033 第十一話 廃村(三) 稜線の上の光
七 酒
店は、街道の脇にあった。
宿場でもない。街道を歩く者が、日暮れに一杯だけ寄っていく。そういう店だ。卓が三つと、土間に樽がいくつか。天井が低い。
他に客はいない。
四人は奥の卓に座った。
凱が壁を背にして、真ん中に座った。座ってから足を組んで、卓の下で場所を取る。梓がその右に座って、弓を壁に立てかけた。朔は凱の向かいに座り、律人が朔の隣に座る。
誰も相談しなかった。
凱が先に座り、梓が当たり前のようにその横に座り、朔が向かいに回り、律人が残った席に着いた。それだけのことだ。
座ってから、律人が徳利を持ち上げた。
「注ぎます」
律人は立ち上がって、凱の猪口に注いだ。
「おう、悪いな」
次に梓に注いだ。
「ありがとう」
次に朔に注いだ。
最後に、自分の猪口に注いだ。
「じゃあ」
凱が猪口を上げた。
「お疲れ」
四人が飲んだ。
凱は一息で空けた。梓は半分ほど飲んだ。朔は口をつけた。律人は、少し口に含んで、それから飲んだ。
たわいのない話が続いた。
凱が、この十日で一番大きかった家鳴りの話をした。壁を突き破って出てきたやつで、猫くらいあったという。誰も見ていなかった。
「それ、本当なの」
梓が訊いた。
「本当だって」
「猫くらい?」
「見りゃ分かる。あれは猫だ」
「私が見たのは、鼠くらいだったけど」
「お前が見たのは小さいやつだろ」
凱は言い張った。
「だいたいな、家鳴りってのは古い家ほどでかくなるんだよ」
「そうなの?」
「そうだ」
「誰に聞いたの」
「誰にも聞いてねえ。俺が今考えた」
「考えたの」
梓は箸を止めた。
「じゃあ本当かどうか分からないじゃない」
「考えたんだから本当だろ」
「それは、そういうものかしら」
梓は少し首を傾げた。
本気で考えている顔だった。
律人が、それを見て何か言いかける。言いかけて、やめた。
凱がすでに次の話を始めていたからだ。
酒が進むにつれて、凱と梓のやり取りが増えた。
二人は五年ほど前に一度組んでいる。その時の話が出た。北の山で、熊の形をしたものを二人で追った話だった。
「あの時、お前が三日も待てって言うからよ」
「待たなかったでしょう」
「二日で我慢した」
「一日も待ってないわ」
「半日は待った」
「四半刻よ」
梓は正確だった。
「四半刻で突っ込んだの。私がまだ矢をつがえてる途中で」
「早いほうがいいだろ」
「早すぎるわ」
凱は笑った。
梓は笑わなかった。ただ、言い返す時の口調が少しだけ早くなる。
律人は、二人のやり取りを聞いていた。
時々頷いて、時々口を開きかけて、そのたびに凱が次を喋り出すので、また閉じる。
徳利が空になると、律人が新しいのを頼んだ。
そして、また注いで回った。
凱。梓。朔。自分。
順番が同じだった。
「お前、律儀だな」
凱が感心したように言った。
「そうですか」
「そうだよ。飲む前に必ず回ってるだろ」
「あ」
律人は自分の手を見た。
「気づいてませんでした」
「気づけよ」
凱が笑った。
梓が律人のほうを向いた。
「陰陽連っていうのは、そういうところなの」
「どういう」
「作法が細かいのかと思って」
「ああ」
律人は少し考えた。
「細かいです。かなり」
「たとえば」
「たとえば、盃を受ける時に、右手で持って左手を添える。添える位置が決まっています。指三本ぶん下」
「三本」
「三本です」
「間違えたら」
「間違えたら、その場では何も言われません」
律人は猪口を指で回した。
「後で言われます」
「後で」
「はい。三日くらい経ってから、別の用事のついでに」
梓は律人を見た。
「面倒ね」
「面倒です」
律人はあっさり認めた。
「じゃあ、癖ね。注いで回るのも」
「そうかもしれません」
律人はそう言って、猪口を口に運んだ。
朔は聞いていた。
二人の話も、凱の話も、聞いていた。
だが、口はあまり開かない。
律人は洛環にいたくないと言った。理由は、言わないままだ。政争だと朔が言った時、律人は否定も肯定もしなかった。
この十日で、律人は式神を毎日二十体出して、毎日取りこぼしていた。以前の彼なら、そこに牛頭鬼を立たせていただろう。四体でも塞げるが、力が足りない分、こぼれる。
補充していない。
瑛沢から一年あまり経っている。使い魔を作る手順を、律人は知っている。天羽の家からは速やかに代替を確保せよと書いて寄越されている。
それでも、四体のままだ。
朔はそのことを口にしなかった。
梓は、凱に北のことを訊かれて目を逸らした。あれから一度も、どこにいたのかを言っていない。
十日一緒にいて、彼女は一度も自分の話をしなかった。弓の話はした。仕事の話も、五年前の熊の話も。
自分がどこから来て、どこへ行くのかだけ、言わなかった。
そして朔自身は、四つのものを抱えていた。
行き先は、一つに寄っていく。四つ目で、口を塞ぐために人が死んだ。
そのあいだに、朔は浪都の城で三度、背中が冷えている。
三人とも、知らない。
卓の下に、三つある。
朔は猪口を置いた。
「朔」
梓が朔のほうを向いた。
「なに、さっきから黙って」
「聞いてる」
「聞いてるだけでしょう」
「そうだ」
朔は猪口の縁を指でなぞった。
「二人が喋ってるから、俺は聞いてる」
「三人よ」
梓は律人を目で示した。
「律人さんもいるわ」
「あ、僕は」
「喋ってるでしょう」
「喋ってます」
律人は小さく頭を下げた。
「すみません」
「謝らなくていいって」
凱が徳利を取った。
「ほら、注ぐぞ」
凱が注いだ。半分こぼれた。
「おい」
「手が滑った」
「毎回滑ってるでしょう」
梓が冷ややかに言った。
凱は笑った。
律人が手拭いで卓を拭く。誰にも言われずに拭いた。
「律人さん」
梓が呼んだ。
「はい」
「あなた、そんなに気を遣わなくていいと思うわ」
律人が顔を上げた。
「そうでしょうか」
「そうよ」
梓は凱を横目で見た。
「凱なんて、こぼしても自分で拭かないもの」
「拭くわ! たまには!」
「たまにはでしょう」
凱は言い返そうとして、言葉が出なかったらしく、酒を飲んだ。
律人は手拭いを畳んだ。
「僕は」
畳んだ手拭いの上に、律人の手が置かれたままだった。
「たぶん、ここにいていいのか、まだ分かってないんです」
朔は横を見た。
律人の目は、卓に落ちていた。
「皆さん、昔からの仲でしょう。僕は今日で十一日目です」
「そんなもん関係ねえよ」
凱があっさり言った。
「一緒に仕事したんだから、それでいいだろ」
「そういうものですか」
「そういうもんだ」
凱は猪口を空けた。
「なあ朔」
朔は猪口を持ったまま、少し間を置いた。
「そうだな」
律人が朔を見る。
頭を下げた。深く下げた。
「頭を下げんな」
凱が手を振った。
「下げるところじゃねえ」
「……はい」
律人は顔を上げた。
そして、初めて自分から徳利を持って、凱の猪口に注いだ。
注いで回るのではなく、目の前の一つに注いだ。
「お」
凱は受けた。
「珍しいな」
「そうですか」
「いや、いい。飲め飲め」
凱は自分の徳利を取って、律人の猪口に注ぎ返した。
半分こぼれた。
「おい」
「手が滑った」
「毎回滑ってます!」
律人の声だった。
初めて、律人が先に言った。
凱が声を上げて笑う。梓が、言い返す時の口調で何か言った。律人が謝った。
朔は聞いている。
外が暗くなっていた。
店の戸が半分開いていて、そこから街道が見える。街道の向こうに山があって、その稜線の上が、うっすらと明るい。
夜なのに明るい。
律人が、そちらを見た。
ついこの間まで、あの光の下にいた男だ。今はいたくないと言って、ここにいる。
律人は長いこと、そちらを見ている。
ようやく、目を戻す。
朔も見た。
あれが何百年そこにあるのかを、朔は知らない。誰が保っているのかも知らない。
誰も知らないのだろうと思っていた。
凱と梓は、家鳴りの大きさの話に戻っている。
誰も、そのことに触れなかった。
八 翌朝
会計は、凱が出した。
「俺が声かけた仕事だからな」
凱はそう言って、包みから金を出した。
誰も礼は言わない。当たり前のこととして、処理されていく。
翌朝、四人は街道で別れた。
律人は西へ。洛環へ戻る。
梓は北へ。行き先は告げない。
凱は東へ。
朔も東だが、途中で分かれる予定だった。
律人が頭を下げた。
「では、皆さん。此度は本当にありがとうございました」
「だから畏まんなって」
「はい」
律人はもう一度頭を下げた。
「また、機会がありましたら」
「あるだろ」
凱が当たり前のように返した。
梓が矢筒を担ぎ直した。
「じゃあ」
四人が、それぞれの方向を向いた。
凱が先に歩き出す。
三歩ほど行ってから、振り返らずに言った。
「何かあれば呼べよ」
それだけだった。
返事を待たずに、凱はそのまま歩いていく。
梓が、適当に手を上げた。
律人が、頭を下げた。
朔は何もしない。
誰も、凱の背中を見送らない。
梓が北へ、律人が西へ歩き出した。
朔は東へ歩き出した。
しばらく行ってから、一度だけ振り返る。
街道には誰もいなかった。
山の稜線の上は、もう明るくない。朝の光のほうが強くて、結界の光は見えなくなっていた。
第十一話「廃村」、完結です。☆☆☆☆☆での評価をいただけると嬉しいです。




