016 第五話 潮洲(二) 乙姫と狸
四 乙姫
少女だった。
十七か十八に見える。長い髪が、水の中にいるようにゆっくり漂っている。ここに水はないのに、髪だけが水の中にあった。
薄い布を幾重にも重ねたものを羽織っている。布は床に届かず、裾のあたりで光を透かしていた。
少女が顔を上げた。
「まあ」
少女は椅子から立った。
「本当にいらっしゃった」
声は高くない。落ち着いていて、少し嬉しそうだった。
「わたくしが乙姫でございます。ようこそおいでくださいました」
言い終えると、朔の肩越しに、背中の亀を覗き込んだ。
「まあ。担いでいただいたのですか」
「……面目……次第も……ございません……」
「この前お客様がいらっしゃった時は、もう少し早く歩いていたと思うのですけれど」
「……最後に……お客様を……背に……お乗せしたのは……数百年ほど……前に……ございますゆえ……」
「あら、そうだったでしょうか」
乙姫は小首を傾げる。
朔は膝をつきかけて、やめた。作法がわからなかった。
「朔だ。宵士をやってる」
「存じております」
乙姫が台を下りてくる。歩いているのに、足音がしない。
「浪都の湊から出られた時から、存じておりました。海のことは、だいたい分かりますので」
「じゃあ、あれは迎えか」
「はい」
乙姫は頷いた。
「お怪我はございませんか。あの子、加減が下手で」
「あの子」
「海坊主と呼ばれているようですね」
乙姫は困ったように、指先を頬に当てた。
「わたくしは名をつけておりません。水と石を集めて作るだけのものですから、壊れたらまた作ります。何度も作り直しているので、どれに名をつけてよいか分からなくなってしまって」
「傀儡か」
「そう呼ぶのですね。便利な言葉です」
乙姫は微笑んだ。
「斬られたと聞きましたが、お気になさらないでください。あの子は痛みませんし、悲しみもしませんので」
「船を沈めたのも、あれか」
「沈めました」
乙姫はあっさり言った。
「沈められると困りますか」
「困る」
「そうですか」
乙姫は考えるように目を伏せた。
「近づいてくるものを止めるように言いつけてあります。あの子は言いつけ通りにしか動けませんので、止まらないものは沈めます。加減ができないのです」
「人が乗ってる」
「はい」
「死んでる」
「はい」
乙姫は朔をまっすぐに見た。
悪びれてもいないし、開き直ってもいない。朔が何を問題にしているのかが分かっていない、という顔だった。
「あの、申し訳ないのですが」
乙姫は控えめに切り出した。
「お話を伺ってもよろしいでしょうか。遠くからいらしたのでしょう」
朔は息を吐いた。
深追いはしないことにした。分からないものを、こちらの物差しで測っても仕方がない。
「幕府の使いだ。正確には使いじゃないが、頼まれて来た」
「幕府」
「人間の、東側を治めてる連中だ」
「ああ、東の」
乙姫は頷いた。
「用件は」
「境州の櫛名を討つ。その時、潮洲が境州の側につかないでほしい。できれば手を貸してほしい」
乙姫の顔から、表情が少し抜けた。
関心がなくなった顔だった。
「わたくしは、陸のことには」
「あんたは陸にいないのか」
「海におります」
「じゃあ、海の話をする」
朔は一歩、乙姫のほうへ寄った。
「櫛名が落ちれば、境州は二体になる。鬼と妖狐だ。二体は仲がいいわけじゃない。今まで三体が睨み合って動けなかったのが、二体になれば話が変わる」
「変わりますか」
「変わる。どちらかが伸びる。伸びたほうは、次に手を出す先を探す」
乙姫の髪が、ふわりと揺れた。
「海に」
「北から回れば潮洲に届く。海路を押さえられれば、あんたのところの傀儡が何体いようが、押し合いになる」
乙姫は広場の床に目を落として、何か数えるように唇を動かした。
「なるほど」
それから、顔を上げた。
「では、条件がございます」
「言ってくれ」
「茸を」
朔は聞き返した。
「茸」
「はい」
乙姫は両手を胸の前で合わせた。
さっきまでとは、まるで違う顔をしていた。
「以前いらしたお客様が、手土産に陸の食べ物をいろいろとお持ちくださいまして。中でも、茸ほど素晴らしいものはございません。あの香りは海では決して出せないのです。干した椎茸を水で戻した時の、あの、なんと申しましょうか、出汁というよりもっと奥のほうから出てくるような」
「待て」
「舞茸は歯応えがまるで違いますし、松茸はもう別格でございます。それに、あの見た目! 傘があって軸があって、どうしてあのような形をしているのでしょう。海にはあのような形のものがおりません。珊瑚は近いようで違います。あれは動きませんが生きておりますし、茸も動きませんが」
「乙姫」
「はい」
「条件は、茸でいいのか」
乙姫は我に返ったように背筋を伸ばした。
「失礼いたしました。……はい。幕府から、定期的に、多種多様な茸を大量に献上していただければ」
「それだけか」
「それだけです」
朔は額に手を当てた。
「量は」
「多いほうが嬉しいです」
「種類は」
「多いほうが嬉しいです」
「……分かった。伝える」
「ありがとうございます」
乙姫は深く頭を下げ、上げてから、思い出したように付け加えた。
「あの、それでしたら、狸のところへも行かれたほうがよろしいかと」
「狸」
「金長という方です。陸を治めておられます。わたくしは海だけですので」
「会えるか」
「わたくしから話を通しておきます」
乙姫は広場の端を指した。
「あちらから上がれます。あの子が送りますので」
朔はそちらへ目をやってから、乙姫に向き直った。
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「ここは何だ」
乙姫は広場を見回した。
「さあ」
「さあ」
「わたくしが来た時には、もうありました」
乙姫は柱の並ぶほうを見上げた。
「わたくしどもが生まれるよりも、ずっと昔からあったようです。詳しく調べていないので、よく分かりません。ただ、住みやすいので住んでおります」
「調べていないのか」
「はい」
「気にならんのか」
「あまり」
乙姫は微笑んだ。
「それより、茸のほうが気になります」
朔は何も言えなかった。
五 隠神刑部
潮洲の浜に着いたのは、夜明け前だった。
海坊主は朔を砂の上に降ろして、そのまま沖へ沈んだ。
浜には人影がある。人ではなかった。
狸だった。
後ろ足で立って、陣羽織を着ている。背丈は一丈近い。腹が出ていて、陣羽織の前が閉まっていなかった。腕を組んで立っている姿は、それなりに堂々としている。
左右に、小さいのが六匹ばかり控えている。四つ足だったり二本足だったりまちまちで、見張りというより見物に見えた。
「よく来たな」
声が低い。腹から出ている。
「ワシが隠神刑部だ」
朔は頭を下げた。
「朔という。宵士だ」
「聞いておる。乙姫から聞いた」
金長――隠神刑部と名乗った狸は、顎を上げた。
「東の人間が、西の大蛇を討つそうだな。そのついでに、ワシらに大人しくしておれと」
「大人しくとは言ってない。できれば手を貸してほしい」
「同じことだ」
金長は鼻を鳴らした。
「なあ、宵士どの。ワシは百年ばかりここを預かっておる。その百年で、東の人間から来た使いは三度だ。三度とも、こちらに何かを頼みに来た」
「今回で四度目か」
「四度目だ」
金長は腕を組み直した。
「三度とも、話が済めば来なくなった。困った時だけ来る。そういう相手を、そうやすやすと信用するわけにはいかん。ワシは中立だ。これは意地ではない。勘定だ」
金長は太い指を一本立てた。
「境州の連中につけば、こちらは前線になる。人間につけば、やはり前線になる。どちらにもつかんから、潮洲は百年焼けておらん。この島には妖怪もおるが、人間もおる。どちらも焼かずに済ませるには、どちらにもつかんのが一番安い」
「筋は通ってる」
「通っておるだろう」
金長は満足そうに腹を揺らした。
「だが、櫛名が落ちれば均衡が変わる。それは分かる」
「分かるのか」
「分かる。ワシは阿呆ではない」
金長の目が、細くなった。
「話を聞く用意はある。だが、その前に一つ、片づけてもらいたいことがある」
「仕事か」
「仕事だ」
金長は北のほうを顎で指した。
「山を二つ越えたところに、人間の集落がある。三十戸ほどの小さいものだ」
「幕府の領地じゃないのか」
「帳面の上ではそうだ。だが十五年、代官が来ておらん」
金長は一度、言葉を切った。
「そこで、妙なことが起きておる」
「妙なこととは」
「ワシの手の者が、三月で四匹消えた」
金長の声が、少しだけ低くなった。
「四匹とも、山で一人でおった連中だ。強くはない。人に悪さをするような手合いでもない。それが、消えた」
「死骸は」
「出ん」
金長は朔を見据えた。
「ワシは化かす側の頭だ。人間が何を考えるかは、だいたい分かる。今度の件は、分からん」
「集落の人間がやったと思ってるのか」
「思っておる」
「だが、確かめてないんだな」
「確かめれば済む話ではないからだ」
金長は腕を組んだまま続けた。
「ワシが兵を出せば、三十戸は焼ける。焼けば、東の人間がいずれ知る。知れば、潮洲は人を焼く土地になる。百年やってきたことが、それで終わる」
「じゃあ、放っておくのか」
「放っておけば、次はワシの手の者が十匹消える。そうなればワシの面目が立たん」
金長は鼻から息を吐いた。
「だから、お主が行け」
「俺が」
「お主は人間で、宵士で、東の使いだ。ワシの手の者でも、集落の者でもない」
陣羽織の前で、金長の腹が大きく上下した。
「見てこい。見て、始末をつけてこい。どうつけるかは任せる」
朔は金長の顔を見返す。
試されているのは分かった。
何を試されているのかは、まだ分からなかった。
「一つ訊く」
「なんだ」
「その四匹は、どんなやつだった」
金長の目が、わずかに動いた。
「……名を言うか」
「言えるなら」
金長の組んだ腕に、爪が食い込んだ。
「阿呆ばかりだ。木の実を集めるのが好きな女と、沢で寝てばかりおる年寄りと、二年前に生まれたばかりの兄弟だ」
朔は頷いた。
「分かった。行ってくる」
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