019 第六話 大蛇討伐(二) 見て覚える蛇
四 廃集落
谷の奥に、集落の跡があった。
二十戸ほどあったらしい。屋根はほとんど落ちている。井戸の跡があり、石を積んだ祠が一つ、倒れずに残っていた。
地面が、おかしい。
広場の中央から外側へ向かって、太い筋が何本も走っている。土が押し固められて、幅一間ほどの帯になっていた。何かが繰り返し這った跡だった。
その筋の上に、草が一本も生えていない。
朔は祠の裏に回る。
骨があった。
人のものだった。大人と、子供。数は数えなかった。どれも風化していて、噛み砕かれた跡がある。
「……ここで」
梓が口元を押さえた。
「逃げなかった連中だ」
朔は立ち上がった。
「逃げた連中は、逃げた先で死んだかもしれん。それは分からん」
広場の中央に、それはいた。
とぐろを巻いている。とぐろだけで、朔の背丈より高い。鱗が鈍く光っている。灰色がかった緑で、一枚一枚が掌ほどの大きさだった。
上半身はとぐろの中心から起き上がっていた。
女の形をしている。腕が六本あった。上に二本、真ん中に二本、下に二本。すべて鱗に覆われている。顔は整っていたが、目が細く裂けていて、瞳が縦に長い。口が耳の下まで裂けていた。
全長は目算で十間はあった。上半身だけで二丈近い。
櫛名が、こちらを見た。
「人間」
声は低く、掠れていた。
「珍しい。誰も来なくなって、久しい」
「討伐に来た」
朔が言うと、櫛名は笑った。裂けた口がさらに開いた。
「討伐」
「幕府の依頼だ」
「幕府」
櫛名は繰り返した。侮蔑の響きがあった。
「群れなければ何もできぬ者どもが、遠くから紙切れを送りつけて、何を討つというのか」
六本の腕が、ゆっくりと動いた。
「ここに何があったか、見えるか」
櫛名は周囲の廃屋を示した。
「人間が住んでいた。逃げた者も、逃げなかった者もいる。逃げなかった者を、わたしは喰った。逃げた者は放っておいた。それだけのことだ」
「理由は訊いてない」
「理由などない」
鱗の擦れる音が、地を這った。
「下等なものを喰うのに、理由がいるか」
「その下等なものに、あんたはここまで来られてる」
櫛名の目が細くなった。
「口が回る」
「事実だ」
朔は鯉口を切った。
梓が既に高台の斜面に登っているのが視界の端に見えた。
「一つだけ言っておく」
櫛名が首をもたげた。
「わたしは、遠くから撃つ術を持つ者が来ると聞いていた」
朔は動きを止めた。
「誰から」
櫛名には、答える気がないというより、質問の意味を測っているような間があった。
「だが、どちらでもよい」
櫛名はとぐろをほどいた。
「遠くから撃つなら、近づいて潰す。近くで斬るなら、遠ざけて潰す。どちらも同じだ」
地面が揺れた。
五 交戦
最初の一撃は、上から来た。
六本の腕のうち、上の二本が振り下ろされる。朔は横に跳んだ。地面が抉れて、土くれが飛んだ。
着地する前に、矢が来た。
梓の矢が、振り下ろした腕の一本を捉えた。深くは刺さらない。だが、腕がわずかに止まった。
朔はその隙に距離を詰めにかかる。
詰められなかった。
櫛名の胴が動いた。十間の胴体がうねると、それだけで地面が波打つ。足場が崩れ、朔は着地の瞬間に体勢を崩した。
転がって避けた先に、二本目の腕が待っている。
躱しきれなかった。
肩を掠められた。着物が裂けて、熱いものが流れる感触。深くはない。だが、確かに斬られた。
「朔!」
梓の声が飛んだ。矢が続けて放たれ、迫っていた腕の付け根に突き立った。腕が止まる。
朔は距離を取って、肩に目をやった。血が滲んでいる。動きに支障はない。まだ。
「妙だ」
朔は呟いた。
大蛇の間合いは、本来、遠いほうが有利なはずだった。長い胴体で締め上げる、あるいは腕を伸ばして薙ぐ。距離を取られれば、こちらの一尺は届かない。
なのに、櫛名は距離を詰めてくる。まるで、遠間から撃たれることを恐れているかのように。
考える時間はなかった。
櫛名が咆哮した。とぐろがほどけ、胴体全体がこちらへ押し寄せてくる。
朔は跳んだ。空気を圧して蹴る。破裂音。斜め上へ逃げる。
だが、逃げた先の空間そのものが狭かった。廃屋の残骸が周囲に散らばっていて、着地点を選べない。朔は崩れた柱の上に降りて、そのまま体勢を崩した。
膝をついた。
そこへ、三本目の腕が振り下ろされる。
躱す間がなかった。
朔は夜蛭を盾のように構えた。刃で受けた衝撃が、骨まで響く。腕ごと弾き返したつもりが、逆に地面へ叩きつけられていた。
息が詰まった。
視界が一瞬、白くなる。
梓の矢が、朔に迫ろうとしていた四本目の腕を逸らした。
櫛名の動きが、そこで止まった。
止まって、斜面の上を見る。
朔の喉の奥が乾いた。
「――梓!」
叫ぶのと、櫛名が動くのが同時だった。
六本の腕ではない。胴だった。
十間の胴体が、廃屋を薙ぎ倒しながら斜面へ向かって伸びた。折れた柱と屋根板が宙を舞い、そのいくつかが斜面へ飛んでいく。
梓が跳び退いた。
弓を構えたまま、斜面の上を横へ走る。飛来した屋根板が、彼女のいた場所を砕いた。
「あなたを狙うのをやめたわ!」
走りながら、梓が叫んだ。
「知ってる!」
朔は駆け出した。
櫛名は理解していた。自分の腕を止めているのが矢だということを。そして、矢を射る者が斜面の上にいて、そこが動きにくい足場だということも。
弓は距離と高さで成り立つ。高い場所は視界が開ける代わりに、逃げ場が少ない。
櫛名の胴が斜面の裾を大きく削った。
土が崩れる。
梓の足場が、根こそぎ落ちた。
斜面を土砂と一緒に滑り落ちてくる梓を、朔は下で受け止める。二人とも転がった。
「無事か」
「弓は無事」
「お前を訊いた」
「私も無事」
梓は立ち上がりながら、矢筒を確かめた。
「でも、高さがなくなった」
朔は舌打ちをした。
同じ地面に立った以上、梓の射線は限られる。櫛名の胴が壁になれば、それだけで矢は通らない。
そして櫛名は、それを分かってやっていた。
「下等だと言ったな」
朔は櫛名を見上げた。
櫛名の裂けた口が、ゆっくりと開いた。
「下等だ」
六本の腕のうち一本が、地面を軽く叩いた。
「下等だが、面倒だ」
六本の腕が、一斉に動いた。
今度は朔を狙わなかった。
四本が地面に突き立ち、残り二本が廃屋の柱を掴む。そして胴が、二人を囲むように流れた。
円になった。
十間の胴体が、廃村の広場をぐるりと囲んでいる。腕が四方に立ち、逃げ道を塞いでいる。高さは朔の背丈の倍以上。跳べば越えられるが、跳ぶには足場を作る一拍が要る。
その一拍を、櫛名は待っていた。
「跳べ」
櫛名が言った。
「音がする。どこへ跳ぶか分かる」
朔は動けなかった。
図星だった。
空気を圧して蹴る跳躍は、蹴った瞬間に行き先が決まる。途中で曲げられない。そして必ず、破裂音が鳴る。
二十年、それで困ったことはない。人間相手なら速さで勝てたし、妖怪相手なら音を聞き分ける耳を持たないものがほとんどだった。
この蛇は、二度見て覚えた。
梓が背中合わせに立つ。
「どうする」
「考えてる」
「早くして」
「ちょっと待てよ」
櫛名の腕の一本が、内側へ振られた。
朔は梓を突き飛ばして、自分は逆へ転がった。腕が地面を薙ぎ、土が飛んだ。
起き上がった時、梓との距離が離れていた。
櫛名は、それも分かってやっている。
二本目の腕が、梓のほうへ伸びた。
梓が矢を射た。腕の関節に刺さる。動きが鈍る。だが止まらない。
朔は跳んだ。跳ぶしかなかった。
破裂音。
跳んだ先に、三本目の腕が待っている。
躱せなかった。
脇腹に入る。
息が完全に止まった。体が宙を飛び、囲いの内側の地面に叩きつけられる。何度か跳ねて、廃屋の残骸に突っ込んだ。
崩れた木材と土埃の中で、朔は身じろぎもできなかった。
視界が暗い。耳の奥で自分の心臓の音だけが聞こえる。
息をしようとして、できなかった。
肋が折れている。
それを理解するのに、少しかかった。
「朔!」
梓の声が遠い。
朔は腕だけで体を押し上げた。横腹が焼けるように痛む。口の中に鉄の味がした。
立った。
視界の隅が、白く滲んでいる。
櫛名は追ってこなかった。
囲いを保ったまま、ただ見ている。
そして朔は、初めて理解した。
この蛇は、急いでいない。
囲って、待って、跳べば叩き落とす。待っていれば、こちらの瑛輝は減り、矢は尽き、血は流れ続ける。急ぐ理由がどこにもない。
櫛名はずっと、そうするつもりだった。
「久しぶりだ」
櫛名の声には、愉しむような響きがあった。
「人間が二人で来たのは。いつも一人で来て、一人で死ぬ」
「何人来た」
「数えていない」
櫛名は首を傾げた。
「みな、同じことをした。遠くから撃つか、近くで斬るか。どちらかしかできぬ」
朔には、答える息がなかった。
自分の中を数える。
瑛輝は、あと二回。跳躍二回か、高出力一回。どちらかだ。
梓の矢は、見た限り七本。
櫛名の腕は、まともに動かないのが二本。残り四本は動く。
囲いがある。跳べば読まれる。走れば胴が締まる。梓とは離されている。連携は取れない。
届く手が、なかった。
何も、なかった。
朔は立ったまま、動かない。
櫛名も動かない。
風が吹いた。廃屋の残骸が軋む。
三つ数えるほどの間、何も起きない。
その三つのあいだ、朔は初めて、負けるという言葉を頭の中に置いた。
二十年やってきた。何度も死にかけている。だが、手がないと思ったのは初めてだった。
届かない。
どうやっても、一尺に届かない。
――一尺。
朔は、囲いを見た。
十間の胴が、円を描いている。その内側に自分が立っている。
胴までの距離は、二間。
櫛名は、こちらを潰すつもりでいる。待って、弱ったところを締めるつもりでいる。
締めるということは。
朔は、夜蛭を鞘に納めた。
櫛名の目がわずかに細くなった。
「降参か」
「いや」
朔は歩き出した。
跳ばずに、走りもせず、櫛名の胴へ向かってまっすぐ歩いた。
「朔!?」
梓の声がした。
櫛名の腕が動く。叩き潰そうとする動きだった。だが、囲いを保っている腕は動かせない。動くのは内側の二本だけで、その二本は梓の矢に対応するために外側を向いていた。
一拍、遅れる。
その一拍で、朔は胴に手が届く距離まで入った。
一尺。
鱗の表面が、すぐそこにある。
朔は掌を押し当てて、圧した。
跳ぶためではなかった。
十間の胴体は重い。重いものは、押しても動かない。
だから、押すのは自分のほうだ。
朔は胴を蹴った。圧縮した空気を挟んで蹴った。破裂音がして、体が真上へ飛んだ。
跳ぶ場所が地面ではない。櫛名の体そのものだった。
櫛名の読みは、地面から跳ぶことを前提にしていた。
「――!」
初めて、櫛名が声にならない声を出した。
朔は囲いの上へ出る。
そこから、上半身へ向けて跳ぼうとした。
瑛輝は、あと一回。
跳べば、高出力が使えない。
跳ばなければ、届かない。
その迷いを、矢が埋めた。
梓の矢が、櫛名の顔を掠めて飛んだ。
櫛名の首が、反射で逸れる。
わずかに、上半身が傾いた。
朔に向かって、傾いた。
朔は落下しながら、体を捻る。
伸ばした手が、櫛名の肩に届いた。
掴んだ。
一尺。
夜蛭を抜いた。残った瑛輝を、全部叩き込んだ。
体の奥にあったものが、腕を伝って刃へ流れ出していく。折れた肋の痛みが、一瞬だけ遠くなった。耳の中で、自分の鼓動だけが大きく鳴っている。
一瞬だけ、刃の上を、重さが走った気がした。鍔元から、三寸ほど。
振り抜いた刃が、櫛名の首の付け根を通った。
深く入った。
櫛名の体が、大きく傾いだ。
囲いが崩れた。十間の胴が力を失って地面に落ち、土煙が上がる。
朔はその中を落ちて、地面に叩きつけられた。
受け身は取れなかった。
横腹の痛みが、今になって全身に広がっていく。
土煙の向こうで、梓が矢をつがえたまま立っていた。
「朔!」
「生きてる」
朔は地面に手をついたまま答えた。
「立てるか分からんが、生きてる」
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