037 第十二話 決別(三) 小さな牛頭鬼
五 術式
律人は三日、作業場の隅に籠った。
鋼次は何も言わず、場所を貸して、飯の時に呼びに来るだけだった。
朔は町を歩く。
昔、何年もここに通ったことがある。桃に連れられて初めて来たのは十二の時で、桃の刀の研ぎについてきただけだった。十八で成人の儀を済ませて、初太刀を打ってもらったのも、この炉だった。七年前、蛭の牙を抱えて来たのも。
その時の炉は、まだ同じ場所にある。
三日目の夕方、律人が作業場から出てきた。
朔は縁側にいた。
「朔」
「できたか」
「分からない」
律人は首を振った。
「組めた。だが、出るかどうかは分からない」
律人の目の下に、くまができていた。
「試すのか」
「今からやる」
「外でやれ」
「そうする」
三人は作業場の外に出た。
鋼次も出てきて、腕を組んで、少し離れたところに立つ。
律人は懐から包みを出した。
開いて、牙を一本つまみ上げる。
牛頭鬼の牙だった。
「これでやる」
律人の声は、少し掠れている。
律人は牙を左手に握った。右手に札を持っている。札には、見たことのない字が書かれていた。
律人は目を閉じた。
そのまま、動かない。
やがて、律人の指が動いた。
札を離した。
札は燃えない。
落ちた。
「……駄目か」
律人は落ちた札を拾った。
「もう一回」
二度目も駄目だった。
三度目も。
四度目で、札が燃えた。
だが、何も出ない。
燃えた場所に、影が立ちかけて、そのまま消えた。
「惜しい」
律人は唇を噛んだ。
「読めてる。性質は読めてる。でも、それを形にする部分が」
律人は牙を握り直した。
「型が合ってない。牛頭鬼の型に押し込もうとしてるから駄目なんだ。一部しか読んでないのに、全部の型を使ってる」
律人は札に手を加えた。
五度目。
燃えた。
影が立つ。
立って、そのまま形になった。
牛の頭をした、人の形のものだった。
だが、小さい。
背丈は六尺ほど。牛頭鬼は九尺あった。それより三尺低い。肩幅も細い。腕は太いが、丸太というほどではない。
角は前へ向いて反っていた。
毛皮は白くない。焦茶だった。色が抜けていない。
紋様もない。
そして、目があった。
黒い目だった。光がある。牛の目だった。
それは、立っている。
誰も、口を開かない。
「……出た」
律人の声が掠れていた。
「出た」
律人は一歩近づいた。
それは動かない。
律人は右手を上げた。
「腕を上げてくれ」
それが右腕を上げた。
律人は息を吐いた。
「動く」
律人の声が震えた。
「動く。ちゃんと動く」
律人はその場にしゃがみこんだ。
顔を両手で覆った。
声は出さない。肩も震えなかった。ただ、長いことそうしていた。
牛頭鬼より小さい。細い。腕の太さも、肩の厚みも足りない。あれが斜面を駆け上がって三匹薙いだ力は、これにはないだろう。
だが、目があった。
黒い目が、律人のほうを見ている。
命令を待っている目だった。
それは、牛頭鬼の目と同じだった。
ただ、光がある。
鋼次が、腕を組んだまま口を開いた。
「それは、何だ」
律人が顔を上げた。
「……分かりません」
律人は顔から手を離した。
「牛頭鬼ではありません。牛頭鬼の一部だけです。牙に残っていた性質を読んで、それを形にしました」
「本体は」
「要りません」
律人は手の中の牙を見た。
「もう死んでいますから」
しばらくして、鋼次が頷く。
律人は立ち上がって、式神に向き直った。
「戻ってくれ」
それが影になって消えた。
律人は牙を拾う。
牙は、燃えていなかった。減ってもいない。
「消えない」
律人は牙を握りしめた。
「素材は消えない。何度でも組める」
朔は、律人の手の中の牙に目をやった。
律人が手にしているのは、律人が自分の手で葬った牛頭鬼の牙だ。
葬った五体の一部を、律人は戒めとして持ち歩いていた。忘れないために持っていた。
その五つが、新しい術の材料になっている。
朔はそれを言わなかった。
律人は気づいていないようだった。
気づけば、律人は苦しむだろう。二度使ったと思うだろう。
そう思う必要はない。
あれは、律人が一人で決めて、一人でやって、一人で辿り着いたものだった。
六 波及
翌朝、二人は千炉を発った。
鋼次は作業場の前に立っている。見送りに出たのではなく、仕事を始めるところだった。
「世話になった」
朔がそう言うと、鋼次は頷いた。
「またな」
「ああ」
律人が深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「わしは何もしとらん」
鋼次は手を振った。
「鍛冶の話をしただけだ」
「それが」
「刀を打つ時は来い」
鋼次はそう言って、作業場へ入っていった。
それきりだった。
道中、律人はよく喋る。
「性能を測らないといけない」
律人は歩きながら指を折った。
「牛頭鬼のは組めた。あと四つ、鎌鼬と蛟と、雷獣と以津真天のぶんがある。全部組んでみる」
「強さは」
「旧来の使い魔よりは弱い」
律人は即答した。
「はっきり弱い。牛頭鬼の三割か、四割だと思う。一部しか読んでないから当然だ」
「通常の式神よりは」
「強い」
律人の声が弾んだ。
「比べものにならない。素材にした妖怪の性質が一部使える。狐火を出す妖怪の牙なら、狐火が出せるかもしれない」
律人はもう一本、指を折った。
「それに、格納がいらない」
「どういうことだ」
「使い魔は、本体を格納空間に入れておく。生きたまま入れるから、場所を取る。だから常時五体か、六体が限度だった」
律人は懐を軽く叩いた。
「新しいのは、本体がいない。牙を持ち歩くだけだ。牙は懐に入る」
「何体出せる」
「分からない」
律人は首を傾げた。
「素材の数だけだと思う。素材は増やせる。討った妖怪の牙をもらえばいい」
朔は歩きながら聞いていた。
「討った妖怪の牙は、妖物商が買う」
「買うね」
「それを、こっちで使うことになる」
「そうなる」
律人は少し肩をすくめた。
「妖物商には悪いけど」
律人は少し笑った。
朔は言った。
「恨まれたら、俺も一緒に頭を下げてやる。下げるのは、お前のほうが上手いがな」
「それは褒めてるのか」
「半分な」
朔は、その横顔を見た。
この男は、前を向いている。
瑛沢の坑を出た峠で、律人は「僕はどうすればよかったんだ」と訊いた。あの時、朔は答えていない。
律人は自分で答えを出した。
出した答えが正しいかどうかは、朔には分からない。だが、律人はもう訊かないだろう。
「陰陽連には、なんと言う」
朔が訊くと、律人は少し考えた。
「そのまま言う」
「隠さんのか」
「隠す理由がない」
律人は道の先を見た。
「妖怪を捕らえなくてよくなりました。死んだ個体の一部で足ります、と」
「斎宮は」
「黙るだろうね」
律人の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「あの家が言ってきたのは、生きた妖怪を型に押し込むのが道理に外れてるということだった。押し込まなくなったなら、言う理由がない」
「天羽は」
「喜ぶ」
律人は即座に答えた。
「たぶん、手柄にされる。天羽の者が廃れた古術を蘇らせた、という話になる」
「なるのか」
律人はあっさり頷いた。
「そういう家だから」
朔は横を見た。
律人は前を向いていた。
「それでいいのか」
「よくはない」
律人は首を振った。
「でも、前とは違う」
律人は道の先を見た。
「前は、駒でいるあいだは行きたいところに行ける、と思ってた。使われてる甲斐がある、と」
「言ってたな」
「今は、そう思わない」
律人の足取りは、変わらなかった。
「使われるのは変わらない。家がある以上、それは付いて回る。でも、僕は僕の術の話を、自分の口でできる」
律人は一度、言葉を切った。
「前は、できなかったんだ」
律人は道の先に目をやった。
「反論はしてた。数の話をすれば僕のほうが正しい、と。何度も言った」
律人は苦笑した。
「でも、あれは言い返してただけだ。自分の術がいいものだとは、一度も言えなかった」
律人は歩きながら、懐に手を当てた。
「今は言える」
朔は前を向いた。
街道の先に、山が見えている。その向こうが蔵都だった。
朔は歩きながら、言うべきことを考えていた。
鷺宮のことと、奇蓮のことと、四つの糸のこと。
この男は、一人で決めて、一人でやり遂げた。
巻き込む資格が自分にあるかどうかは、まだ分からない。
ただ、認めた相手に何も渡さないというのは、それはそれで筋が通らない気がする。
朔は口を開かなかった。
まだ、開かなかった。
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