034 幕間・壱 百年を数える
夢を見ていた。
夢だと分かっていた。そういう見方をするようになって久しい。目の前で起きていることを、起きているとは思わずに見ている。
男がいた。
葛城玄明といった。
何かを喋っている。
言葉は聞こえている。音として聞こえていて、意味にならない。夢の中の言葉はいつもそうだった。あれほど繰り返し聞いた声なのに、何を言っているのかだけが分からない。
男は笑っていた。
笑っている時の形は覚えている。目の端が下がって、口の左側だけが先に開く。片方だけ先に動く笑い方をする男だった。
何がそれほど面白かったのかは、思い出せない。
その笑い方を見たのが、いつ、どこでだったのかも分からない。
夢の中では、時も場所も要らない。男が笑っていて、何かを喋っている。それだけがある。
この夢は、初めてではなかった。
何度目かは数えていない。数えられるものは数えるようにしているが、これだけは数えなかった。数えると、間隔が分かってしまう。間隔が分かれば、次がいつかを待つようになる。
待つのは、よくないと思っていた。
昔は、もっと多くのものが夢に出てきたものだ。
男の他にも人がいた。喋っている内容も分かった。目が覚めた後、何を話したかを覚えていたこともある。あの頃は、夢というより、ただ昔を見ているのに近かった。
少しずつ減った。
人が減り、言葉が減り、場所が消えていく。
最後まで残ったのが、この笑い方だった。
男が手を上げた。
何かを指している。
指した先に何があるのかは、見えない。以前は見えていたのかもしれない。今は、指している動きだけがある。
男が振り返って、こちらを見た。
口が動く。
音が遠のいた。
夢が薄くなっていく。夢のほうが先に遠ざかり、こちらが取り残される。いつもそうだった。
何か言ったはずだった。
最後に。
聞こえていたはずだ。
あの時は、聞こえていた。意味も分かっていたし、返事もした。何と返したかも、覚えていた時期がある。
夢の輪郭が崩れて、男の姿が薄れていく。
言葉より先に、別のものが戻ってきた。
彼が死んだ時に走った痛みが、今もある。鋭く、そして長い。自分から何か大切なものが剥がれ落ちていくような。
それは、思い出したのではない。
思い出すなら、記憶の形をしている。記憶なら薄れる。実際、他のものは全部薄れた。
これは違う。
今、そこにある。八百年前に始まって、一度も終わっていない。
夢を見た後は、それが濃くなる。
濃くなるだけで、増えも減りもしない。
男の姿は、もう見えなかった。
*
覚めた。
あるいは、覚めていなかったのかもしれない。
どちらだったのかを確かめる術がない。夢の中でも、外でも、見えているものが同じだ。暗い。音がない。動くものがない。
そういう場所に、長くいる。
覚めたと決めたので、覚めたことにした。
流れている。
絶えず、流れている。
内から外へ、途切れることなく。栓を抜いた桶ではない。桶なら、いつか空になる。これは空にならない。空にならないが、減り続けている。
その感覚だけは、夢の中でも消えなかった。
夢を見ているあいだも、流れている。眠っているあいだも、流れている。八百年、一度も止まったことがない。
止め方は知っている。
難しいことではない。ただ、そうしないと決めているだけのことで、そうしようと思えば、今この瞬間にでも止まる。
流れが止まれば、減らなくなる。
減らなくなれば、減ったぶんも、いずれ戻るのかもしれない。試したことがないので分からない。試す気もない。
止めないだけだった。
この流れがどこへ行っているのかは、見えない。
こちらから外へ出ていって、外で何かになっている。そこまでは分かる。何になっているかは、こちらからは見えない。
外のほうで、何かが微かに動いた。
気にしなかった。人が動いているのだろう。あちらは昼で、こちらは昼も夜もない。
人は動く。動いて、少しすると動かなくなる。動かなくなった者の代わりに、また別の者が動く。
そういうものを、長く見ている。
顔を覚えたことは、ほとんどない。
覚えても、すぐにいなくなるからだ。
一度だけ、覚えたことがある。
覚えてしまった、というほうが近い。覚えるつもりがあったわけではない。ただ、長くそこにいたので、覚えてしまった。
長くといっても、こちらから見れば短かった。
*
数えた。
八百十三年と、四月と、十九日。
それだけ経っていた。
数え終えてから、数える必要がないことを思った。
数えても何も変わらない。八百十三年でも八百十四年でも、やることは同じだ。明日も同じことをする。百年後も同じことをする。
年という区切りは、人間の作ったものだ。
自分には要らないものだった。生まれた時から、そういう数え方を持っていない。日が昇って沈むことも、それが繰り返されることも、知ってはいた。だが、それを数えて何かに使うという発想がなかった。
同じことが続く限り、数えるものがない。
教えられた。
男が、指を折って見せた。
一つ、二つ、三つ。十まで数えて、それを十回で百になると言った。
そんなものを覚えてどうすると思った。
実際、そう言ってやったのだ。
男は、あなたが覚えておけば、わたしが死んだ後も日が分かると言った。
冗談のつもりだったのだろう。あの笑い方をしていた。
覚えた。
覚えたものは、消えない。
言葉は薄れた。声も、輪郭を失った。何を話したかも、どこで話したかも、ほとんど残っていない。
数え方だけが、そのまま残っている。
八百十三年と、四月と、十九日。
一度も間違えていないはずだ。
確かめる術はない。数えているのは自分だけで、答え合わせをしてくれる者がいない。だが、間違えていないと分かる。一日ごとに一つ増やすだけのことで、間違えようがない。
誰にも言わない。言う相手がいない。
それでも数える。
日が変われば、数が一つ増える。増えた数を、頭の中で置き直す。それだけのことを、八百十三年続けている。
やめようと思ったことは、何度かあった。
やめられなかった。
やめれば、教わったものが一つ消える。
消してしまえば、次に何を消すか分からなくなる。残っているのは、笑い方の形と、数え方と、それから約束だけだ。
三つしかない。
三つのうち、笑い方は使い道がない。思い出すことしかできない。
約束は、毎日守っている。守っているが、守っているという実感が薄れて久しい。あまりに長く続けたので、行いのほうが先にあって、約束が後から付いているような具合になっていた。
数え方だけが、毎日新しくなる。
だから、数える。
*
約束があった。
だから、今日も流し続ける。
男が死んでから、一日も欠かしていない。
欠かす理由がなかったし、続ける理由も、もう考えていない。
始める時に、何かを決めたはずだった。何を決めたのかは、覚えている。言葉としては覚えている。ただ、それを決めた時に自分が何を思っていたかは、思い出せなくなっていた。
構わない。
思い出せなくても、続けられる。
流れは止まらない。
今日も、昨日と同じだけ減った。
それだけのことだった。
幕間をお読みいただきありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら、ブックマークをお願いします。




