023 第八話 瑛沢(一) 閉ざされた鉱山
一 再会
一年ぶりに見る律人は、少し痩せていた。
蔵都の茶屋で、朔は向かいに座った男を眺めた。旅装ではなく、陰陽連の紋の入った羽織を着ている。公務で来たということらしい。
「久しぶり」
「痩せたな」
「そうか?」
律人は自分の頬に触れた。
「書庫に籠ってるからかな。日に当たってない」
「飯は食ってるのか」
「食ってるよ。多分」
律人は笑った。笑い方は変わっていない。
「加賀屋の息子は」
朔が訊くと、律人の顔がはっきり明るくなった。
「歩いてる」
「歩いてるのか」
「先月から、洛環の中を一人で出歩くようになった。付き添いなしで」
律人は身を乗り出した。
「まだ長くは無理だけどね。半刻も歩くと座り込む。でも、去年の今頃は寝返りも打てなかったんだ」
「よかったな」
「ああ」
律人は本当に嬉しそうだった。
「記録も取ってる。ひと月ごとに濃さを測って、書き付けてる。まだ一年分しかないけど、十年溜めれば意味のあるものになる」
「濃さは」
「増えてる」
答えは早かった。
「増えてるけど、思ってたより遅い。洛環の中にいるからだと思う。結界の内側は瑛輝の濃さが管理されてるから、外にいるより溜まりにくい」
「つまり」
「牙をもう一本探す猶予ができた」
律人は茶を飲んだ。
「三月で死ぬはずだった子が、一年生きて、歩いてる。それだけでも、書庫に籠った甲斐はあった」
朔は頷いた。
律人は湯呑みを置いて、姿勢を正した。
「それで、今日の話なんだけど」
「仕事か」
律人は懐から書付を出した。
「東国の北、瑛沢という土地がある」
「聞いたことがある」
「昔、瑛鉄を掘ってた坑道だ。二十年以上前に閉じてる」
律人は書付を広げた。
「そこで、人が消えてる」
「何人だ」
「分からない」
律人は書付の端を指で押さえた。
「そこが面倒なところでね。消えてるのが無宿人なんだ」
朔は湯呑みを持つ手を止めた。
「元は坑夫と、その家族だった者たちらしい。坑が閉じて、行き場がなくなって、そのまま坑口の近くに住み着いた。帳面には載ってない」
「何年だ」
「二十年以上」
「代官は」
「来ない。来ても数えない。数える対象じゃないから」
律人は書付を裏返した。
「届出を出したのは、近くの村の名主だ。坑のほうから人が減ってると。ただ、何人いたかを誰も知らないから、何人減ったかも言えない」
「幕府は」
「動かない」
律人の口調が、少し硬くなった。
「無宿人が減っただけだ、と。……そう書かれた書き付けを、僕は読んだ」
「書いた奴の顔が見てみたいな」
律人の口の端が、わずかに上がった。
「陰陽連はどうだ」
「陰陽連も動かない。というより、届かない」
律人は苦笑した。
「うちは洛環に本拠がある。東国の隅までは目が届かない。東国の北は、名目上は担当だけど、実際は年に一度誰かが回るくらいだ。そこの廃坑まで人を出す余裕はない」
「じゃあ、お前は何で来た」
「非番ではないよ」
律人は羽織の紋に指を触れた。
「公務だ。ただし、僕が申請して、僕が通した」
「通ったのか」
「思ったより、あっさりとね」
律人は少し間を置いてから、続けた。
「うちの家が推してくれた。天羽の。それと母方の紙屋も」
「なぜだ」
「僕の術で片づけば、実績になるからだ」
律人はあっさり言った。
「斎宮の家は昔から僕の術を嫌ってる。妖怪を型に押し込むのは道理に外れてる、いつか報いが来ると。言われ続けてる」
「聞いた」
「だから、数を積むしかない。あそこで何人助けた、あそこで何を片づけた。そういうものを積み上げていけば、いずれ黙る」
律人は湯呑みを回した。
「使われてるのは分かってる。家にとって、僕は駒だ」
「それでいいのか」
「よくはない」
律人は湯呑みから目を上げた。
「でも、駒でいるあいだは、行きたいところに行ける。誰も行かない場所へ、公務として行ける」
律人は書付を畳んだ。
「無宿人が何人消えても、誰も来ない。でも僕が申請すれば、僕が行ける。それなら、使われてる甲斐があるだろう」
この男は、そういう理屈で動く。
「危ないぞ」
「だから朔を誘ってる」
「そうか」
朔は湯呑みを置いた。
「受ける」
「助かる」
律人は頭を下げた。
「報酬は陰陽連から出る。相場通りだ」
「値切らんのか」
「値切ったら、次に来てくれなくなる」
律人は笑った。
二 瑛沢
瑛沢に着いたのは、四日目の昼過ぎだった。
山襞の奥にある谷で、周りに何もない。道は途中から沢沿いの細道になり、荷車は通れなくなる。二十年以上前まで、ここから瑛鉄を運び出していたという。
谷に入った瞬間、朔は足を止めた。
「どうした」
「濃い」
朔は目を閉じた。
深沢の谷より濃い。境州の山間より濃い。溜まっているのではなく、澱んでいる。風が通らない地形で、瑛輝が何十年も抜けずにいるのだ。
「律人。手袋はあるか」
「あるけど」
「つけとけ」
「なんで」
「触るな、というだけだ」
坑口は、谷の一番奥にあった。
木枠が組んであるが、半分朽ちている。入口は人の背丈より少し高いだけで、幅は二間ほど。奥は真っ暗だった。
坑口の前の地面に、黒い染みが広がっている。
朔はしゃがんで、指先を近づけた。触れずに、一寸ほどのところで止める。
それでも、指先が痺れた。
「これは」
律人が覗き込んだ。
「残滓だ」
朔は手を引いた。
「坑の中の瑛輝が、二十年かけてここまで滲み出してる。触るとしばらく指が動かなくなる」
「……人体に影響が」
「ある」
朔は立ち上がった。
「長くいれば体を壊す。だから坑夫は昔から、年季で辞めるか、体を壊して辞めるかのどちらかだった」
「ここに住み着いてる人たちは」
「壊れてるだろうな」
坑口から少し離れた斜面に、小屋が並んでいた。小屋というより、掘っ立てだ。板を立てかけただけのもの、土を掘って屋根をかけただけのもの。
十戸ほど。人の気配はある。
朔が近づくと、一つの小屋から人が出てきた。
老人だった。いや、老人に見えただけかもしれない。顔が黒く、皺が深く、歳の見当がつかない。
「誰だ」
「宵士だ」
朔が答えると、老人の目が動いた。
「宵士」
「人が消えてると聞いて来た」
老人は朔の顔をじっと見てから、律人に目を移した。羽織の紋に気づいて、少し後ずさる。
「お役人か」
「違う。陰陽連だ」
律人が前に出た。
「消えた方について、お聞かせ願えませんか」
老人は答えずに、小屋に入ってしまった。
「……嫌われたな」
「当然だ」
朔は小屋の板戸を見た。
「二十年、誰も来なかった。今さら来たやつに何を話す」
朔は小屋の前にしゃがんだ。
「爺さん。中に何がいる」
返事はない。
「奥へ行った者が戻ってこないんだろう」
やはり返事はなかった。
朔は立ち上がろうとした。
その時、板戸の隙間から声がする。
「……十四人だ」
朔は動きを止めた。
「十四人?」
「数えとった」
老人の声は低かった。
「役人は数えん。だから、こっちが数えとった」
「いつからだ」
「去年の秋から」
「今は」
「八月だ」
板戸の向こうで、老人が息を継ぐ気配があった。
「三人までは、山で死んだと思うた。次の三人で、おかしいと思うた。そこから先は、誰も奥へ行かん」
「奥というのは」
「坑の奥だ」
板戸の向こうで、身動きする音がした。
「昔は、奥まで掘っとった。落盤で埋まっとるところもあるが、まだ通れる。銅の屑や、置き去りの道具が残っとるんでな。それを拾って、里で売る」
「今は行かないのか」
「行かん」
「じゃあ、どうやって食ってる」
返事がなかった。
朔は答えを待たずに立ち上がった。
「入る」
律人が驚いた顔をした。
「今からか」
「日が落ちる前のほうがいい。坑の中は関係ないが、出てくる時に明るいと助かる」
朔は坑口へ歩いた。
「律人。灯りを用意しろ」
「ああ」
律人は懐から札を出した。指で挟むと、札の先に小さな火が灯る。火は手の中で浮いていた。
「それで足りるか」
「足りないな」
律人がもう二枚出すと、三つの火が律人の周りを漂いはじめた。
朔は坑口をくぐった。
振り返ると、律人が眩しそうに目を細めながら、火の位置を調整している。
朔には、明かりが要らない。
坑の中は暗い。だが、輪郭は見える。壁の凹凸も、足元の枕木も、天井から垂れた水の筋も見えている。
律人には見えていない。だから火が要る。
三 坑内
坑道は、思っていたより狭かった。
高さは六尺ほど。朔は屈まずに歩けるが、肩幅の広いところでは壁に触れる。幅は二間もない。
枕木が敷いてあった跡があり、二十年で腐って半分土に還っていた。
百歩ほど進んだところで、朔は足を止めた。
試しに、掌の前の空気を圧してみる。
圧せた。一尺、いつも通りに。
問題は、その先だった。
朔は足元に足場を作ろうとして、やめた。
この狭さでは、跳んでも天井に頭をぶつける。跳ばずに走るほうが速い。
そして、破裂音。
狭い坑道で空気を破裂させれば、音が前後に反射して延々と鳴り続ける。自分の位置を教えるだけでなく、耳がやられる。
朔は掌を下ろした。
使えない。
「どうかしたか」
「足場が使えん」
「跳べないのか」
「跳べるが、意味がない」
朔は歩き出した。
「一尺の中でやるしかない。いつも通りだ」
律人は坑道の壁に目をやってから、口を開いた。
「僕も、出せないな」
「何がだ」
「使い魔だ」
律人は天井を見上げた。
「大きいのは無理だ。牛頭鬼は九尺ある。ここでは肩も入らない」
「他は」
「以津真天は羽を広げる場所がない。蛟は長すぎる。雷獣は狭いところで撃つと、こっちにも来る」
「鎌鼬は」
「あれは狭いところなら出せる。ただ、斬るだけだ」
律人は火の一つを前へやった。
「大した戦力にはならない」
「二人とも手を縛られてるわけだ」
「そうだね」
律人は苦笑した。
二人は奥へ進んだ。
二百歩ほどで、坑道が二つに分かれた。朔は瑛輝の濃いほう、右を選んだ。
道の脇に、物が落ちている。
欠けた椀。草履の片方。焚き火の跡。
「ここまでは来てるな」
朔は焚き火の跡に触れた。
「新しくはない。半年か、それ以上だ」
「拾いに来た人たちか」
「そうだろう」
さらに進むと、落盤の跡があった。
天井が崩れて、土と岩が坑道の半分を塞いでいる。残った半分は、人一人が屈んで通れるほどしかない。
「ここが境か」
朔は屈んで、その先を覗いた。
「爺さんの言ってた『奥』ってのは、ここから先だな」
「行くのか」
朔は答える代わりに、先に潜った。
抜けた先の坑道は、それまでと様子が違っていた。
瑛輝が濃い。目を閉じなくても、皮膚で分かる。
そして、静かだった。
水が垂れる音がしない。それまでは、どこかで必ず滴る音がしていた。ここにはない。
「律人」
「なんだ」
「音がしない」
律人が耳を澄ませた。
「……本当だ」
「水は上から下へ落ちる。落ちないってことは、どこかで止めてる」
「止める?」
「あるいは、飲んでる」
律人が朔の横顔を見た。
朔は前を向いたまま歩き出した。
物語はまだまだ続きます。ブックマークで続きを追いかけていただけると幸いです。




