026 第九話 山丈(一) 塞がる傷
一 依頼
梓が訪ねてきたのは、朝だった。
宿の女に呼ばれて朔が降りていくと、蔵都の宿の土間に梓が立っていた。
「早いな」
「夜通し歩いてきたの」
梓は矢筒を背負ったままで、草履が泥で汚れている。
「上がれ」
「いい。ここで話す」
朔は上がり框に腰を下ろした。
「仕事か」
「そう」
梓は矢筒の紐を握り直してから、口を開いた。
「手を貸してほしい」
朔は梓の顔を見上げる。
梓のほうから助けを求めたのは、五年の付き合いで初めてだった。
北で熊の形をしたものを片づけた時も、雪崩の村を手伝った時も、彼女は一人で行って一人で帰ってきた。手が足りないという言葉を、朔は聞いたことがない。
「どこだ」
「北の山。翠嶺との境にある人間の村よ」
梓は北のほうへ目をやった。
「戸が消えてる。三戸か、四戸。人ごと」
「妖怪か」
「そう」
「何だ」
朔は待った。
梓の指が、矢筒の紐を握っては、握り直す。
「山丈」
ようやく、その名が出た。
「知ってる?」
「名前だけは」
朔は記憶を探った。
「深山に出る外来種だろう。人型で、でかい。それ以外は知らん」
「私は知ってる」
梓の話は、そこで終わった。
常盤衆の顔は歳を取らない。梓の顔は五年前と何も変わっていない。ただ、今の彼女の立ち方は、いつもと違う。
朔は訊かなかった。
「報酬は」
「村から出るのは、たぶん十両もない」
「安いな」
梓は否定しなかった。
「俺の路銀は出るか」
「出させる」
「なら受ける」
梓が顔を上げた。
「いいの」
「安い仕事は前にも受けた」
朔は立ち上がった。
「一つ訊く。お前が弓で届かない相手か」
梓の喉が、小さく動いた。
「届かない」
「そうか」
朔は考えた。
梓が届かないということは、遠距離が丸ごと使えないということだ。そして朔の間合いは一尺しかない。二人だと、詰める役と、詰めるまでを支える役がいない。
「凱を呼ぶ」
「凱を?」
梓が眉を上げた。
「あなたが、言われる前に誰かを呼ぶのは初めてね」
「そうか」
「そうよ」
朔は懐から紙を出した。
「あいつは今、東の湊にいる。三日で来る」
「呼べるの」
「呼べば来る」
実際、そうだった。凱は呼べば来る。理由を訊かない。報酬も訊かない。ただ来る。
紙を書いて、宿の者に託した。
梓は土間に立ったまま、それを見ている。
「朔」
「なんだ」
「ありがとう」
梓はそう言って、頭を下げた。
「礼は、片づいてからでいい。十両の分も、まだ奢れてないしな」
二 山村
村は、山襞の中腹にあった。
二十戸ほど。田はない。斜面に石を積んで段を作り、そこに稗と粟を植えている。あとは炭を焼いて、麓の町へ運ぶ。それで暮らしている村だった。
名主の家に通された。名主といっても、他より少し大きいだけの家だ。
「四戸でございます」
名主は五十くらいの男で、手の甲に炭の黒が染みついている。
「最初が、先々月の終わりでございます。山際の一戸が、朝になったら誰もおらんようになっておりました」
「壊されたのか」
「戸が外れておりました。内側から外れる壊れ方ではございません」
「血は」
「ございました。少し」
名主は指を折りながら続けた。
「二戸目が半月後。三戸目がその十日後。四戸目が、五日前でございます」
「間が縮んでる」
「はい」
朔は名主の顔を見た。
「何人だ」
「十七人でございます」
即答だった。
名主は数えていた。名も年も分かっている顔だ。
朔は横に目をやった。梓は土間に立ったまま、動いていない。
「翠嶺には」
梓が口を挟んだ。
名主が顔を上げた。
「知らせたのか」
「……知らせました」
名主は少し言いにくそうにした。
「山一つ越えれば、翠嶺のお領地でございます。うちの村から炭を買っていただいたこともございまして」
「それで」
「使いをやりました。二度」
名主は膝の上で手を握った。
「一度目は、お受けになりませんでした。二度目は、返事をいただきました」
「なんと」
「領外のことは幕府の管轄であるから、こちらからは動けぬと」
梓は身じろぎもしない。
「それは、正しい返事ですよ」
名主は取りなすように言った。
「うちは幕府の領でございます。翠嶺のお殿様が兵を出せば、それは他の領に手を出したことになる。そう書いてございました」
「幕府には」
「届けました」
名主は山のほうを見た。
「代官所まで、山を二つ越えます。使いが行って、書き付けを置いて、帰ってまいりました」
「返事は」
「まだでございます」
名主は膝に目を落とした。
「五日前の一件も、まだ届けておりません。届けても、返事は同じでございましょうから」
朔も梓も、口を閉ざしている。
名主は顔を上げて、不意に訊いた。
「あの、そちらの方は」
その目が、梓に向いている。
「常盤衆の方でいらっしゃいますか」
「そうだ」
朔が答えた。
「翠嶺の方でございますか」
「違う」
梓の返事は短かった。
「そうでございますか」
名主はそれ以上訊かなかった。
三 境
凱が来たのは、その日の夕方だった。
村の入口で、村の子供と相撲を取って、負けていた。
「よお」
「早いな」
「三日で来いって書いてあったろ」
「三日目だ」
「ちょうどだろ」
凱は立ち上がって、着物の土を払った。
その目が、梓に留まる。
「久しぶり」
「久しぶりね」
「元気か」
「元気よ」
「そうか」
それで終わりだった。
二人は四年ほど前に一度組んだことがある。それ以来のはずだが、凱はそれ以上何も訊かない。
「で、何やるんだ」
「山丈だ」
「なんだそれ」
「でかいのが山にいる」
「おお」
凱の顔が明るくなった。
「でかいのか」
「一丈は超えるらしい」
「いいな」
凱はそれで納得したらしかった。
翌朝、三人は山へ入った。
痕跡は、四戸目の家から続いている。
足跡が残っている。裸足だった。ただし人間の足ではない。指が四本しかなく、幅が人の倍ある。深さから見て、相当の重さだった。
痕跡は沢を渡り、斜面を登り、尾根を越えていく。
二つ目の尾根を越えたところで、梓が止まった。
朔は三歩進んでから、気づいて振り返った。
梓は尾根の上に立っている。
その先は、下りの斜面だった。木が切れて、向こうの谷が見えている。谷の先に、また山があった。
「どうした」
「ここが境」
梓の視線は、谷の向こうにあった。
「この尾根から向こうが翠嶺よ」
境目らしいものは何もない。柵も、石も、立て札もない。ただの尾根だった。
足跡は、下りの斜面へ続いている。
「追うぞ」
朔がそう言っても、梓は動かなかった。
「梓」
「私は、ここで待つわ」
梓は谷を見ている。表情は変わっていない。ただ、足が動かない。
「理由は」
「言わない」
梓の声に、迷いはなかった。
「戻ってきたら、そこから先は行く」
訊けば、答えるかもしれなかった。
「凱」
「おう」
「行くぞ」
「梓は」
「待ってるそうだ」
凱はそれで済ませた。
二人は斜面を下りる。
半刻ほど追ったところで、足跡が途切れた。
沢に入っている。水の中を歩けば跡は残らない。
「消えたな」
凱は沢を覗き込んだ。
「上流と下流、どっちだ」
「上だ」
朔は沢の上手を見た。
「山丈は深山に棲む。里に近いほうへは、餌を獲る時にしか下りん」
「へえ、詳しいな」
「梓から聞いた」
二人は沢を上流へ辿った。
一刻ほどで、また足跡が出てくる。沢から上がった跡だった。
そこから先は、翠嶺の領のさらに奥へ入っていく。
朔は足を止めた。
「凱」
「なんだ」
「戻る」
「なんでだ」
「ここから先は入れん」
朔は首を振った。
「これ以上入れば、他の国の領地の奥だ。宵士が勝手に入って、勝手に妖怪を討ったら、面倒になる」
「なるか?」
「なる」
朔は尾根を見上げた。
「それに、こいつは村へ来る。待てば向こうから来る」
「待つのか」
「向こうから来るなら、そのほうが早い」
二人は尾根へ戻った。
梓は同じ場所に立っている。
三人が下山する間、誰も口をきかなかった。
四 初戦
三日待った。
四日目の夜に、来た。
村の一番外れの家が襲われる寸前で、梓の矢が飛ぶ。
朔と凱は、その家の裏手に伏せている。梓は二十間ほど離れた斜面の上、木の間に立っている。
矢の音がして、それから、太い声が上がった。
朔は走った。
家の角を回った時、それが見える。
背丈は一丈を超えていた。
人型だった。腕が太く、脚が短い。頭が小さく、肩に埋まっている。皮膚は樹皮のような灰褐色で、あちこちに苔のようなものが生えていた。
顔があった。目が小さく、鼻が潰れていて、口が横に広い。
左の肩に、矢が刺さっている。
それが、矢を掴んで抜いた。
抜いた傷から血が出た。
三つ数えるほどで、止まる。
朔は足を止めた。
傷が塞がっている。
塞がったというより、盛り上がって埋まった。皮膚が寄って、穴を押し出すように閉じた。
二射目が来る。
梓の矢が、山丈の首の横に刺さった。深い。位置も正確だった。
山丈が首を振った。矢が折れる。
傷が塞がった。
三射目、四射目。胸と、脚の付け根。どちらも急所だった。
塞がった。
「……嘘だろ」
凱が呻いた。
朔は斜面の上を振り仰いだ。
梓は射ち続けている。
五射、六射、七射。すべて当たっている。一本も外していない。
それでも、山丈は歩いていた。
朔は走り出した。
「凱! 引き付けろ!」
「おう!」
凱が撃った。
空気の塊が山丈の胸に入った。一丈を超える体が、後ろへ吹き飛ぶ。家の壁にぶつかり、板が砕けた。
山丈が起き上がった。
胸が凹んでいる。その凹みが、見ている間に戻った。
「効かねえぞ!」
「分かってる!」
朔は一尺の内側へ入った。
夜蛭を振る。
太腿に入った。骨まで届く。
山丈が吼えた。太い腕が振り下ろされる。朔は転がって避けた。避けた先の地面が抉れる。
振り返ると、太腿の傷が閉じていた。
朔は舌打ちをした。
斬れないのではない。斬れる。斬れるが、残らない。
これは、蓄積が効かない相手だった。
傷を与えても、次の一撃までに元に戻る。つまり、いくら斬っても、いつまで経っても最初の一撃を与え続けているのと同じだった。
勝てない。
「凱! 引くぞ!」
「まだやれる!」
「やれても意味がない!」
朔は叫んだ。
「削っても戻る! 何発撃っても同じだ!」
凱が動きを止めた。
止まるなり、舌打ちをした。
「くそ!」
凱がもう一発撃った。山丈が後ろへ飛んだ。その隙に、二人は走った。
斜面を駆け上がる。梓が矢をつがえたまま待っていた。
「引くぞ」
朔が言うと、梓は頷いた。
山丈は追ってこなかった。
起き上がって、こちらをじっと見ている。やがて向きを変えて、山へ戻っていった。
襲われかけた家は、無事だった。中の者は、とうに逃げている。
三人は村の名主の家に戻った。
誰も口をきかなかった。
囲炉裏の前に座って、だいぶ経ってから、梓が口を開く。
「弓は、通らない」
声が平らだった。
「十二本射った。全部当たった。全部塞がった」
梓は矢筒を下ろした。
「私は、この相手に何もできない」
「今夜考える」
朔は囲炉裏に薪を足した。
「弓が通らないなら、弓じゃないところで頼むことになるかもしれん。それでもいいか」
梓は、少しだけ顔を上げた。
それから、弓を壁に立てかける。
立てかけて、そのまま座った。
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