001 第一話 火車(一) 消えた亡骸
序
蝋燭を絶やすなと言われていた。
与次は経机の脇に座って、炎を見ている。祖母は三日前から息が浅くなり、昨日の夕方に止まった。早桶は座敷の中ほどに据えられ、白い布が掛けられている。中で祖母は膝を抱えて座っている。納める時に見たが、骨と皮ばかりの膝が、思っていたより高い位置にあった。
寺の住職が経を上げて帰ったのが宵の口で、それから誰も来ない。父は隣の部屋で寝ている。明日の朝までは与次の番だ。
炎が短くなれば、継ぎ足す。それだけのことだった。
窓の外は何も見えない。深沢の宿場は谷筋に沿って細長く、家と家の間が詰まっている。夜になれば戸を閉めるので、通りに明かりは出ず、犬も鳴かない。この半年で、夜に出歩く者はいなくなった。
与次は膝を抱える。
祖母は去年の秋まで畑に出ていたが、冬に転んで、それきり床から起きられなくなった。与次が背負って厠へ連れて行くようになってからは、だんだん喋らなくなり、最後の月は、与次の名を呼ぶのにも間が空いた。名を忘れたのではない。思い出すのに時間がかかるようだった。
炎が揺れる。
継ぎ足そうと伸ばした手が、そのまま膝に落ちた。
目を開けると、暗い。
自分がどこにいるのか、最初は分からなかった。膝が冷えている。畳の目が頬に当たっていて、横になっていたのだと知れた。線香が切れて、匂いが薄い。
蝋燭が消えていた。
起き上がって、手探りで火打ち石を探す。指が経机の脚に当たり、それから何もない空間を掻いた。机の上に置いたはずなのに。
そこで、部屋の中ほどが妙に低いことに気づいた。
暗さに目が慣れてくると、白い布が畳の上に広がっているのが見えた。その下にあるべきものがない。早桶は上から押されたように潰れ、箍が外れて、板が扇のように開いている。膝を抱えた祖母の高さが、どこにもなかった。
声を出そうとしても、喉が動かない。
気づくと、天井を見ていた。
なぜ見たのかは分からない。潰れているのだから上だと、体のどこかが判断したのかもしれない。だが天井は抜けておらず、梁も板もそのままだった。
開いた雨戸の隙間から、外が見える。
与次は這って、そこまで行った。
月のない空に、雲があった。雲の縁だけがうっすらと明るく、その上を、四つ足の獣が歩いている。
猫のようだった。大きさは分からない。遠いのか近いのか、判断のつく背景が何もない。足を運ぶたびに雲が沈み、また戻る。踏んでいるのでも乗っているのでもなく、ただそこに足を置いているだけに見えた。
口に白いものを咥えている。
獣が、顔を向ける。
与次のほうへ向けたのだと思った。けれど、そうではないのかもしれなかった。
顔に、目らしいものがなかったからだ。
耳があり、鼻があり、口があって、牙も見える。そこまでは猫だった。ただ、目のあるべきところが、ただの毛だ。窪みも、盛り上がりもない。何もついていない。
獣はしばらくそちらを向いていたが、やがて向き直り、雲の向こうへ歩いていった。
与次はそこに座ったまま、朝まで動かなかった。
父を起こすことも、住職を呼びに行くことも、思いつかないまま。ただ、蝋燭を消してしまったことだけを考えていた。
絶やすなと言われていたのに。
一 依頼
寺は宿場の東の端にあった。
三十ばかりの石段を上りきったところに山門が立っていて、柱の片方は根元が腐り、石で支えてある。境内に人はなく、落ち葉も掃かれていない。
朔は帽子の縁を上げて、本堂の屋根を見た。瓦が三枚ほど欠けている。直す金がないのだろう。あるいは、直しに来る職人が夜の道を通りたがらないか。
本堂の脇の庫裏から、老僧が出てきた。肩のあたりで擦り切れた、墨染めの衣。朔を見て、足を止める。
「宵士の方で」
「朔だ。依頼書を見てきた」
笠でも取るように帽子の縁に手をかけて軽く下げると、老僧は慌てて頭を下げ返した。
「よくおいでくださった。まさか本当に来ていただけるとは」
「近くで一件片づけたところだった。ついでのようで悪いが、足が向いた」
老僧の目が、朔の腰に行った。黒い鞘で、拵えに飾りがない。それから帽子に。つばの広い、この国のものではない形だ。何かを言いかけて、やめた。
「上がってくだされ」
庫裏は暗かった。障子の破れたところに貼った紙も、もう日に焼けている。囲炉裏に火はなく、灰が固まっていた。
「茶も出せんで申し訳ない」
「気にするな」
朔は帽子を取って膝の横に置いた。老僧が向かいに座り、両手を膝に揃える。
「半年になります」
「順に聞かせてくれ。なるべく詳しく」
「初めは、正月の明けてすぐでした。宿場の外れの婆さまが亡くなって、通夜の晩に、仏が消えた」
「消えた、か」
「はい。早桶が上から潰されておりました。屋根は無事です。天井も抜けておらん。ただ、中身だけがない」
老僧の指は震えていなかった。半年のあいだに、この話を何度もしてきたのだろう。
「初めのを入れて、四月のうちに五件。先月に一件。昨夜のが七件目です」
「昨夜か。それはまた」
「与次という若い衆の祖母でしてな。通夜番をしておって、起きたら潰れておったと」
「その子は無事か」
「怪我一つしておりません」
「そいつはなによりだ」
老僧は少し口をつぐみ、言葉を選ぶような間を置いた。
「それが厄介でしてな。誰も死んでおらんのです」
「役人が動かない」
「よくお分かりで」
「よそでも同じ話を聞く」
老僧は苦笑とも何ともつかない顔をした。
「蔵都から回ってきたのは、四件目のあとでした。話を聞いて、書き付けを作って、それで終わりです。生きた者に手は出ておらん、死人が減っただけだ、と。……そう言われると、こちらも何と返してよいか分かりませんでな」
「返さんでいい。返す言葉があるほうがどうかしてる」
老僧が顔を上げたが、朔は囲炉裏の灰を見たまま続けた。
「墓のほうは」
「荒らされておりません。土に入れてしまえば何も起きん。狙われるのは、まだ弔いの済んでおらん仏ばかりです」
「焼いたあとは」
「それも手つかずです」
風が吹いて、破れ障子の紙がわずかに鳴った。
「村では、夜に人が死ぬと困るようになりました。昼のうちに亡くなれば、その日に焼いてしまえる。夜に亡くなると、朝まで持たせねばならん」
老僧は言葉を切った。
「先月、まだ息のある者を焼こうとした家があります。止めましたが」
朔は帽子の縁を指でなぞった。
「止めたのは正解だ」
「正解、とは」
「それが通ってたら、あと二月もしないうちに、ここは人の住む土地じゃなくなってた。そういう宿場をいくつか知ってる」
老僧の喉が、小さく動いた。
「金の話をしよう」
「……二両。それが宿場で集められた全部です」
「二両な」
「足りんことは承知しております」
「足りん」
老僧が身を縮めた。
「はっきり言っとく。相場の半分にもならん。ここで俺が黙って受けると、次にこの近くで似た話が出た時、二両で来る宵士がいると思われる。困るのは俺じゃなくて次の土地だ」
「……はあ」
朔はふうんと喉を鳴らして、少し考えた。
「じゃあ、こうしよう」
指を二本立てる。
「二両は、片がついてからもらう。足りん分は、その時に改めて話す。金じゃなくてもいい。この宿場に出せるもので、俺が受け取る値打ちがあると思えるものなら、それで帳尻を合わせる」
老僧は目を見開いた。
「そんな都合のいい話が」
「都合のいい話だ。俺が損をするだけでな」
朔が笑うと、老僧は笑っていいものかどうか迷う顔をしたあと、額が畳につくほど頭を下げた。朔は止めなかった。二両しか出せない土地の人間にできるのは、頭を下げることくらいだ。それを取り上げるものではない。
「ありがとうございます。……それで、あの」
身を起こした老僧が、少し迷ってから言った。
「差し支えなければ、お歳は」
「四十三」
老僧は朔の顔を見直して、目を伏せた。
「これは、失礼を」
「気にせんでいい。よく訊かれる」
朔は帽子を取り上げて、膝の埃を払った。二十代の半ばに見えると言われることが多い。そういうふうに出来ている、というだけの話だ。
「案内を一人つけてくれ。昨夜の若い衆がいい」
「与次を。しかしあれは、まだ気が立っておりまして」
「一番新しいものを見てる。それに」
立ち上がりながら、朔は続けた。
「家で一人にしとくより、歩かせたほうがいい。こういうのはな」
老僧は口を開きかけて、閉じた。
「あれは、猫のようなものを見たと申しております。空を歩いておったと」
「そう聞いた」
「宵士どのは、そういうものをご存じで」
帽子を被ると、つばの下で老僧の顔が半分隠れた。
「知らんものを知ってると言う商売じゃない。見てから考える」
老僧はそこで、また何か言いかけて口を閉じた。
「なんだ」
「……いえ」
「言ってくれ。外れてても構わん。当てずっぽうでいい」
「いえ。確かめもせずに口にしてよい名ではありませんので」
半年のあいだ震えなかった老僧の指が、その時だけ、わずかに震えていた。
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