015 第五話 潮洲(一) 海の底の宮
一 海へ
船は三日で見つかった。
鷺宮の家中の者が走り回って、浪都の湊で一番古い船問屋を口説き落としたらしい。朔が湊に着いた時には、もう話がついていた。
仕事が早い。浪都では何もかもが早かった。
船は千石積みの弁才船で、船頭は六十近い男だった。名を源蔵という。
「潮洲まで、どのくらいだ」
「風がよければ二日でございます」
「悪ければ」
「五日でも六日でも」
源蔵は帆桁を見上げながら答えた。
「ただ、申し上げておかねばならんことが一つ」
「なんだ」
「潮洲の手前、五里ばかりのところで、こちらは引き返します」
朔は源蔵に向き直った。
「五里」
「はい」
「そこから先は」
「小舟をお出しします。漕ぎ手はつけられません。お一人で」
源蔵はそう言って、頭を下げた。
「殿様のお声がかりでございます。断れる話ではございません。ですが、水主どもの命までは差し出せませんので」
「それで十分だ。五里も運んでもらえりゃ、あとは泳いででも行く」
下げたままだった源蔵の頭が、跳ねるように上がった。朔は続けた。
「……海坊主か」
源蔵の肩が、わずかに動いた。
水主たちが遠巻きにこちらを見ている。誰も近づいてこない。
出航してから、朔は甲板で源蔵に話を聞いた。
「いつからだ」
「わたしが若い頃にはもうおりました。親父の代にもおりましたので、少なくとも六十年」
「見たのか」
「一度だけ」
源蔵は舵柄に手を置いたまま言った。
「三十年ばかり前です。潮洲の手前で、凪でした。夕暮れ時に、右舷の向こうに山が出ました」
「山」
「島だと思いました。そんなところに島はないと分かっておりましたが、山だと思う以外にありませんで」
源蔵は右手を上げて、水平線より上を指した。
「あれくらいまでございました」
「それは」
「二十丈、三十丈。分かりません。そういうものを測る目を持っておりません」
源蔵は手を下ろした。
「黒うございました。てらてらと濡れて、上のほうが丸い。目も口もありません。ただ、盛り上がって、こちらを向いておりました」
「向いた、と分かったのか」
「分かりました」
舵柄を握る源蔵の指に、力がこもった。
「それが、そのまま沈みました。何もせずに沈んで、それきりでした。……あの時は助かりましたが、助からなかった船も知っております」
「どれくらいだ」
「わたしが覚えておるだけで、九つ」
朔は海に目をやった。
波は穏やかで、西日が水面を割って細かく光っている。
「引き上げられた者は」
「おりません。船も、板一枚出てまいりません」
源蔵は舵を切った。
「だから、誰も何も知らんのです。見た者はみな帰ってこなんだ。帰ってきた者は、見ただけでございますから」
二 海坊主
三日目の昼に、小舟に移った。
櫂が二本と、水が一樽と、乾飯が少し。弁才船は帆を返して、みるみる小さくなっていった。
朔は漕いだ。
海は広い。陸が見えなくなると、方角の手がかりは日と波だけになる。源蔵から聞いた通りに、日を右後ろに置いて漕いだ。
半刻ほどで、風が止んだ。
波が消える。うねりだけが残って、水面が油のように滑らかになっていく。
朔は櫂を止めた。
右手の水面が、盛り上がりはじめた。
音がしない。それだけの水が動いているのに、しぶきも泡も立たない。黒い塊が持ち上がり、持ち上がり続けて、朔の首が上を向いた。
二十丈はあった。
上部が丸い。てらてらと濡れている。目も口もない。
朔は鯉口を切った。
小舟の上で刀は使いにくい。足場が動く。だが、跳べば足場は要らない。
海坊主が傾いだ。
倒れてくる。それだけの質量が落ちてくれば、小舟は跡形もない。
朔は跳んだ。
足元の空気を圧し潰して蹴る。破裂音がして、体が斜め上へ飛んだ。落ちてきた黒い塊が、すぐ下を通り過ぎる。海が割れて、水柱が上がった。
朔は空中でもう一度足場を作って、黒い塊の肩――肩に当たる場所へ跳んだ。
着地して、斬った。
手応えがない。
刃は通った。深く通った。だが、斬ったという感覚がない。骨も筋も内臓もなく、ただ抵抗のない何かを切り分けただけだった。
切り口から、水が落ちる。
海水だった。それと、砂と、拳ほどの石がいくつか。
二歩下がって斬り口に目をやると、もう塞がっていた。
水が寄り集まり、石が戻り、元の形になっていく。三つ数えるほどで、傷はなくなった。
朔は目を閉じた。
妖気はある。あるが、質が違う。
妖怪の瑛輝には芯がある。どこから出ているかが分かる。この塊にも瑛輝はあったが、芯がない。塊全体にうっすらと張り付いているだけで、どこにも集まっていない。
火車の谷で感じたものに似ていた。ただし、あれは場所に溜まった濁りだった。これは違う。
外から、誰かが持たせている。
朔はもう一度斬った。腕を落とした。海水と石が落ちて、また集まっていく。
三つ揃った。
手応えがない。斬っても戻る。妖気に芯がない。
これは体ではない。
朔は刀を下ろした。
鞘に納めて、両手を下げる。
海坊主が止まった。
振り上げかけていた腕が、途中で止まったまま動かない。首も動かない。朔を見ていない。見る目がない。
二十を数えても、そのままだった。
朔は息を吐いた。
こちらが手を出さなければ、向こうも出さない。そういう作りになっている。
問題は、ここから先だった。潮洲まではまだ四里はある。小舟は水柱でひっくり返って、二十間ほど先に浮いている。櫂は流れた。
朔が小舟のほうへ顔を向けた時、黒い腕が動く。
避けられなかった。
掴まれた。
握り潰される――と思った力は、来ない。海坊主は朔を包むように掴んで、そのまま体を海へ沈めた。
水が来る。
朔は息を止めた。宵士の体は人間よりは保つ。三百を数えるほどだ。それを過ぎれば人間と同じように死ぬ。
沈んだ。
深く沈んだ。光が薄れ、青が黒くなる。耳の奥が押される。
十を数えたところで、水が退いた。
朔を包んでいた掌の内側から、水がなくなっていた。海の中に、人ひとりぶんの空洞がある。空気がある。冷たくて、塩辛くて、息ができた。
朔は目を開けた。
水の壁の向こうに黒い指があり、指の隙間から暗い海が覗いている。
沈んでいく。
朔は刀の柄から手を離した。
斬らなければ何もしない。斬らなかったから、これは何かをしている。
招いている。
そう理解するのに、時間がかかった。
三 竜宮
どれくらい沈んだのか、途中で数えるのをやめた。
目算では二百丈を超えている。人間が潜れる深さではない。それだけ沈めば体が潰れるはずだが、空洞の中の空気は重くならなかった。
やがて、下に光が見えてくる。
青白い光だった。海の中にそんな色はない。
海坊主の掌が開いた。
朔は足から立った。地面がある。
石だった。平らに削られた石が、隙間なく敷き詰められている。継ぎ目は指も入らないほど細い。
顔を上げた。
都市があった。
柱が立っている。何十本も、何百本も、暗い水の中へ伸びている。柱の間に建物があった。石を積んだものではない。継ぎ目がなく、一つの塊を削り出したように見えた。
どの建物にも、窓がない。
そして、水がなかった。
朔は自分の手を見た。濡れていない。頭上を見上げると、はるか上に水面のようなものが揺れている。海がそこで止まっている。
歩いた。
石畳は乾いていた。青白い光は柱の根元から出ている。触れると冷たかった。
いくらか歩いたところで、朔は足を止めた。
おかしい。
朔は振り返った。
海坊主が降ろしてくれた場所が、すぐ後ろにある。
三十歩は歩いたはずだった。
朔はもう一度前を向いて、歩き出した。柱を数える。一本、二本、三本。十本目を過ぎたところで振り返った。
最初の場所が、すぐ後ろにある。
朔は柱に手をついた。
手のひらの感覚は正しい。足の裏の感覚も正しい。歩いた疲れもある。
距離だけが合っていない。
朔は右手を上げて、掌の前の空気を圧した。
一尺。
いつも通り、掌の前一尺の空気が固く縮む。どこにいても同じだ。二十年これをやってきた。
縮まなかった。
いや、縮んだ。縮んだが、縮んだ場所が掌の前ではなかった。
朔は手を下ろした。
背中を汗が流れる。海坊主を見上げた時よりも、深く沈められた時よりも、こちらのほうが嫌だった。
目に見えるものが嘘なのは、まだいい。幻術ならいくらでも見てきた。
これは、目が正しくて、空間のほうが違っている。
朔は歩き方を変えた。
柱を数えるのをやめて、光の強さだけを見た。青白い光は一箇所だけ濃い。そこへ向かって、まっすぐ歩くことだけを考えた。
途中で、階段を下りた。
下りきったところで、周りを見回す。
同じ高さだった。
下りたのに、さっきと同じ高さの柱が並んでいる。頭上の水面の位置も変わっていない。
朔は階段を見上げた。階段は上へ伸びている。今、そこを下りてきたばかりだ。
息を吐いた。
考えないことにした。
考えて分かるものなら、二十年やっていれば一度は分かっている。分からないものは、分からないまま扱うしかない。宵士の仕事とはそういうものだった。
光の濃いほうへ歩き出したところで、前方で何かが動く。
柱の陰から出てきたものを、朔は最初、石だと思った。
甲羅だった。
差し渡し四尺ほどの、黒い甲羅が動いている。前のほうから皺だらけの首が伸びていて、その先に顔がある。目が白く濁っていた。四本の足はどれも太く、短い。
亀だった。
こちらへ向かってきている。向かってきているというのは正しくない。足を出し、置き、また出すのに、一つ一つ間があった。
「……お」
声が出た。低く、掠れていて、ひどく遅い。
「……お迎えに……上がりました」
朔は少し待った。
「迎え」
「……はい」
亀は首を伸ばした。伸ばしきるまでに、三つ数えるほどかかった。
「……小生……姫様に……お仕えする……者で……ございます」
「姫様というのは」
「……この……竜宮の……主に……ございます」
「ここまで、どのくらいかかった」
「……半刻ばかり……」
亀は首を少し縮めた。
「……お待たせを……いたしました……」
朔は亀と、亀が来たほうを見比べた。柱の列は、せいぜい三十間ほどしかない。
「名は」
「……名は……ございましたが……」
亀はゆっくり瞬きをした。
「……八百年……呼ばれて……おりませんので……忘れました……」
「八百年」
「……姫様が……こちらに……来られる……前から……おりますので……」
朔は返す言葉に詰まった。
「じゃあ、何と呼べばいい」
「……小生で……結構で……ございます」
亀は足を一歩出した。置くまでに、また間があった。
「……では……ご案内……いたします……」
一歩。
朔は、その一歩の距離を目で測った。
五寸ほどだった。
「小生」
「……はい」
「その主のところまで、どのくらいある」
「……二町ばかり……で……ございましょうか……」
「その足でか」
「……はい」
「日が暮れるぞ」
「……ここには……日が……ございません……」
朔は額を押さえた。
「担いでいいか」
亀の首が、ゆっくりと止まった。
「……は」
「あんたを担ぐ。道はあんたが言え。俺が歩く」
「……いえ……そのような……」
「早いほうがいいんだろう」
「……早いほうが……よろしゅうございますが……」
「じゃあ担ぐ」
朔は屈んで、甲羅の下に腕を入れた。
重い。見た目の倍はある。石を担いでいるのと変わらなかった。
「……これは……なんとも……」
「文句は後で聞く。どっちだ」
「……左で……ございます……」
朔は左へ歩き出した。
背中の上で、亀の首がゆっくり動いているのが分かる。
「……次の……柱を……越えましたら……右へ……」
言われた通りに右へ曲がると、そこはさっき通った場所だった。通ったはずなのに、違う方向へ道が伸びている。
「……そこを……まっすぐ……」
「なあ、小生」
「……はい」
「ここは、歩いた距離と進んだ距離が合わん」
「……はい」
「気にならんのか」
「……八百年……おりますので……」
背中で、亀の首がのろのろと揺れた。
「……そういうもので……ございます……」
朔は歩いた。
階段を上れと言われて、上がる。上がった先は、下の階だった。
柱を三本数えて左だと言われて、その通りにした。
そうして歩いているうちに、青白い光が濃くなってくる。
「……そこを……抜けますと……」
やがて建物が途切れて、広い場所に出た。
円い広場だった。中央に一段高い台があり、その上に椅子のようなものが据えてある。
椅子に、誰か座っていた。
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