。
鷺宮が書物を膝から下ろした。
咳をする。
一度だけだった。
口元に当てた袖に、赤いものがついた。
鷺宮はそれに目を落とす。
落としただけで、袖を膝の上に下ろした。拭わなかった。口の端に、赤いものが残っている。
何事もなかったように続ける。
「櫛名の時は、よく働いてくれましたね」
朔は顔を上げた。
「神通力の使い手だと流したのは、私です。君は、それを知っていますね」
「知ってる」
「櫛名が距離を取っていたら、君の間合いには入れなかった。君には、どうしても勝ってもらう必要がありました」
「なぜだ」
「櫛名を討てと上様に申し上げたのは、私ですから」
鷺宮の目が少し細くなった。
「七体の一角を落とす。その的を選んだのが私で、討ったのが幕府の遣わした宵士だった。そうなれば、私の見立ては当たる、ということになります」
鷺宮は袖の血には目もくれずに続けた。
「陰陽連の中に、どうしても私を信じていただかなければならない方がいました。十年かけて近づいて、あと少しのところで、決め手がなかった」
鷺宮の指が書物の表紙を軽く叩いた。
「櫛名の首が、その決め手になりました」
朔は鷺宮から目を離せなかった。
「俺が負けていたら」
「その時は、別の手を考えました」
あっさりした答えだった。
「君が勝つほうが、話が早かった。それだけです」
鷺宮は少し首を傾げた。
「もっとも、その後の君には、少し嗅ぎ回られすぎましたけどね。街道の町でああしたのも、君の宿に二人やったのも、そのためです」
鷺宮はまた咳をした。
今度は、袖で口を押さえなかった。
血が羽織の胸に落ちる。金糸の上に、黒く染みていく。
鷺宮はそれも見なかった。
朔はその顔を見ていた。
苦しそうではない。
眉一つ寄せていない。額に汗も浮いていない。血を吐いたのに、吐いたことに何の関心も払っていない。
体が壊れていくのを、見てもいなかった。
朔は、そこで分かった。
この男は、自分の命を惜しんでいない。
惜しんでいないから、毒を服めた。服めたから、止める手が一つ残らず消えた。生かして吐かせる手も、脅して止めさせる手も、命と引き換えにする取引も、何もかも。
命を惜しむ者が相手なら、手はいくらでもある。
この男には、最初から、一つもなかった。
だから、止められなかった。
二年前、あの広間で背中が冷えた時から、ずっと。
「何のためだ」
朔はまた訊いた。
四度目だった。
鷺宮は窓の外から目を戻して、朔を見る。
少し笑った。
「君は、そればかり訊きますね」
「答えろ」
「理由がないと、困りますか」
鷺宮は、本当に不思議そうな顔をしていた。
朔は、答えられなかった。
問いの意味が分からない。
人を集めて、選んで、作って、何百年もった結界に手をかけて、十年かけて、最後に毒まで服んだ男だ。理由がないはずがなかった。
はぐらかしているのだと、朔は思った。
鷺宮はまた窓の外を見る。
北の空を。
「もうすぐですね」
独り言のような声だった。
五 問い
鷺宮の息が浅くなっていた。
脇息に凭れた体が少しずつ傾いていく。
手を伸ばせば届く距離だった。
一尺の内側。
何もできなかった。
鷺宮が朔のほうへ顔を向けた。
口の端の血が乾きかけている。
目が朔を見ている。
笑っている。
初めて会った時と、同じ笑い方だった。悪気のない、人の好い笑い方だった。
「朔くん」
名を呼ばれたのは、初めてだった。
「君に会えてよかった。満足だ」
朔は口を開いた。
「お前は、何が――」
そこまでだった。
鷺宮の目は、もう朔を見ていなかった。
笑ったまま、どこも見ていない。
体が脇息から滑って、畳に横になった。
金糸の羽織が行灯の明かりを受けて光っている。
朔はそのまま動かなかった。
問いの続きが口の中に残っていた。
何が、欲しかったのか。
何が、足りなかったのか。
何が、そうさせたのか。
どれを訊こうとしたのか、朔自身にも分からない。どれを訊いても、同じだったような気もした。
訊けなかった。
だから、分からない。
朔は、そう思った。
訊けていれば、何か答えがあったはずだ。この男にも、何かがあったはずだ。人を集めて、作って、飢えた者を選んで、十年かけて、毒を服んで、それで満足したと言って死んだ男に、何もなかったはずがない。
朔は、そう思おうとした。
行灯の火が揺れる。
鷺宮の顔は笑ったままだった。
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