017 第五話 潮洲(三) 山二つ向こうの村
六 集落
山を二つ越えるのに、丸一日かかった。
道はあった。獣道ではなく、人が踏み固めた道だ。ただし荷車は通れない。十五年代官が来ていないというのは、本当らしかった。
集落は谷あいにあった。
三十戸。数えてみると二十六戸だった。田は狭く、段になっている。畦が崩れたままのところが何箇所かあった。
朔が入っていくと、人が出てきて、すぐ引っ込んだ。
子供がいない。
一町歩いて、一人も見なかった。
朔は一番大きい家の前で足を止めた。庄屋の家だろう。土間に老人が座っている。
「宵士だ。少し話を聞きたい」
顔を上げた老人の顔色が、変わった。
「宵士どの」
「妖怪のことで来た」
老人の肩が落ちた。落ちた、と分かるほどはっきりと落ちた。
「……そうでございますか」
朔は上がり框に腰を下ろした。
「山で狸が四匹消えてる。三月でだ」
「はい」
「知ってるのか」
「はい」
老人は畳に手をついた。
「お許しくださいませ。村の者がやりました」
あっさり出た。
隠す気がなかったというより、隠す気力がなかったように見えた。
「なぜだ」
「食うためでございます」
「狸を食ったのか」
「いえ」
老人は首を振った。
「売りました」
朔は黙った。
「三年前から、商人が参ります。年に二度、多い年は三度」
「何を買っていく」
「妖怪でございます」
老人の声は、乾いていた。
「牙でも、爪でも、骨でも、皮でも。生きたままなら、なお高いと」
「いくらだ」
「二両から、五両ほど」
朔は土間の隅に目をやった。米俵が三つ積んである。庄屋の家に、三つしかない。
「その金で」
「米を買います。稗も。去年は塩も買えました」
老人の目は、畳に落ちたままだった。
「十五年、代官は参りません。年貢の取り立ても参りません。ですから、こちらから出すものもございません。……よそからは、そう見えましょう」
「見える」
「よそから見れば、忘れられた村は気楽でございましょうな」
老人は畳の目を指でなぞった。
「忘れられた村には、何も来ないのです。代官も来ませんが、飢饉の年に蔵も開きません。橋が落ちても、誰も直しに来ません。医者もおりません」
老人の指が、畳の上で止まった。
「三年前の凶作で、七人死にました。そのうち四人は子供です」
「今、子供は」
「九人おります」
老人は初めて顔を上げた。
「三年前は二十二人おりました」
朔は立ち上がった。
「その商人は、今どこだ」
「……三日前から、村の外れの小屋におります」
「案内しろ」
小屋は物置だった。
中に男が一人いた。四十前後で、身なりは村の人間よりずっといい。朔が戸を開けると、男は飛び上がった。
朔は名乗らなかった。腰の刀を見せただけ。
男は膝から崩れた。
「た、助けてください」
「何も訊いてない」
「わたしは、その、雇われているだけで」
男は手を突いた。
「もともと浪都の妖物商で使用人をしておりました。目利きはできます。それで独り立ちしようとして、鑑札が下りませんで」
訊いていないことを喋り続ける。
凄みも度胸もない男だった。悪党というより、悪党になり損ねた男に見えた。
「素材はどこへ流す」
「湊で、人に渡します」
「誰に」
「知りません。本当に知りません。名前も聞いておりません。月の決まった日に、決まった舟が来ますので、それに積むだけで」
「どこの舟だ」
「分かりません。帆に紋はございません」
「東か西か」
「……東から来て、東へ帰ります」
男はそう言って、また手をついた。
「妖血丹というものを知ってるか」
男の顔が、はっきり変わった。
「知っております」
「作ってるのか」
「作りません。作れません。あれは血を扱いますので、わたしのような者には」
「流したことは」
「……ございます。二度」
「誰に」
「同じ舟でございます」
朔は男を縛った。
村の者が集まってきている。老人が前に出た。
「宵士どの」
「なんだ」
「村の者は、どうなりましょう」
朔は縄を結ぶ手を止めなかった。
結び目を一つ締めてから、顔を上げた。
「この男は幕府に引き渡す。鑑札のない妖物商だ。裁くのは町方の仕事だ」
「村は」
「俺は決めない」
老人が目を伏せた。
「決めるのは、この島を預かってる者だ」
朔は集まった村の者たちを、一人ずつ見た。
「俺はそこへ行って、見たことを話す。四匹が消えたのも話すし、二十二人が九人になったのも話す。どっちも話す」
「……お慈悲を」
「慈悲じゃない」
朔は縄を締めた。
「起きたことを、起きたまま話すだけだ」
七 含み
金長は浜にいた。
朔が縛った男を引いて戻ってくると、金長は男を一瞥しただけで、朔のほうを向いた。
「四匹は」
「殺された。売られた」
「誰にだ」
「集落の人間が獲って、この男に売った。この男は東へ流していた」
金長は目を閉じた。
腕を組んだまま、波の音だけを聞いているようだった。
「……そうか」
「この男は幕府に引き渡す。鑑札がない。裁く筋がある」
「その男の話はよい」
金長は目を開けた。
「集落はどうする」
「あんたが決めることだ」
「ワシが焼くと言ったら」
「止める理由が俺にはない」
朔は金長から目を逸らさなかった。
「あんたの領内で、あんたの民が四匹殺された。始末をつけるのはあんただ。俺は東の人間だが、東の人間だからといってあの村を庇う筋はない」
金長の目は、朔から動かない。
「ただ、伝えることがある」
「言え」
「あの村は三年前の凶作で七人死んでる。子供が二十二人から九人に減った。十五年、代官が来ていない。年貢も取られていないが、蔵も開かない。橋も落ちたままだ」
朔は一度、息を継いだ。
「狸を売った金で、米と塩を買っていた」
波の音が続いている。
「……それを、ワシに言うか」
「起きたことだ」
「庇っておるのではないのか」
「庇ってない」
朔の声は平らだった。
「四匹を殺したことと、二十二人が九人になったことは、別の話だ。片方を理由にもう片方を消すことはできん。両方起きてる」
金長は長いこと、砂を見ていた。
それから、腹の前で腕を組み直した。
「宵士どの」
「なんだ」
「ワシは百年、この島を預かっておると言うたな」
「言った」
「百年預かっておって、山二つ向こうの村が飢えておることを、ワシは知らなんだ」
金長は海を見た。
「化かす側の頭が、聞こえなんだ」
朔は黙っていた。
「焼かん」
金長の声に、迷いはなかった。
「焼いたところで、四匹は戻らん。それに、焼けばワシは自分の落ち度を焼いて消すことになる。それは、みっともない」
「そうか」
「ただし、次はない。次に手を出せば、その時は焼く。そう伝えろ」
「伝える」
「それと、米を回す」
朔は金長の横顔を見た。
「潮洲には余っておる。ワシの領分には妖怪も人間もおるが、どちらも飢えておらん。山二つ越えるくらいなら、荷駄が出せる」
「……あんたは、それでいいのか」
「よくはない」
金長は鼻を鳴らした。
「だが、飢えた者が近所におると、また同じことが起きる。起きんようにするのが、統べる者の仕事だ」
金長は朔に向き直った。
「話は聞こう」
「櫛名の件か」
「そうだ。ワシのほうから幕府へ使者を出すのは筋が違う。東から正式に寄越せ。ワシは受ける用意がある」
「伝える」
朔は頭を下げた。
小舟の支度ができるまでのあいだ、金長は浜に立っていた。
空が白みはじめている。
「宵士どの」
「なんだ」
「一つ、余計なことを言う」
金長は海を見たまま言った。
「浪都の大名な」
朔は金長のほうへ首を巡らせた。
「鷺宮か」
「そうだ。あれの評判は、ここまで届いておる」
金長は顎を撫でた。
「よい評判ばかりだ。飢饉に蔵を開けた、水路を引いた、町が豊かになった。悪いことは一つも聞かん」
「実際、そうらしいな」
「うむ」
金長は少し間を置いた。
「ワシは化かす側だ。百年やっておる」
「ああ」
「よい話ばかりが揃うのは、出来がよすぎる」
朔は金長を見た。
「疑ってるのか」
「疑ってはおらん」
金長は首を振った。
「出来がよすぎると思うだけだ。本当によくできた男なのかもしれん。ワシは会ったことがないのでな」
「それだけか」
「もう一つある」
金長は朔のほうを向いた。
「境州の話が、浪都にはやけに早く届く」
朔は眉を寄せた。
「早い、というのは」
「ワシのところに入る話と、浪都に入る話を比べると、浪都のほうが半月ばかり早い」
金長は海の向こうを顎で示した。
「ワシは潮洲で、境州とは海を挟んで向かい合っておる。浪都は境州から陸で遠い。普通なら、ワシのほうが早いはずだ」
「……そうだな」
「それだけだ」
金長はそう言って、話を打ち切った。
「別に、どうということではない。商いの筋が太いだけかもしれん。西の商人が浪都へ集まっておるという話もある」
金長は浜を歩き出した。
「ワシは解釈をせん。見たままを言うただけだ。どう取るかはお主の勝手だ」
朔は浜に立っている。
小舟が来た。水主が二人、潮洲の人間だった。
朔は乗り込んで、沖を見る。
言われたことを、順に並べ直した。
評判がよすぎる。話が届くのが早い。
どちらも、悪いことではない。よく治まっている土地の話と、商いの盛んな町の話だ。どちらも、あの水路の澄んだ町と、行列のできる米屋と、十四人の子供に繋がっている。
繋がらないものが、一つだけあった。
上段の後ろに立っていた女。
足音がしなかった。
舳先が波を割っていく。
評判のことも、女のことも、確かめようがなかった。
第五話「潮洲」はこれで完結です。
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