029 第十話 手際(二) 半町先の銃声
四 狙撃
日が落ちてから、朔は小屋へ近づいた。
三十間ほどまで来たところで、足を止めた。
明かりが漏れていない。
中に人がいるなら、火を使う。使わないなら、寝ているか、いないかだ。
朔はさらに近づいた。
二十間。
風の音がした。
いや、風ではない。
朔は横へ跳んだ。
跳んだ場所の地面が弾けた。
土が飛び、朔の頬を石が掠める。
着地して、伏せた。
音が遅れて来た。
破裂音。銃だった。
朔は地面に伏せたまま、頭の中で計算した。
弾が来た方向。音が来た方向。
音のほうが遅い。つまり、遠い。
どれくらい遠いか。三つ数えるほどの差があった。
半町以上。
朔は伏せたまま、体を横へずらす。
二発目は来なかった。
代わりに、声が来た。
「そこまでだ」
遠い。
だが、はっきり聞こえた。声を張っているのではない。よく通る声だった。
「一発目は外した」
淡々とした声だった。
「次は外さん」
朔は伏せたまま答えた。
「宵士だ」
「知っている」
即答だった。
朔は口をつぐんだ。
「町の役人が呼んだのだろう。三人死んだ件でな」
声は続けた。
「帰れ。我々ではない」
「信じる理由がない」
「なかろうな」
声は落ち着いていた。
「だが、こちらにも理由がない。宵士を相手にする理由がだ。割に合わん」
朔は考えた。
この距離で当ててくる。
銃は、この国では珍しい。あるにはあるが、火縄式で、当たるのはせいぜい二十間。三十間を超えて狙って当てられるものではない。
しかも、夜だった。
月は出ている。だが、伏せた人間を半町先から狙える明るさではない。
見えている。
「帰らん」
朔はそう返した。
「そうか」
朔は跳んだ。
伏せた姿勢から、足元の空気を圧して蹴る。破裂音がして、体が斜め前へ飛んだ。
跳んだ先の地面が、弾けた。
朔が着地するはずの場所。
朔は空中で体を捻り、着地点をずらした。転がって、木の陰に入る。
読まれた。
跳ぶ前ではない。跳んだ後だ。
朔は木の陰で息を整えた。
空気を蹴る跳び方は、蹴った瞬間に行き先が決まって、必ず音が鳴る。
音を聞いて、方向を測って、着地点を計算する。
櫛名と同じだ。
だが、櫛名は二度見て覚えた。この男は、一度目で当ててきた。
朔は木の陰から、暗い斜面を窺う。
どこにいるのか、まったく分からない。
朔には夜目がある。人間より遠くまで見える。それでも、半町先の斜面に人がいるかどうかは分からなかった。
向こうは見えている。こちらは見えていない。
朔は自分の間合いを思った。
一尺。
半町を、詰めなければならない。
跳べば読まれる。
走れば、もっと読まれる。
朔は木の幹に背を預ける。
最悪だった。
二十年やってきて、これほど相性の悪い相手は初めてだった。
五 嘘の音
朔は木の陰から動かなかった。
向こうも撃ってこない。
膠着していた。
だが、待つのは向こうに有利だ。朔が動かなければ何も起きない。何も起きなければ、向こうは移動できる。囲むこともできる。
朔は目を閉じた。
使える手を数えた。
跳躍。読まれる。
突進。読まれる。
夜蛭。届かない。
狐火。掌に載る程度しか出ない。半町先には届かない。
残っているものが、一つあった。
幻術。
朔は自分の系統を思った。
幻狐系。記録にはそう書いてある。幻術と狐火を得手とするはずの系統だ。
だが、朔の幻術はほとんど使い物にならない。姿を消すことはできない。像を作ることもできない。せいぜい、人の目を一瞬ずらす程度のものが出るだけだった。
目ではなく。
朔は自分の掌を見た。
狐の幻術というのは、目を騙すものだと思い込んでいた。
だが、狐は鳴く。
音を使う。
試したことはなかった。二十年、一度も。目を騙すのが下手なのだから、音も下手だろうと思っていた。
試す必要がなかった。今まで、跳躍の音が問題になったことがなかったからだ。
朔は木の陰で、足元の空気を圧した。
圧しながら、蹴らなかった。
圧した空気を、そのまま保つ。
そして、幻術をかけた。
自分にではない。
その空気に。
音が、そこから出るのではなく、別の場所から出ているように。
朔は空気を解放した。
破裂音がした。
朔のいる場所から、三間ほど左の茂みで鳴ったように。
朔は右へ跳んだ。
跳躍の音と、偽の音が、ほとんど同時に鳴った。
一拍。
斜面のどこかで、弾が土を叩く音がした。
朔のいた場所ではない。左の茂みでもない。二つの音の、ちょうど中間。
迷った。
朔は跳び続けた。
二度目。偽の音を右へ出して、自分は左へ跳ぶ。
弾が来る。掠めた。だが、当たらなかった。
三度目。
四度目。
十間。
八間。
五間まで詰めた時、相手の位置が見えた。
岩の上だった。
男が片膝をついて、長い筒を構えている。火縄ではない。見たことのない形だった。
朔は跳んだ。
最後の一跳びは、偽の音を使わなかった。
使わずに、まっすぐ跳んだ。
男が撃った。
弾が、朔の左肩を掠めた。
熱い。抉れた。
だが、止まらなかった。
一尺。
朔は男の銃に手をかけた。
掌を筒に当てて、圧す。
銃が男の手から引き剝がされて、岩の下へ落ちた。
朔は夜蛭を抜いて、男の喉元に当てた。
男は動かない。
月明かりで、初めて顔が見えた。
三十代半ばだろうか。痩せていて、頬が削げている。髪を後ろで括っていた。
目が、異様だった。
瞳が大きい。暗いところで開く猫の目のように、黒目が瞳孔ごと広がっている。
その目が、朔を見ていた。
驚いてはいない。
周りで、物音がした。
木の陰から、人が出てきていた。数えると、七人。どの者も得物を構えている。
男が片手を上げた。
七人が止まった。
「下がれ」
声は、さっきと同じだった。
「頭」
「下がれと言った」
七人が下がった。
男は朔に向き直った。喉に刃を当てられたまま、姿勢を崩さない。
「音を偽ったな」
男の声に、感心したような響きが混じった。
「そういう手があるとは知らなんだ」
「初めて使った」
「そうか」
男は少し目を細めた。
「初めてのものを、その距離で使うか」
「使うしかなかった」
「なるほど」
男は喉元の刃に目を落とし、それから朔を見上げた。
「わたしが義寛だ」
六 証言
「三人を殺したか」
朔はそう訊いた。
義寛は答えるまでに、少しの間を置いた。
「殺していない」
「信じる理由がない」
「なかろうな」
義寛の声は変わらなかった。
「だが、理屈は言える。聞くか」
朔は刃を下ろさなかった。
「我々は十四年、この街道で荷を取っている」
義寛は、刃が当たっているのも構わずに続けた。
「十四年で、殺したのは三人だ。いずれも刃向かってきた者で、こちらが殺す気で殺したわけではない」
「今回は三人だ。ひと月でな」
「だから言っている」
義寛は眉一つ動かさなかった。
「十四年で三人。ひと月で三人。数が合わん」
朔は刃を当てたまま、動かさなかった。
「死人が出れば、追われる」
義寛は淡々と並べた。
「荷を取られただけなら、荷主は諦める。役人も、被害届を受け取って終わりだ。捕物にはならん。金がかかるからな」
「人が死ねば」
「捕物になる」
義寛は続けた。
「十手が出る。人が動く。手配が回る。そうなれば、この街道では商売ができん」
「商売か」
「商売だ」
義寛は迷いなく答えた。
「それと、生きていれば次がある」
朔は眉を寄せた。
「次?」
「同じ荷主が、また荷を出す」
義寛の口調は、帳面を読み上げるようだった。
「殺せば、その荷主は二度と荷を出さん。あるいは護衛をつける。どちらにしても、次がなくなる。生かしておけば、半年後にまた通る」
筋は通っている。
道徳の話ではない。損得の話だった。だから、かえって信用できた。
道徳で説明されていたら、朔は信じなかっただろう。
「それだけか」
「これ以上の理屈が要るか」
義寛の口の端が、わずかに下がった。
「わたしは無駄なことをせん。殺しは無駄だ」
朔は刃を、少し下げた。
「じゃあ、誰がやった」
「分からん」
義寛は首を振った。
「分からんが、一つ言えることがある」
朔は先を促した。
「三件目だ」
義寛の目が、町の方角へ向いた。
「路地で喉を切られた者。あれの死体を見たか」
「記録を見た」
「そうか」
義寛は短く間を置いた。
「わたしは見た」
朔は義寛の顔を見直した。
「見に行ったのか」
義寛は頷いた。
「我々のせいにされていると聞いたのでな。何が起きているか見ておく必要があった」
「それで」
「あれは、忍の手だ」
義寛の声が、初めて少し変わった。
「どういうことだ」
「喉の切り方だ。刃の入れ方と、抜き方。それから、体の置き方」
義寛は自分の喉元を、指で横に一度なぞった。
「あの路地は、通りから中が見える。人を殺すには向いていない」
「そうだな」
「だが、見えることが目的なら、あそこがいい」
朔は動きを止めた。
「見つけてほしかったということか」
「そうだ」
義寛は指を下ろした。
「見つけて、盗賊の仕業だと思ってほしかった」
朔は刃を下ろした。
義寛は立ち上がりながら、着物の埃を払った。
「もう一つある」
「なんだ」
「わたしは、十七年前に死んだことになっている」
朔の手が止まった。
「ある大名に仕えていた」
義寛は遠くの暗がりを見た。
「名は持たされていなかった。汚れ仕事をさせられた。犬のほうがまだ扱いがよかったろうな」
義寛の口調は平坦だった。
「主が蔵都へ向かう途中で、盗賊に襲われた。わたしは助けなかった。見ていた」
義寛の目は、暗がりから戻ってこない。
「それから、盗賊の一人を殺して、わたしの着物を着せた。顔は潰した」
義寛は自分の着物の襟に、指を掛けた。
「そうして、わたしは死んだ。死んでから、名を付けた」
義寛の目が、朔に戻った。
「三件目の死体は、同じやり方だった」
朔は理解した。
「同じというのは」
「誰かに見つけさせて、誰かのせいにする」
義寛の声は、低かった。
「わたしがやったのと、同じ手口だ。十七年前に、わたしがこの身に使った手だ」
義寛の目は、動かなかった。
「それを、わたしに着せられた」
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