025 第八話 瑛沢(三) 天井を支えるもの
六 天井
坑口へ戻る途中で、音がする。
最初は、遠くで石が落ちる音だった。
それから、地面が震えた。
「走れ」
朔が鋭く言った。
二人は走った。落盤の跡を屈んで抜け、坑道を戻る。
天井から土が落ちてくる。木枠が軋む音が、前からも後ろからも聞こえる。
さっきの暴れが、二十年腐った支保を限界まで押していた。
「朔、前!」
律人が叫んだ。
坑道の先、坑口まで百歩ほどのところで、天井が下がりはじめていた。
崩れてはいない。まだ落ちていない。だが、木枠が斜めになり、土が絶えず落ちている。
そして、その手前に人がいた。
三人。いや、五人。無宿人たちだった。
朔は理解した。
音を聞いて、様子を見に来たのだろう。あるいは、外へ逃げる途中で、天井が下がりはじめたのに出くわしたのか。
どちらでもよかった。
五人は坑道の内側にいて、天井は彼らの外側で下がっている。
「爺さん!」
朔が叫ぶと、一人が振り返った。あの老人だった。
「動くな! そこにいろ!」
朔は駆け寄った。
天井を見上げる。
下がっている場所は、幅三間ほど。その下を五人が通り抜けなければ、外へ出られない。
支えるものがない。
朔は掌を上げた。
一尺。届かない。天井までは一間近くある。
跳べば届く。届いて、圧して、支えられる。
支えられるのは、一尺四方だけだ。
幅三間の天井を、一尺で支えることはできない。
「律人!」
朔は振り返った。
律人は、既に札を出していた。
三枚。指に挟んで、こちらを見ていた。
「牛頭鬼なら、支えられる」
律人の声は平らだった。
「狭いから出せないと言ったけど、あそこは広い」
律人は天井の下がった場所を指した。
「採掘跡ほどじゃないけど、九尺は入る」
「支えたら、どうなる」
朔は訊いた。
「支えてるあいだは、天井は落ちない」
「終わったら」
律人は答えないまま、札を離す。
札が燃えた。
燃えた場所から、影が立った。
牛の頭をした、九尺近い人の形のもの。前に山の斜面を一直線に上っていった、あれだった。
毛皮は白い。色が抜けている。その上に、黒い紋様が這っている。
目に、光がない。
律人は、それを見上げた。
「天井を支えてくれ」
牛頭鬼が動いた。
下がった天井の下へ入り、両腕を上げる。掌を岩に当てて、押し上げた。
土が落ちるのが止まった。
「今だ! 走れ!」
朔が叫んだ。
五人が走った。老人が一番遅い。朔がその腕を掴んで引く。
抜けた。
全員、天井の下を抜けた。
朔は振り返る。
牛頭鬼は、天井を支えていた。
両腕を伸ばし、膝をわずかに曲げて、押している。動いていない。呻き声も上げない。
その手前で、律人が立っていた。
「律人」
律人は動かなかった。
「律人!」
律人が振り返った。
「戻れ」
朔は牛頭鬼を顎で示した。
「戻せ。走れば間に合う」
「間に合わない」
律人は首を振った。
「支えをやめた瞬間に落ちる。戻す暇はない」
「じゃあ引きずってでも」
「あれは、僕の指示がないと動かない」
律人の声は静かだった。
「支えろと言った。だから支えてる。戻れと言えば、戻る途中で天井が落ちる」
朔は口を開いて、閉じた。
言うべきことが、見つからなかった。
律人は牛頭鬼のほうを向く。
そして、いつも通りに言った。
「ありがとう。助かった」
牛頭鬼は動かなかった。
返事もしない。ただ、天井を支えている。
律人は背を向けた。
「行こう」
二人が坑口を抜けて十数える頃、背後で音がする。
地鳴りのような音が、坑道の奥から順に近づいてきて、坑口から土煙が噴き出した。
それきり、静かになった。
無宿人たちが、谷の斜面に座り込んでいる。老人が咳き込んでいる。
律人は坑口のほうを見ていた。
朔も見た。
そして、思い出したことがある。
牛頭鬼が天井を支えた時、両腕を上げた。その時、肩から背にかけての形が見えた。
角は前へ反っている。牛の角は、普通は横か上へ向く。前へ向いて反る角を持つ牛を、朔は見たことがない。
そして、手だった。
指が五本あった。牛に指はない。蹄だ。
あれは何なのか。
朔は口に出さなかった。
七 返信
麓の村で二晩過ごした。
無宿人たちは、村の名主が引き受けた。坑が崩れた以上、あそこには住めない。名主は渋い顔をしたが、断らなかった。
律人は初日の夜に、式神で洛環へ報告を送った。
返信は、翌日の夕方に届く。
朔は宿の土間で刀の手入れをしていた。縁側で律人が文を開いているのが見える。
二通あった。
一通目を読み終えても、律人はその文を手にしたまま動かない。
二通目を読んだ律人は、それを膝の上に置いて、庭に目をやった。
朔は手入れを続ける。
やがて、律人が口を開いた。
「朔」
「なんだ」
「読むか」
「いいのか」
「かまわない」
朔は手を拭いて、縁側へ行った。
一通目は、天羽の家からだった。
文面は短い。
瑛沢の件、承知した。よく片づけた。ただし、使い魔の損耗については書面に残すな。報告には数を記さぬこと。速やかに代替を確保せよ。次の申請に響く。
朔は二度読んだ。
二通目は、斎宮玲厳からだった。
こちらも短い。
貴殿の術が如何なるものであるかは、此度の結果がすべてを語っている。いずれこうなると申し上げてきた。以後、慎まれよ。
朔は文を膝に戻した。
律人がぽつりと言った。
「どっちも、同じことを書いてる」
律人の目は、庭から動かない。
「同じ?」
「一つ減ったから、一つ足せ。一つ減ったのは、そういう術だからだ」
律人は庭を見たまま続けた。
「片方は在庫の話をしてて、片方は正しさの話をしてる。でも、どっちも、減ったものの話はしてない」
縁側の板が、律人の膝の下で小さく鳴った。
「誰も、死んだとは書いてない」
庭で、鶏が鳴いた。
「僕はさ」
律人は膝の上で指を組んだ。
「斎宮の家に言われるたびに、反論してきたんだ。妖怪を一体使えば、人間が十人助かる。二十人助かる。数の話をすれば、僕のほうが正しい、と」
「聞いた」
「今回は、五人助けた」
律人はもう一度、噛みしめるように言った。
「五人だ」
朔は口を挟まなかった。
「一体で五人。悪くない数だ。今までで一番少ないくらいだけど、五人は五人だ」
律人は文を折った。
「それなのに、計算が合わない気がする」
「合わないか」
「合わないんだ」
律人は文を懐に入れた。
「どこがおかしいのか、分からないんだけど」
朔は立ち上がった。
言うべきことがあるような気がした。だが、何を言えばいいのか分からない。
言えば、それは朔の物差しになる。
律人が自分で出した答えでなければ、意味がないような気がした。
朔は刀を取りに戻った。
八 問い
翌朝、二人は村を出た。
律人は洛環へ、朔は蔵都へ戻る。途中までは道が同じだ。
峠までの道を、二人は黙って歩いた。
峠に着いたところで、律人が足を止めた。
「朔」
「なんだ」
「前に、臥雲山で言われたことがある」
朔は振り返った。
「桃さんの家の前で、使い魔を出すなって言われた」
「言った」
「理由は教えてくれなかった」
律人は足元の小石を見た。
「あれから一年くらい経つ。ずっと考えてたんだ。なんで理由を言わなかったのか」
律人は小石を爪先で、谷のほうへ転がした。
「最初は、怒られたんだと思った。外道だ、道理に外れてると言われてるのと同じことを、朔も思ってるんだと」
律人は峠から見える谷を見た。
「でも、違うよな」
「……」
「あの家には、犬と、雉と、猿がいた」
律人の声が、少しやわらいだ。
「洗い物をして、薪を割って、飯を作ってた。名前があって、喧嘩してて、酒代の心配をしてた」
律人は自分の手を見た。
「僕は、あの家に牛頭鬼を連れて入るところだった」
朔は黙っていた。
「今なら、分かる気がする」
律人は手を下ろした。
「分かる気がするだけかもしれないけど」
風が吹いた。峠の草が一斉に傾ぐ。
「でも、分かったところで」
律人は顔を上げた。
「僕はどうすればよかったんだ」
朔は律人の目を見返した。
「昨日、あそこで牛頭鬼を出さなかったら、五人死んでた。爺さんも死んでた。出したから助かった」
律人は自分の掌を握り込んだ。
「それは間違ってないと思う。今でも思う」
律人の声は、落ち着いていた。
「でも、出せば、ああなる」
律人は峠の向こうを見た。
「出さなければ人が死ぬ。出せばああなる。どっちも選べないなら、僕は何をすればいいんだ」
朔は答えを持っていない。
持っていたとしても、言うべきではないと思った。
律人はしばらく待ってから、息を吐いた。
「変な話をした。悪い」
「謝るな。訊かれて困る問いじゃない。答えを持ってないだけだ」
「行くよ」
律人は頭を下げた。深く下げた。それから顔を上げて、いつもの笑い方をする。
「また頼む。次は報酬をちゃんと出すから」
「前も出てた」
「そうだったか」
律人は西へ歩き出した。
朔は東へ歩き出した。
十歩ほど歩いてから、朔は一度だけ振り返る。
律人の背中が、峠の道を下っていく。
その懐に、二通の文が入っている。
一つ減ったから一つ足せ、と書いてある文と、そういう術だからこうなった、と書いてある文だ。
どちらにも、あれが死んだとは書いていない。
朔は前を向いて、歩き出した。
第八話「瑛沢」、完結です。
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