014 第四話 浪都へ(三) 評判通りの領主
六 浪都
浪都に入った時、朔は道を間違えたかと思った。
町が明るすぎる。
潮見街道を西へ下れば下るほど、宿場は寂れるものだった。田は荒れ、橋は落ちたままになり、街道沿いの飯屋が減る。西は妖怪の領域に近い。人が減るのは当たり前だった。
浪都は違った。
城下に入る前から道が広い。両側に石を組んだ水路が通っていて、水が澄んでいる。橋が三つあって、三つとも新しかった。
町に入ると、店が並んでいる。表通りだけではなく、裏の通りにも人がいた。米屋の前に行列ができていて、その行列が怒鳴り合っていない。
子供が多い。
朔は歩きながら数えた。一町歩くあいだに、十四人。走り回っている子供が十四人いる土地を、この二十年で何度も見ていない。
飯屋に入って、飯を食った。安かった。
「いい町だな」
朔がそう言うと、店の女が笑った。
「よそからの方ですね」
「蔵都から来た」
「まあ、遠い」
女は茶を注ぎ足した。
「十年前までは、ここもひどいもんでしたよ。西から流れてくるものがあるって言って、夜は誰も出ませんでしたし。それがねえ」
「変わったのか」
「お殿様が変わりました」
女は当たり前のことのように言った。
「先代が亡くなって、今の殿様になってから。堀を掘って、水路を引いて、飢饉の年には蔵を全部開けて。うちの人なんか、あの年に食うものがなくて、お城の炊き出しで生き延びたんです」
「そうか」
「変わった方ですけどねえ」
女の口元がほころんだ。
「変わった」
「なりが。金ぴかの羽織を着ておられるんですよ。お城から出てくると、遠くからでもすぐ分かります」
朔は箸を置いた。
「会ったことがあるのか」
「町をお歩きになりますから。声も掛けてくださいます」
女は湯呑みを片づけながら続けた。
「ありがたいことです」
朔は飯屋を出て、城へ向かった。
城門で名と用件を告げる。
待たされなかった。
門番が中へ走って戻ってくるまで、二十数えるくらい。そのまま通された。
蔵都では三刻待った。名を名乗る前に、四日かけて名乗り方を習っている。
浪都では、草履を脱ぐ間に案内がついた。
七 謁見
通されたのは大広間だった。
蔵都の広間より広い。天井が高く、欄間の彫りが細かい。畳の縁がどれも新しかった。
上段に人がいる。
朔は敷居の前で止まり、名を名乗った。四日かけて習った言い方だった。
「宵士、朔にございます」
「ああ、どうも」
軽い返事が返ってきた。
朔は進んで座り、両手を畳につき、額を近づける。つけなかった。
「そんなにかしこまらなくていいですよ。顔を上げてください」
朔は顔を上げた。
そして、総毛立った。
上段の男は、聞いた通りの姿をしている。金糸を織り込んだ羽織は派手だが、趣味が悪いというより、目立つことを目的にした着方に見える。髪は結わずに乱れたまま肩にかかり、顔は白い。痩せていて首が細く、袖から出た手首が骨ばっていた。若い。三十にはまだ届いていないだろう。
その男の、後ろ。
女が立っていた。
大陸風の衣装だった。合わせが浮桑のものと逆で、裾が長い。髪を高く結い、簪を何本も挿している。朔は、いつの間にかその数を数えていた。八本。顔立ちは整っていた。整いすぎていて、作り物のように見える。
朔が見ていたのは、顔ではなかった。
いつ入ってきた。
朔は敷居の前で止まった時、広間の中を見ている。上段に一人。控えの者はいなかった。
平伏していたのは、十を数えるほどの間だ。
そのあいだに、女は上段の後ろに立った。
朔は音を聞いていない。
衣擦れも、足音も、畳の沈む音もしなかった。長い裾を引いて歩けば、必ず音が出る。出ていない。
朔は目を閉じたい衝動をこらえた。
閉じなくても分かる。宵士の体は、瑛輝の在り処を拾う。十間先の妖怪でも、壁一枚隔てた妖怪でも分かる。谷に溜まった濁りも、子供の中に詰まったものも分かった。
三間先に立っている女から、何も感じない。
人間と同じだった。
それなら人間なのだろう。人間が、音を立てずに三間を歩いた。それだけのことだ。
だが、朔の背中は逆のことを言っていた。
肩から腰にかけて、鳥肌が引かない。喉の奥が乾いている。膝の裏に力が入らない。
これは、格上の妖怪を前にした時の反応だった。
五年前、遠洲の北で吸血鬼の巣に踏み込んだ時と同じものだ。あの時は、感じるものがあった。壁越しに濃い瑛輝があって、体が勝手に警戒した。
今は、何もない。
何もないのに、体だけが同じ反応をしている。
「宵士の方が来られるとは聞いていましたが」
鷺宮が口を開いた。
声は高くも低くもない。
「わざわざ蔵都から。ご苦労なことです」
「上様よりの文を預かっております」
声が普通に出たことに、朔は自分で少し驚いた。
「ああ、はい」
鷺宮は片手を出した。
朔は文箱を前へ進めた。広間の脇から人が出てきて、受け取って上段へ運ぶ。この者は音を立てている。畳が鳴り、衣が鳴った。
鷺宮は文を開いて、目を落とした。
読むのが速い。
「櫛名ですか」
「はい」
「なるほど」
鷺宮は文を膝に置いた。
「私が申し上げた通りになりましたね。いや、お役に立てて何よりです」
「進言をなさったと伺いました」
「あれが一番、討ちやすいので」
鷺宮は指を一本立てた。
「鬼は若くて強い。妖狐は子が多い。櫛名は一人です。孤立している者から崩すのが道理でしょう」
「はい」
「協力は惜しみません。兵も出しましょう。西の道のことは、うちの者が一番よく知っていますから」
話は早かった。
驚くほど早かった。渋りもせず、条件も出さず、内容だけが順に決まっていく。潮洲までの舟の手配まで、鷺宮のほうから申し出てくる。
朔は受け答えをしていた。していたはずだった。
だが、返事が二度、遅れている。
一度目は舟の話の途中で、二度目は道案内の人数を訊かれた時だった。どちらも、鷺宮の言葉が耳に入っていなかった。
女は一言も喋らない。動きもしない。ただ、鷺宮の斜め後ろに立っている。
それだけのものに、意識が持っていかれる。
三度目に返事が遅れた時、鷺宮が話を止めた。
「奇蓮が気になりますか」
朔は我に返った。
鷺宮は笑っている。悪気のない笑い方だった。
「よく言われるんですよ。珍しい格好をしていますからね」
鷺宮は親指で後ろを指した。
「私の父が、若い頃に大陸へ渡ったことがありましてね。その時に、身寄りのない子供を拾って連れて帰ったんです。それが奇蓮です。以来ずっと、私の身の回りの世話をさせています」
「……左様でございますか」
「言葉が達者ではないので、黙っていますが。気を悪くなさらないでください」
「いえ」
朔は頭を下げた。
話は通っていた。
大陸の衣装を着ている理由も、喋らない理由も、主の後ろに立っている理由も、一つの説明で全部片づく。何一つ引っかからない、よくできた話だった。
足音がしなかったことだけが、その話のどこにも入っていなかった。
「では、そのように」
鷺宮が話を締めた。
「何かご入用のものがあれば、遠慮なく。長旅でしょうから」
「痛み入ります」
「いえいえ」
朔は平伏して、下がった。
敷居を越える時、一度だけ振り返った。
鷺宮が手を振っている。
その後ろで、女が朔を見ていた。
目が合った。
何の表情もない。
朔は廊下に出た。
城門を出て、町の通りに立ってから、ようやく息を吐いた。
鳥肌はまだ引いていない。
通りは明るい。水路の水が澄んでいて、子供が走っている。米屋の前の行列が伸びている。
朔は町を眺めた。
米屋の行列の脇で、年寄りが一人、縁台に腰掛けて茶を啜っていた。朔の帽子を見て、目を細める。
「宵士さまかね。お城の帰りかい」
「ああ」
「殿様に会いなすったか。ありがたいお方だよ」
年寄りは湯呑みを両手で包んだ。
「飢饉の冬の粥はな、殿様ご自身が柄杓を持って配っておられたんだ」
「殿様が、自分でか」
「自分でさ。並んだ者の顔を、一人ずつ見てな。身寄りのない者には、お城で働き口まで世話してくだすった」
年寄りは、城のほうへ小さく頭を下げた。
「あんなお方は、ほかにおらんよ」
朔は、城の屋根を見上げた。
疑っているのは、自分の背中だけなのかもしれない。
何も間違ってはいない。
文は渡した。協力は取り付けた。領主は評判通りの人物で、話が早く、腰が低く、政も行き届いている。町は豊かで、人は笑っている。
報告すべきことは何もない。
背中がおかしいとは、書けなかった。
第四話「浪都へ」、完結です。
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