013 第四話 浪都へ(二) 妖血丹
四 妖血丹
立ち方がおかしかった。
背中を幹に打ちつけられて、肋が何本か折れているはずだ。それなのに、痛がる素振りがない。息も乱れていない。
朔は月明かりの下で、男の顔を見た。
白目が赤い。充血ではなく、血が回りすぎている色だった。首筋に血管が浮いて、こめかみのあたりで脈打っている。口の端に滲んでいる血は、歯茎から出ているらしい。
朔は舌打ちをした。
「妖血丹か」
男の眉が動いた。
それが答えだった。
妖血丹は、妖怪の血から作る。人間の体に入れると、膂力と反応が跳ね上がり、痛みも鈍る。一時的に、人間が人間でなくなる。
陰陽連が禁じている。理由は単純で、人間の体が瑛輝に耐えられないからだった。
斜面の上から、梓が矢をつがえたまま見ているのが分かる。射てば当たる。だが当たっても、今の男は倒れない。
「どのくらい服んでる」
朔は訊いた。
答えは返ってこない。
男が踏み込んだ。
速度が上がっている。さっきまでとは別物だった。朔は跳ばずに横へ転がり、松の根を足場にして起き上がった。追撃が来る。二撃、三撃。刃が松の幹を削り、枝を落とした。
朔は受けなかった。
夜蛭で受ければ刃は保つ。だが受けるたびに押される。押されれば林の外へ出る。外へ出れば道があって、倒れている盗賊たちがいる。
朔は退がりながら、数えていた。
妖血丹は長く保たない。半刻も効かない。効いているあいだは人間を超えるが、切れた時に体が帳尻を合わせる。血管が破れ、筋が切れ、内臓が止まる。
常用していれば、その前に体が壊れる。
男の首の血管は、明らかに常用の形をしていた。
朔は退がった。
林の奥へ、木の多いほうへ。男が追ってくる。木が邪魔になるのは朔も同じだが、刀の長い男のほうが不利だった。
四度、五度と、枝に刃が引っかかる。
六度目で、男の動きが止まった。
止まったのではない。膝が落ちたのだ。
男は片膝をついて、刀を杖にした。肩が上下している。口から血が糸を引いて落ちた。
朔は立ち止まって、それを見ている。
男が顔を上げた。
白目の赤が引きはじめ、代わりに顔から色が抜けていく。
「……手間を、かけさせた」
初めて声を聞いた。
落ち着いた声だった。乱れていない。
「ここまで、待ったか」
「待った」
朔は短く答えた。
「勝てんかったからな」
男の口の端が、わずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。
「……嘘だ」
「なんだと」
「その気になれば、勝てておった」
男は息を継いだ。
「最初に一度、妙な手を使うたな。掌で押した。あれをもう一度、深く出せば、わたしは立てなんだ」
男は肩で息をしている。
「出さなんだのは、この先に使うところがあるからであろう」
男の白目からは、もう赤がほとんど引いていた。
「それもある」
朔は一度、言葉を切った。
「もう一つある」
男は、先を待った。
「お前の剣だ」
朔は夜蛭の柄に手を置いたまま続けた。
「最初に打ち合った時に分かった。あれは、ずっと振ってきた剣だ。誰に見せるためでもなく、毎日、何年も」
男の目が、わずかに動いた。
「強くなりたい剣だった」
林の奥で、枝から雫が落ちる音がした。
「薬が回ってからは、違った。速くて重いが、それだけだった。中にあったものが、なくなってた」
男は膝をついたまま、朔を見上げている。
「薬の切れたお前と、やりたかった」
朔の声は低かった。
「薬ごと斬れば、俺は薬を斬ったことになる。お前を斬ったことにはならん」
林の中が静かだった。
男は長いこと、朔を見ている。
それから、目を伏せた。
「……律儀なことだ」
男は刀を地面に置いた。
姿勢を直す。片膝をついたまま、背筋を伸ばし、両手を膝に置く。
どこで身につけたか分かる座り方だった。
朔は刀を抜いた。
「十一件だな」
「……十一だ」
「何人殺した」
「七人」
「全部お前か」
「わたしが四人。あとは連中だ」
男はそう言って、少し息を継いだ。
「連中は、荷だけでよいと言うた。わたしが殺した」
「なぜだ」
朔は待った。十を数えるくらい。
男の口は閉じたままだった。
「そうか」
朔は間合いに入った。
「言っておくが」
夜蛭の切っ先が、男の肩口の高さで止まった。
「妖怪なら、まだわかる。腹が減ったとか、そういうものが生まれつき入ってるとかな。斬るにしても、そこは勘定に入れる」
男は顔を上げなかった。
「お前は違う。考えて、決めて、やった。四人だ」
夜蛭を構えた。
「そのぶん、たちが悪い」
男は目を閉じた。
朔は斬った。
斜面から梓が下りてきたのは、だいぶ経ってから。
朔は男の懐を探っていた。出てきた紙包みを開くと、黒褐色の粒が三つ入っている。乾いた血の匂いがした。
梓はそれを見て、口をつぐんだ。
道に戻ると、倒れていた盗賊のうち三人がいなくなっていた。残りは縛って、宿場まで引いていく。矢を抜く時に一人が泣いた。
宿場の番所に引き渡して、貼り紙の三十両を受け取ったのは、明け方だった。
「半分持ってけ」
「要らないわ」
「矢を五本使ったろう」
「六本。でも、あなたが前に出なかったら私は逃げてた」
「それでも半分だ」
「じゃあ十両」
「十五だ」
「十両でいい」
梓は十両だけ取って、残りを朔の手に押し戻した。
「あなた、路銀が足りてないでしょう」
朔は梓の顔を見直した。
「なんで分かる」
「草履が新しくて、宿が安いから」
「草履は仕事道具だ。宿は……まあ、その通りだ」
梓は矢筒を担ぎ直した。
五 別れ
宿場の外れで日が昇った。
二人は茶屋の床几に座って、朝飯を食った。梓はよく食う。体が大きいぶん当然だった。
「あの薬」
梓のほうから口を開いた。
「妖血丹?」
「そうだ」
「どこで手に入るの」
「まっとうな道では手に入らん」
朔は湯呑みを持った。
「妖物商は幕府の鑑札で動いてる。何を仕入れて何を売ったか、帳面に書いて出す。妖血丹は禁制だ。鑑札持ちが扱えば鑑札が飛ぶ」
「じゃあ鑑札のない商人がいる」
「いる」
湯呑みの中で、茶柱が傾いだ。
「どこにでもいる。妖怪の死骸ってのは金になるからな。宵士が討ったやつを買い取って、まっとうな品は表に流して、まっとうでないものは裏に流す」
「あなたも売るの」
「売る」
梓が少し驚いた顔をした。
「討った妖怪をどうすると思ってた」
「……埋めるのかと」
「埋めるやつもいる。俺は売る。売った金で瑛丹を買う。その瑛丹も妖怪から作ってる」
朔は茶を飲んだ。
「ただ、売る相手は選ぶ。鑑札持ちにしか売らん」
「その浪人が服んでたものも、誰かが売ったのね」
「そうだ」
「誰が」
「分からん」
朔は湯呑みを置いた。
「調べる筋もない。禁制品の出所を辿るのは町方の仕事で、俺の仕事じゃない。番所には言った。それで終わりだ」
梓は床几の端に置いた弓へ、一度目をやった。
「気持ち悪いわね」
「そうだな」
二人はそれきりその話をしなかった。
飯を食い終わって、梓が矢筒を背負った。
「あなた、これからどこへ」
「浪都だ」
「浪都」
「そのあと潮洲へ渡る。それから境州の西端へ行く」
梓が眉を寄せた。
「境州の西端って」
「櫛名がいる」
梓は箸を置いた。
「討つの」
「討つ」
「幕府から?」
「そうだ」
梓は朔の顔をしばらく見て、頷いた。
「そう」
理由も訊かず、危ないとも言わなかった。
「浪都には何の用」
「協力を頼みに行く。領主に文を渡す」
「領主」
「鷺宮寿玄という」
「聞いたことがある」
梓は立ち上がった。
「街道で評判がいいわ。西から来る商人がよく話してる。飢饉の時に蔵を開けたとか、水路を引いたとか」
「そうらしいな」
「珍しいわね。領主の評判が街道まで届くのは」
梓は弓の弦を確かめて、背に負った。
「私は北へ行く。そっちで仕事がある」
「そうか。熊が出たら、今度は春まで待つなよ」
「待たないわ。あれは、待たされたの。終わったら、また」
「ああ。次は飯を奢る。十両の礼だ」
二人は潮見街道の分かれ道で別れた。
梓は一度も振り返らず、朔も見送らない。
これまでの四度も、そうだった。
ブックマークをつけていただけると、次の話を書く手がはかどります。




