021 第七話 牛鬼(一) 昼から飲む男
一 昼の酒
蔵都の裏通りに、昼から開けている店があった。
間口が狭く、看板も出ていない。中は薄暗く、卓が三つしかない。夜になれば人が入るのだろうが、この刻限に飲んでいるのは朔だけだった。
肋はまだ完全には繋がっていない。深く息を吸うと、右の脇腹に芯の残った痛みが走る。
弥左衛門が手配した医者は腕がよく、そして口うるさかった。三月は安静に、酒は控えよと言われている。
三月はかからない。
口には出さなかったが、朔には分かっていた。折れた三本は、あと半月もすれば繋がる。宵士の体はそういうふうに出来ている。傷が塞がるのも、骨が繋がるのも、人間よりずっと早い。
便利なようで、そうでもない。
早く治るということは、それだけ多く怪我をするということでもある。二十年で、切られた数も折った数も数えていない。数えても意味がないと気づいてから、数えなくなった。人間なら一生に一度の怪我を、この体は年に何度もやる。
そして、医者にそれを説明できない。
三月と言われれば、そうかと答えるしかない。ふた月で動き出せば、無茶をする患者だと思われる。実際には、ふた月あまりで治ってしまう。
朔は猪口を傾けた。
酒を控えよという指示だけは、守る気がなかった。
懐は温かい。櫛名討伐の報酬は、これまで受けたどの依頼よりも大きかった。瑛丹を買い足しても、当分は減らない額が残っている。
だから、こうして昼から飲んでいられる。
やることがない。
傷が治るまで、重い仕事は受けられない。軽い仕事を探して回るほど金に困ってもいない。宿で寝ているのも性に合わない。
それで、店に来た。
猪口を置いて、朔は指で卓を叩く。
考えているのは、浪都のことだった。
鷺宮は、朔の戦い方を知っている。接近戦を得手とすることを、ある筋から聞いたと言った。
朔の戦い方を知っている者は、指で数えられるほどしかいない。浪都の城を出た時にも、同じ指を折った。
同業ならどうか。宵士は十七人。散って動いているが、顔を合わせることはある。誰かが朔の戦い方を知っていて、酒の席で話したのかもしれない。それが回り回って浪都まで届いた。
朔は、折った指を一本ずつ開いた。
「――ってぇ!」
表で誰かが転んだ音がした。
それから、戸が開いた。
「よお!」
入ってきた男は、頭から埃をかぶっていた。
背が高い。朔より頭半分ほど大きい。肩幅があって、袖をたくし上げた腕が太い。髪は短く、後ろのほうがはねている。鼻の頭に擦り傷があった。
「凱か」
「探したぞ。三軒目だ」
凱はそう言って、朔の向かいにどかりと座った。卓が揺れた。
「今、転んだろう」
「敷居が高かった」
「敷居は高くない」
「じゃあ俺の足が長かったんだな」
凱は手を上げて、店の女に酒を頼んだ。頼み方が大きい。
「聞いたぞ。大蛇やったんだってな」
「やった」
「境州の、七体の一角だろ。すげえじゃねえか」
「運がよかった」
「運で七体は死なねえよ」
凱は運ばれてきた徳利を、自分の猪口に手酌で注いだ。半分こぼした。
「で、どこ怪我した」
「肋だ」
「三本くらいか」
「よく分かるな」
「顔でだいたい分かる」
凱は猪口を空けた。
「それでな」
「なんだ」
「美味い話を持ってきてやった」
朔は猪口を置いた。
「傷が治ってない」
「治るだろ、そのうち」
「そのうちだ」
「じゃあ話だけ聞け」
凱は身を乗り出した。
「東の海沿いだ。廻船問屋が困ってる。船がやられてる」
「妖怪か」
「牛鬼だってよ」
朔は眉を寄せた。
「牛鬼」
「知ってるか」
「聞いたことはある。見たことはない」
「俺もねえ」
凱はあっさり言った。
「だからいいんじゃねえか」
「よくない」
「よくあるだろ」
凱は徳利を傾けた。今度はこぼさなかった。
「報酬が八十両だとよ」
朔の手が、猪口の上で止まった。
「八十」
「船が三艘やられてる。荷ごとだ。四艘目が沈む前に片づけたいんだと」
「一人でやればいいだろう」
「一人だと燃費が悪ぃんだよ」
凱は自分の腹を叩いた。
「俺の術は撃つのは得意だが、長いのは駄目だ。海の上で長引いたら勝てねえ。お前が一緒なら、ちゃちゃっと終わる」
「ちゃちゃっとな」
「そうそう」
朔は猪口を回した。
傷は完治していない。痛むのは深く息を吸った時だけで、動けないほどではない。
それに、やることがない。
「折半か」
「四十ずつだ」
「お前が取ってきた話だろう」
「取ってきただけだ。やるのは二人だ」
凱は当たり前のように言った。
朔は猪口の底に残った酒を眺めてから、頷いた。
「やる」
「よし!」
凱が卓を叩くと、今度は徳利が倒れた。
朔は倒れた徳利を起こしながら、目の前の男を見た。
凱は、いつもこうして仕事を持ってくる。
三年前も、五年前もそうだった。朔のほうから誘ったことは、思えば一度もない。
理由を訊いたことはない。訊いても、答えられないだろう。
二 凱という男
翌朝、二人は東へ向かった。
街道沿いに三日ほど歩く。凱はよく喋る。喋りながらでも歩く速度が落ちないので、朔は黙って聞いていればいい。
二日目の昼、峠の茶屋で休んだ時だった。
朔は懐から紙包みを出して、中の粒を一つ口に入れた。
「なんだそれ」
「瑛丹だ」
「ああ、あれか」
凱が覗き込んだ。
「いくつ持ってる」
「四つ」
「多いな」
「多くない」
朔は水で流し込んだ。
「お前は」
「持ってねえ」
朔は湯呑みを置いた。
「一つも持ってないのか」
「持ってねえよ」
「なんでだ」
「高いだろ」
凱は団子を頬張りながら言った。
「一粒五両だぞ。五両あったら飯が何回食えると思ってる」
「死んだら食えん」
「死なねえよ」
「死ぬぞ」
朔の声が、少しだけ低くなった。
「お前の術は燃費が悪い。撃ち切ったら動けなくなる。動けなくなったところを殴られたら死ぬ」
「殴られる前に終わらせるからいい」
「終わらなかったらどうする」
「そんときはそんときだ」
朔は溜息をついた。
「一粒くらいは常備しとけって」
「いらねぇよ」
凱は団子の串を置いた。
「だってあれ不味いだろ」
朔は手を止めた。
「不味い」
「不味いって。なんだあれ、砂と鉄を混ぜて固めたみてぇな味しやがる」
「そんな味はしない」
「するだろ。お前よく平気で飲めるな」
「慣れる」
「慣れたくねえよ」
凱は茶を飲み干した。
「子供かお前は」
「子供じゃねえ。俺のほうが三つ上だ」
「三つ上が不味いから薬を飲まんと言ってるんだ」
「不味いもんは不味い」
凱は言い切った。
茶屋を発ってしばらく歩いたところで、朔は思いついたように訊いた。
「お前、迅天系だよな」
「なんだそれ」
朔は足を止めた。
「知らんのか」
「聞いたことあるような、ねえような」
凱は首を捻った。
「なんかそういう区分けがあるってのは、昔どっかで聞いた気もするけどよ」
朔は歩き出した。
「三つある」
「三つ」
「宵士に埋め込まれてる妖怪の系統だ。剛鬼系、幻狐系、迅天系」
「へえ」
「剛鬼系は鬼だ。膂力と頑丈さが飛び抜けてる。桃がそれだ」
「ああ、あの爺さんか」
凱は納得したように顎を撫でた。
「あれは確かに硬そうだ」
「殴っても死なん」
「殴ったのか」
「殴ってない。そういう話だ」
朔は指を一本立てた。
「幻狐系は狐だ。幻術と狐火。人を惑わすのが得手だ」
「で、迅天系は」
「天狗だ。神通力と、速さ」
「おお」
凱が声を上げた。
「それは俺だな。速えし」
「そこは合ってる」
「他は合ってねえのかよ」
「神通力を撃ち続けて平気なやつは、記録にない」
凱は自分の掌を、裏返したり戻したりした。
「そういうもんかね」
「そういうもんだ」
凱はそれきり興味を失ったらしく、また前を向いて歩き出した。
少し後ろを歩きながら、この男は本当に何も知らないのだと朔は思った。
三系統の話は、宵士なら誰でも知っている。自分が何を埋め込まれた体なのか、何が得手で何が不得手なのか、それを知らずに戦うのは危ない。
だから、誰かが教える。
朔は桃から聞いた。十二か、十三の時。刀を握らせる前に、まずそれを教えられた。お前は狐だ、幻術と狐火が出る、鬼のようには殴れんし天狗のようには跳べん。そう言われた。
凱に教えた者は、いなかった。
誰も拾わなかったからだ。
だから凱は、自分が天狗だということを、四十六になった今も知らない。知らないまま、三十年以上それで戦ってきた。
「なあ」
凱が振り返った。
「なんだ」
「じゃあお前は、狐なんだな」
「記録上はな」
「記録?」
「拠点の焼け跡から、帳面が一冊出てきた。施術を受けた子供のことを書いたやつだ」
朔は前を向いたまま続けた。
「名前は書いてない。施術を受けたばかりの子供には、まだ名前がないからな。番号と、施術した日と、何を混ぜたか。それだけだ」
「じゃあ、どれがお前か分かんねえだろ」
「日付で分かる」
朔の足取りは変わらなかった。
「俺が施術を受けた日に、施術されたのは一人だけだった。その日の欄に、幻狐と書いてあった。爺さんが帳面を探し出してきて、見せてくれた」
「へえ。爺さん、まめだな」
「酒が絡まんことには、まめだ」
凱が笑った。
「だが、幻術はほとんど使えん。狐火が少し出るだけだ」
「じゃあ何なんだよ、お前のあれは」
凱は、朔が空を蹴る動きを手で真似た。
「重さだ」
「重さ」
「引くか、押すか。一尺だけな」
朔は掌を開いた。
「狐の術じゃない。三つのどれにも入ってない」
「へえ」
「桃も見たことがないと言ってた」
「ふうん」
凱の相槌は、それきりだった。
興味がないのだろうと朔は思った。
実際、興味はなかったらしい。凱は半町ほど歩いてから、まったく違うことを言った。
「腹減らねえか」
「さっき食ったろう」
「さっきは昼だ。今は昼過ぎだ」
朔は、返事の代わりに空を見上げた。
この男とは、こういう話を二十年以上している。
初めて会ったのは、二十二年前だった。
街道沿いの町で、宵士が一人捕まっていると聞いた。役人に訊くと、悪漢を半死半生になるまで殴った男だという。悪漢が孤児を足蹴にしたのを見て、気づいたら殴っていた。そう本人が言ったらしい。
朔は金を払って出してもらった。
礼を言われた記憶はない。出てきた凱は、開口一番「腹減った」と言った。
それから二十二年、凱は時々仕事を持ってくる。十年近く顔を見なかった時期もあったが、ある日ふらりと現れて、また持ってくるようになった。
牢から出した恩を返すつもりなのだろう、と朔は思っている。
ただ、凱自身がそう思っているかどうかは分からない。訊いたことはないが、訊けば「そんなこと考えたこともねえ」と言うだろう。
そして、それは嘘ではないはずだ。
拠点が襲われた時、凱は十三だった。朔は十。
三つの差は、あの時は大きかった。十三なら、一人で山を降りられる。食い物を探せる。人に紛れて町に入れる。十ではできない。
朔は桃に拾われて、八年、飯を食わせてもらい、刀の振り方を教わった。
凱は拾われなかった。
一人で生きられる程度には、強かったからだ。
中途半端に強かったから、誰も手を差し伸べなかった。宵士の生き残りを探していた者がいたとしても、自力で歩いている十三の子供は、後回しにされる。
だから凱には師がいない。妖術も剣術も、全部我流だ。
「なあ」
凱がまた振り返った。
「なんだ」
「その大蛇な。どうやって倒した」
「囲まれた」
「囲まれた?」
「胴で円を作られた。逃げ道を全部塞がれて、待たれた」
「うわ。それ嫌だな」
「嫌だった」
「で?」
「胴を足場にして跳んだ」
凱の足が、一歩ぶん遅れた。
「敵を足場にしたのか」
「そうだ」
「それはいいな」
凱はにやりと笑った。
「俺もやろう」
「お前は跳べんだろう」
「跳べるって。ちょっと違うけど」
「全然違う」
凱は声を上げて笑った。
朔は歩き出した。
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